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冬の夜の空気は凍りつくほどで、鳥の鳴き声は氷を叩き割る音に似ている。
使われていない寝室に身を潜めたアンナは、閉じた扉に耳を当てていた。足音が聞こえないか確かめたかったからだ。けれど気になるのは耳障りな鳥の鳴き声ばかりで、少しだって集中できない。
嘘だ。ずっとずっと、頭の中で繰り返し響いているのは彼の声だった。必要ない。突き放すような、拒絶の言葉だけ。
アンナは床に目を落とす。氷の柱を突き立てられたみたいに、心臓が痛い。わたくしのせいだわ。おしゃべりしすぎてしまったせい。うるさい口を閉じて本だけを読んでいればいいと、婚約者も言っていたのに。浮かれていた自分が恥ずかしい。
愛だとか、恋だとか。お前には一番似合わない言葉じゃないか。なぁ、アンナ・ビルツ。
薄ら笑いの婚約者の言葉をなんとか思考の隅に追いやって、アンナは冷たいドアノブをひねって外に出る。
どんな時間を過ごしたところで、夜になれば狩りが始まるのだ。この日も、暗い廊下をいくばくか歩いたところで、かちゃりと金属の響き合う音がした。
アンナは振り返る。青黒い闇に沈む廊下で、例の狩人の男が銃口を向けている。発砲音が響く寸前で、アンナは廊下の端へ転がるように駆けた。頬をかすめるような痛みがあって、足が止まりそうになる。
駄目よ。怖がらないで。いつもどおりに。己に強く言い聞かせて、アンナは男に向かって歩を進めた。冷たい眼鏡をずらして叫ぶ。
『深緑の慟哭!』
放たれた銃弾三発がアンナの眼前でかき消える。ひるんだ男を体当りで突き倒し、アンナは銃へ手を伸ばした。
「暴れないで! あなたを傷つけるつもりはないわ!」
「どの口が! お前がヨハネスたちを殺したんじゃないか! 魔女殺し!」
「っ、それは、」
なんとか猟銃をもぎとった瞬間、男に右頬を強く殴られた。眼鏡が外れ、アンナは地面に倒れ込む。近づいてくる男に、アンナは慌てて目を隠した。
「見ないで!」
男の手は止まらなかった。だが、アンナに届くこともなかった。
夜色の影が、二人の間に割ってはいったからだ。影が男を突き放して振り返る。それは人間だ。右手に持った短剣が月明かりを弾いている。
だが、味方ではなかった。
短剣の切っ先も、凍えるような殺気もアンナに向けられていたからだ。
恐怖のまま、彼女は猟銃の引き金を引いた。男の肩のあたりで鮮血が散って、動きが止まる。そう、相手は男だ。美しい青年。背が高く、青の滲む黒髪を持つ。
アンナは銃を中途半端に構えたまま、呆然と呟いた。
「……眠りの君さま……」
牢の中にいるはずの青年は、返事をしなかった。灰をまぶした炎の瞳を凍りつかせたまま、しばらくして廊下の奥から響いた呼び声にぴくりと体を震わせて身をひるがえす。
呼ばれたのは、きっと青年の名前だったのだ。
『王狼』というのは、まさに彼にぴったりの響きだったから。
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