KHM153 / 序章 灰雪と銀狼のエピローグ

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 *****  短い眠りから覚めたアンナは、いつものワンピースに着替え、午前中をたっぷりと使ってビーフシチューとサラダを準備した。冷えたパンを暖炉のそばに置いて温め、毛布と一緒に藤かごへいれて地下牢へ続く階段を降りる。 「眠りの君さま」  名前を呼びながら階段を降りきったアンナは、はたと足を止めた。黒髪の青年は壁に背を預けて眠っている。  足音を忍ばせて鉄格子に近づいたアンナは、これまたいつもと同じようにしゃがみこんで、眼鏡をそっとずらした。  陽光を弾く黒髪に滲むような青が混じっていること、思いのほかまつげが長いこと、眠っていても眉間に皺を寄せていること。貴公子のような整った顔立ちなのに、手は骨ばっていて、男の人という感じなのだ。いくつかの新たな発見は、心臓を甘くざわつかせ、アンナは悩ましく息をつく。 「んんん……眠りの君さま……」 「……妙な声をだすのはやめてくれ」  平坦な返事とともに、青年が目を開けた。無感動だけれど、ほんの少し迷惑そうな視線だ。瓶底眼鏡を押し上げながら、アンナはうきうきと声をかける。 「おはようございます、眠りの君さま。今日もとってもいい朝ね」 「何をしに来た」 「それはもちろん、お世話を……あっ、待って、待って! お世話って、決して変な意味ではないのよ!? 夜の営みとか、そういう意味ではなくてね!?」 「要件を言え。手短に」  アンナは手元の藤かごを引き寄せた。 「食事を準備してきたの」  青年が半眼になり、次いでふいと顔をそむけた。 「必要ない」 「こっちは毛布よ。三日前に干したばかりだから、虫除けのセージの香りもしないはず」 「必要ない」 「それからこれは本」 「必要ない」 「ええもちろん」アンナはすまし顔で本を揺らした。「わたくしが読むために持ってきたのですもの」  青年が唇を引き結んだ。どこか子供らしい沈黙が愛おしくて、アンナはこらえきれずに笑う。  毛布を格子の間から差し入れて、アンナは冷たい石の床に座った。本を開いたところで、青年がぼそりと言う。 「こんな寒い場所に居座るつもりか」 「大丈夫よ。これくらい慣れっこなのだわ」 「他にもやることがあるだろう」 「それも大丈夫。夕飯の支度もしたし、冬だから花の世話もないわ。読書だけがわたくしの仕事よ」 「そんなはずは」アンナがちらと顔を上げれば、青年が一度口を閉じたあと、目をそらした。「……読書が仕事の人間なんていないだろう」 「わたくしには、去年の冬より前の記憶がないの」  黙り込んでしまった青年に、アンナは肩をすくめた。  彼女が目を覚ましたのは、図書室(ライブラリ)だった。千切れた本の紙片がばらまかれていて、足元には黒光りする拳銃が落ちていた。窓には映っていたのは、蒼白な面持ちの若い女だ。肩に少しかかるくらいの灰色の髪と、凍りついた青色の目をしている彼女が自分であるということに気づくのに、少しだけ時間がかかった。  自分が何者かわからない。典型的でありふれた記憶喪失だ。  アンナは本を閉じて、表紙に手をおく。 「でも、本には過去が書かれているでしょう? だから、たくさん読めば欠けた記憶も補えるはず」 「本気で言ってるのか」 「もちろん」怪訝な顔をする青年へ、アンナは微笑む。「だって、アンナ・ビルツは有名人ですもの」  彼女の写真や絵姿はない。けれど多くの書物が、彼女について記している。  アンナ・ビルツは、この国の最後の王女だった。王と貴族の圧政に苦しむ民を救うため、彼女は革命を起こし、成功させた。貴族は粛清され、ほとんどの王族は断頭台の露と消えた。三年前の話だ。  その後の革命家は表舞台から身を引き、婚約者とともに屋敷で暮らすこととなる。春になれば国中から魔女を集め、夏を共に過ごし、秋に魔女たちを見送る。そんな日々だ。  わたくしがアンナ・ビルツと同じ人生を歩めているかは、分からないけれど。腹の底をちりと焼くような不安から逃げるように、アンナは明るく言った。 「いずれにせよ、読書は楽しいわ。花咲く楽園の美しさも、真夏の青葉のみずみずしさも、冬の寒さをしのぐ二人きりのぬくもりも、なんだって書いてあるのだもの。世界は美しいし、わたくしたちは世界に愛されている。文字を読むだけでそれを感じられるのって、素晴らしいことだと思わない?」 「……世界は僕たちを愛してなんかいない」  青年の声が急に低くなった。アンナが顔を向けたときにはもう、彼は目を閉じている。 「眠ってしまわれるの? せめて、ご飯だけでも食べたほうがいいんじゃなくて?」 「必要ない」 「でも」純粋に青年の体調が心配になったアンナは、ビーフシチューを持って立ち上がった。「もうずっと食べてないでしょう? 体に良くないわ。動けないのなら、わたくしが持っていって、」 「入るな」  警告に満ちた鋭い声に、アンナは牢屋の扉にかけていた手を引っ込めた。冷え切った鉄の温度が、指先に切り裂くような痛みを残す。  名前を呼んでも、もう返事はなかった。アンナはきゅっと唇を噛み、それでもと心の中で呟いて、料理の皿を格子の前に置く。  とぼとぼと階段を登って地下牢を出た。日が落ちる寸前にもう一度だけ青年の様子を見に行ったが、料理は一口も食べられぬまま、冷たい暗闇に放置されていた。
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