KHM153 / 序章 灰雪と銀狼のエピローグ

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【02】  夜が明けて、擦り切れたソファの背もたれがほんのりと(しら)んでも、アンナは眠ることができなかった。  暖炉に火を入れ、氷を溶かしたような冷水で顔を洗い、着古したワンピースを着て、硬いパンを食べる。その間中ずっと、眠りの君のことだけを考える。  どうして彼がいたのだろう。そもそもあれは本当に彼だったのか。いいや、見間違えるはずがない。  なら、わたくしは彼に銃を向けたのだわ。何度も何度も繰り返した結論に至って、アンナは体を震わせた。  食べかけのパンをテーブルの端に寄せ、アンナは口元を手でおおった。そうでなければ、自己嫌悪のあまり吐いてしまいそうだった。仮にも好きと思った相手を、撃つなんて。  窓の外で、鳥が羽ばたく音がする。アンナはのろのろと顔を上げた。今日は晴天で、窓は結露で輝いている。静かで明るい朝だ。まるで昨日ことが夢のようだった。  彼は、やっぱり今も地下牢にいるのかしら。それとも、夢みたいに跡形もなく消えている?   もしかして、昨日の銃弾のせいで死んでしまったりとか。なんの根拠もない想像に顔を青くして、アンナは立ち上がった。  もつれるようにして廊下を駆け、地下牢に飛び込んだアンナは息をのむ。  青年は、牢の中でうつ伏せに倒れていた。左手で押さえられた肩は黒っぽい血でべっとりと濡れ、ひたいには汗が滲んでいる。薄く開いた唇から苦しげな息が漏れていて、それでやっと彼が生きているらしいことが分かった。 「眠りの君さま……」  アンナはそろりと名前を呼ぶが、答えはない。当たり前だ。彼は死にそうなんだから。  それで、自分は彼を見殺しにする? ひどく冷たい問いかけが胸中に浮かんで、アンナはぶるりと体を震わせた。駄目、駄目よ。見殺しなんて、そんなの。  一段とばしで地下牢の階段を駆け上った。屋敷中の薬瓶と包帯を集め、熱い湯を注いだ木筒と一緒に藤かごへいれる。図書室(ライブラリ)でばたばたと幾冊かの本を抜き取り、治療に関わる本を抱えてから、慌ただしく地下牢に戻った。 「止血帯……幅の広い帯でまんべんなく力をかけて結ぶ……流れている血が赤いなら鮮血……待って、今は黒いわ。なら、血が止まりかけてるということ? なら、こっちの項目の……」  眼鏡を外す。ざらざらの紙を乱暴にめくって、何度も読みこんだ文章を、さらに何回か読み返しながら、遠目に傷口を確認した。自信なんて一つもないまま、立ち上がる。牢屋の扉に手をかける。  入るな、という拒絶の声を思い出した。それを振り切るように牢の中に入った。  血で滑りやすい石床を進んで、青年のそばに膝をつく。小声で謝って、血まみれの青年の手を肩から外した。手は恐ろしいほどに冷たい。くぐもった声は掠れていて、べとつく血の臭いは死の香りそのものだ。  アンナはぎゅっと唇を噛んで、藤かごを引き寄せる。  本に書かれていたとおりに手を動かした。幸いにして傷口は浅かった。そして、乱雑に切られた薄布が何枚か――血を吸いすぎているせいで、何かの役に立っているとは思えなかったが――あてがわれてもいた。なんらかの処置がなされた後だったのだ。ならばどうして、彼はこんなに冷たい床の上で放置されているのだろう。分からなかった。  青年のことで、アンナが知っていることは何一つとしてない。  止血の布を取り替え、肩の周りにこびりついた血をぬぐい、汚れた服と傷口が触れ合わないように、さらに何枚か布を挟んで服を整えた。青白い顔の青年はやっぱり目を覚まさない。アンナはさらに本のページを幾枚かめくり、ラベルを慎重に確認して痛み止めの瓶を取りあげた。  丸薬(がんやく)を一つ、水とともに口に含んで細かく砕いた。ごめんなさい、ともう一度だけ心のなかで謝って、アンナは青年の口元に手を添えた。唇を重ねる。 「っ……や、めろ……!」 「あっ……」  思いのほか強い力で体を押され、アンナは尻もちをついた。渡しきれなかった苦い薬が口の中に滲む。青年はうつ伏せになって何度も咳き込んでいる。  薬を吐き出そうとしているのだ。その事に気づいて、アンナは「駄目よ」と声を震わせた。 「飲んで。お願い。痛み止めの薬なの。毒なんかじゃないから」 「……っ、必要……ない……」 「そんなことないわ。だって、すごく苦しそうじゃない。傷も、だって、血がいっぱいでてるのよ」 「……必要、ない……」 「必要ないわけ、ないじゃない!」  アンナは泣きながら、床に転がった薬瓶をつかんだ。新しい丸薬を奥歯で噛んで、「ほら!」と声をかける。 「毒なんてないわ! だからお願い、飲んで……! このままじゃ死んじゃう……! そんなの、駄目! 駄目なのよ……!」  沈黙が落ちた。湿った衣擦れの音がして、アンナはまた突き放されるのかもしれないと、身を固くした。違った。  青年が、アンナの胸元をつかんで弱々しく引き寄せる。再び唇が重なって、アンナは目を見開いた。口の中をまさぐる舌は熱い。苦くて、血の味がする。  唾液を飲み込む密やかな音とともに、青年がアンナを離した。口元を手でぬぐい、顔をそむける。 「塩辛い……」 「……塩、辛い……のは……」アンナは呆然と呟いた。「分からないわ……なにもいれてないはずだけれど……」 「君が泣いているせいだろう。泣く理由なんて、どこにもないだろうに……悪いが、せめて牢の外に出てくれ……殺してしまうかもしれない」  アンナはぼんやりと頷いて立ち上がった。青年が苦労して鉄格子に背を預けたので、アンナも同じ場所に背を向けて座り、膝を抱える。
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