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天井につけられた小窓から、鳥のはばたく声がした。痛みに耐えるような青年の息遣いは相変わらずで、アンナは彼の気でも紛らわせようと口を開く。
「殺すっていうのは、どういうことか訊いてもかまわない……?」
「……命じられたからだ。僕は逆らえない」
「あなたをこの牢から出した人に?」
「そうだ」
「あなたは……」アンナはあちこちが欠けた石床をじっと見つめた。「王狼と呼ばれていたわ。それが名前なの?」
「名前ではない。〈王狼〉は僕以外に与えられるべき過去の栄光だから」
最後の返事はぶっきらぼうだけれど、どこか滲むような優しさもある。アンナは思わず聞き惚れた。こんな声も出せるのだわ、と思うと胸が甘く痛む。
短い沈黙のあと、「それで」と青年が尋ねる。
「君はどうして、あんな場所に?」
ふわふわと浮かれていたアンナは、我に返った。そうだ、わたくしは彼のことを撃ったのよ。昨晩の恐ろしいほどの寒さを思い出して、アンナはぎゅっと己の体を縮こまらせる。
「……ごめんなさい。あなたに怪我をさせてしまったわ……」
「自己防衛という意味では正しい選択だったのだから、気にしなくていい」
「でも、」
「それよりも、君の置かれた状況を教えてくれ。真夜中の屋敷を逃げ回るなんて、どう考えたっておかしい」
「おかしくはないわ。毎晩のことだもの」
「毎晩?」
「そうよ」
当たり前のことのはずなのに、青年に咎めるように問われて恥ずかしくなる。血に濡れた指先を擦りながら、アンナはぼそぼそと続けた。
「三年前の革命で、この国からは貴族がいなくなったでしょう。この屋敷だって例外じゃないわ。だからアンナ・ビルツは空っぽの屋敷に住むようになった」
記憶喪失のアンナにできるのは、書物の内容をそらんじることだけだ。それはけれど、人間の記憶よりもよっぽど正確なはずだ。
「ビルツ邸には花々の咲き乱れる裏庭があって、あんな革命の後でも街の人達は残しておくことを望んでいた。でも、誰も庭師として屋敷に来たがらない。だからアンナ・ビルツは魔女とともに庭の手入れをすることにしたの。年に一度、国中から何人かの男女を選んで、庭を育てるのよ。冬の終わりに選ばれた魔女たちは、春に種をまいて、夏に花弁を集めて、秋の煌華祭で花を炎にくべて屋敷を去る」
書いてあるとおりの言葉をなぞるのは簡単で、アンナの気持ちを落ち着かせた。感情が込められていなければ、なにかを感じる暇だってない。
「アンナ・ビルツは、きっとうまくやっていたのね。でも、わたくしはそうではなかった。秋が来るまでに魔女を殺してしまったの。毎晩わたくしを追いかけているのは、最後の生き残りよ。彼は敵討ちのために、わたくしを殺そうとしている。そしてわたくしの婚約者は、夜にだけ狩りをする許可を与えたのだわ。冬の夜は長くて、狩りは貴族たちの暇つぶしだったから」
アンナは口を閉じた。返事はない。退屈させてしまったかしら、と心配になり、アンナは冷たい石床に手をついた。
振り返ろうとしたところで、青年に手を握られる。
「やっぱりおかしいじゃないか」
ぶっきらぼうな声音は、今度は苛立っているようにも聞こえて、アンナは振り返ることができなくなってしまう。
もう一度、石床に目を落とした。ささやかな光は、アンナたちのところまでは届かない。青年の手は見た目に似合わず荒れていて、冷たいのに暖かい。そんな些細なことで、けれど、せっかく止まった涙を流すわけにもいかなかった。
だから、小さく鼻をすすって、アンナは「えへへ」とわざとらしく笑ってみる。
「手をつなげて嬉しいのだわ。まるで恋人みたい」
「……こんな場所、恋人にはふさわしくないだろう」
「あら、場所なんて関係ないのよ。例えば、そう。わたくしがこの前読んだ浪漫小説ではね……」
せっかくだからと、アンナは最近読んだもののなかでも、とびきり甘くて危うい恋愛小説について話し始めた。面倒くさそうな――正確にいうなら、「それを僕に聞くのか」と言わんばかりのやりづらそうな――青年の返事が、穏やかな寝息にかわるまで。
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