KHM153 / 序章 灰雪と銀狼のエピローグ

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 *****  記憶喪失のアンナにとって、図書室(ライブラリ)は頭脳であり記憶そのものだ。そしておそらくアンナ・ビルツにとっては、心休まる憩いの場だった。  必要最低限の家具しか残されていない多くの部屋が嘘のように、図書室は手入れの行き届いた家具と、古今東西の蔵書で充実している。  隙間なく書物を納めた本棚は可動式で、部屋の半分ほどを占拠している。裏庭(バックガーデン)をのぞむ窓際には、(つや)やかなウォルナットの脚に薔薇(ばら)模様(もよう)を刻んだ書き物机があり、暖炉のそばには赤いベルベッドのサロンチェアが置かれていた。  冬の弱い日差しが差し込む居心地の良い部屋で、アンナはしかし、苛々と紙切れにばつ印を書く。  眠りの君を止める方法が、思い浮かばない。  本を抱えて立ち上がった。ハンドルをぐるぐると回して書棚を移動させたが、どこかで引っかかったのか急に動きが鈍くなり、とうとう右にも左にも押せなくなる。そうこうするうちに、しびれた腕の隙間から細かな紙束が滑り落ちて地面に散らばった。  アンナは、動かなくなったハンドルをぎゅっと握りしめる。 「……もう」  どうしようもなくなって、思わず地面にしゃがみこむ。  青年に啖呵(たんか)を切ってから、かれこれ二度の夜が過ぎて、三度目の夜が始まろうとしている。  その間、アンナは何一つとして解決策を見つけられなかった。適切な武器を選んで勝負すること、効果的な言葉を使って説得すること。浮かんだ案はその程度のものだったし、出来ない理由だってすぐに思いつく。体格で劣るアンナが慣れない武器で勝てるはずもなく、心をどこかに置いてきたような夜の彼に言葉なんて届くはずがない。  アンナは目を閉じた。不意に去年の冬の光景が浮かぶ。千切れた紙片、黒光りする拳銃、凍りついた薄青の目。  ぶるりと体を震わせ、アンナはまぶたにぎゅっと力を込めた。駄目よ。思い出しちゃ駄目。諦めちゃ駄目。立ち止まっちゃ駄目。できることはあるはずだわ。  だってわたくしは、アンナ・ビルツでしょう。  ゆっくりと目を開ける。本の散らばった一人きりの現実に泣きたくなったが、憂鬱な過去の景色は追い出せた。いい調子よ、とアンナは自分を励ます。さあ、次は紙を集めましょう。脇によけて、そのあとは本棚の下を覗いてみるのがいいわ。動かない原因が分かるかもしれないもの。  絨毯に頬を押しつけたアンナは、何度かくしゃみをしながら目を瞬かせた。レールと本棚の間に麻袋が挟まっている。  物置から(ほうき)を取って引き返し、アンナは苦労して袋を取り出した。中から出てきたのは擦り切れた革の手帳だ。書斎の本は全て読んだのに、この本は見覚えがない。けれど最初のページの筆跡には見覚えがあって、アンナはどきりとした。  書き始めと書き終わりに独特のインク溜まり。アンナ・ビルツのものだ。  アンナは駆け足で書き物机に戻った。椅子に座りながら改めてページをめくる。日付があって、走り書きがある。半刻ごとの天候、古典演劇の警句(けいく)、昔ながらの色の古名。およそ脈絡のない単語を追いかけるうち、アンナはこれが暗号であることに気がついた。  書棚を動かして暗号に関する本を引っぱり出し、革手帳の掠れたインクを指先でたどる。 「弾薬の補給……南部の戦線にて損害あり……迂回路(うかいろ)をたどって奇襲……〈王狼(おうろう)〉……」アンナは指先を止め、まじまじと文字を見つめた。「〈王狼〉の長が代替わりしたらしい。接触を試みる……鍵を使えば、彼を従わせることができるはず……手遅れになる前に、」  ページをめくったアンナは、ぴたりと口を閉じた。  見開きは、ひどい有様だ。つまんでいるページは、青黒いインクで染まっている。まるで、書き手がやけを起こしてインク壺の中身をぶちまけたようだった。隣のページからは隠し箱になっている。糊付けされた紙束はナイフで乱雑に中身がくり抜かれ、薔薇模様の刻まれた十字架――薔薇十字(ロザリオ)が納められていた。  細い鎖にくくりつけられた紙片には、活版で黒い文字が刻まれている。 『地下牢のあなた、あるいは断頭台の私』  アンナはゆっくりと薔薇十字を手に取った。  〈王狼(おうろう)〉は鍵を使って従わせることができる。眠りの君は、かつて〈王狼〉だった。そして何より、彼は地下牢にとどまり続けている。  もしも薔薇十字が〈王狼〉の鍵ならば、彼に止まるよう命じることができるかもしれない。そう、それだわ。今までで一番合理的で、アンナ・ビルツらしい選択よ。  でも、無理矢理に従わせるなんて。脳裏をよぎったためらいを、アンナは薔薇十字を握りしめることで追い払った。彼は今だって命じられている。それも、およそ人間じゃないような扱いだ。冬の地下牢に留まること、怪我を負ってもろくな手当をしないこと、怪我をした体で夜の狩りに参加すること。  それらの命令に比べれば、彼を救うための命令はずっとましなはずだ。
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