KHM153 / 序章 灰雪と銀狼のエピローグ

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【03】  そしてそう、あの寝顔だわ。鉄格子越しの青年の寝顔を思い出して、アンナはうっとりと白い息を吐いた。  狩人の追跡を逃れ、客間のソファで夜明けをじっと待つばかりの時間だ。いつものようにビルツ邸は静まり返っているが、彼の寝顔を思い返しているアンナの頭は悲鳴と妄想でいっぱいである。  大人の顔立ちはそのままに、疲れて眠ってしまった子供のようなあどけなさが滲む横顔だった。かっこいいのに、危うい。守ってあげたいというか。んんん、勿論わたくしごときが守れるはずもないのだけれど! それにしたって、あの寝顔はとっても素敵だわ! やだ、待って、じゃあもしも万が一、眠りの君さまと朝までともにすることがあったら、あの寝顔を見れるという……きゃあああ! 破廉恥(はれんち)!  「今の想像は破廉恥よ、わたく、し……」  くたびれたクッションを抱えて身悶えしていたアンナは、はたと言葉を切った。顔をあげれば、逆さに自分を見下ろす影がある。整った顔の男だった。剣呑(けんのん)に細められた目は灰をまぶした炎の色。そして右手には短剣。  ソファを転がり落ちるようにして、アンナは間一髪で刃を避けた。ざくっという、なかなかに心臓に悪い音に肝を冷やしながら、慌てて口を開く。 「ち、違いますわ!? 眠りの君さま、わたくしはおかしな妄想なんて一つも! これっぽちもしてませんのよ!? ただその、夜をともにした後の朝というのかしら! 寝顔を見られる状況で王道なのは、やはりそういう時でしょう!? いや、そういうっていうのは、決していかがわしい意味ではなくて……みゃっ」  クッションを突き出し、アンナは短剣を受け止めた。青年の浮かべている表情はしかし、どこかちぐはぐだ。怒りも苛立ちもなく、感情に(とぼ)しい。なのに、ひたいにはうっすらと汗をかいている。  アンナは、ずれた眼鏡の隙間から目を凝らした。短剣を握る青年の手首にこびりついているのは血だ。別の意味で、腹の底が冷たくなる。 「眠りの君さま、傷が開いて……っ」  言い終わる前にクッションが裂かれた。アンナは仕方なく背を向けて駆け出す。  ばたばたと廊下へ飛び出した。追いかけてくる殺気はどこまでも静かで、獣のように研ぎ澄まされている。〈王狼(おうろう)〉という言葉を思い出した。命令に逆らうことはできないという彼の言葉も。  けれど、ここまで人が変わるなんてことがあるかしら。  アンナは、瓶底眼鏡に手を伸ばした。もしも原因が魔女の力であるならば、この目で暴けるかもしれない。  だって、わたくしの目は魔女殺しの目。彼を殺すことだって出来るわ。  氷混じりの冬風が吹き込んだように、冷たくて乾いた事実が頭をよぎる。アンナは己が恐ろしくなって、指先を強く握りしめた。駄目よ。目は使えない。わたくしは暴いて殺したいんじゃない。眠りの君さまを助けるべきなのよ。  意を決して、アンナは階段を駆け上った。擦りきれた絨毯を踏みしめ、なめらかな木の手すりをつかんで最後の一段を飛び越える。  すぐさま振り返って、左手に掴んだままだったクッションの残骸を投げつけた。青年は当然これを避けたが、階段の最後の一段には足をかけた。  びん、と張り詰めた糸の音が響く。青年が顔を跳ね上げると同時に、天井近くに吊るしていた幾枚もの毛布が降りそそいだ。
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