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道ならぬ恋
「なあ、トイレ」俺はいった。
「なんだい?」トイレはいった。
「世の中には、男と女がいるじゃない」
「そうだね」
「男と女は、恋に落ちるものじゃない」
「そうだね。男と女だからね」
「恋に落ちるのは、致し方ないことだと、俺は思うんだよ」
「そうだね。致し方のないことだよ」
「たださ」俺はいった。
「ただ?」トイレはいった。
「その恋が、道ならぬ恋であっても、致し方のないことなのかな」
「そりゃあ、そうさ。道ならぬ恋であっても、致し方のないことだよ。男と女なんだから」
「そうだよね」
「そうだね」
「いや、しかしなあ……」俺はいった。
「なんだい?」トイレはいった。
「やはり、道ならぬ恋は、基本アウトなんじゃないかな」
「道ならぬ度によるかもしれないね」
「道ならぬ度?」
「そうさ。あまりにも道ならなかったら、アウトかもしれないね」
「道ならぬ度、道ならぬ度か」俺は繰り返した。
「なんか、貴族の名前っぽいな。フランツ・ヨーゼフ・ミチナラヌド」
「フランツ・ヨーゼフ・ミチナラヌド?」トイレはいった。
「誰だいそいつは?」
「道ならぬ恋の権化のような貴族さ」
「フランツ・ヨーゼフは、どんな恋をしたんだい?」
「フランツ・ヨーゼフには、イセリナという秘書の女の子がいたんだが」
「ひ、秘書!」
「彼は妻子ある身ながら、イセリナが好きになってしまったんだよ」俺はいった。
「まあ、好きになってしまうだけなら、致し方のないことさ」トイレはいつた。
「イセリナはフランツ・ヨーゼフの気持ちに気がついていて、迷惑に思っていたんだよ」
「だろうね」
「ある晩、フランツ・ヨーゼフは、恋心を抑えきれなくなり、上司の権力を利用して、イセリナを食事に連れ出したんだ」
「それはアウトだな」
「しかも食事代は、公費でまかなったんだよ」
「ツーアウトだな」
「イセリナにむりやりワインを飲ませて」
「スリーアウトだな。道ならぬにも、ほどがあるぜ」
「ところがイセリナは、ワインを飲んで、こんな関係も悪くないかも、なんて思い始めて」
「イセリナもアウトだな」
「どうせ公費で落とすんだろうから、気兼ねなく飲めるし、なんて思い始めて」
「イセリナもツーアウトだな」
「奥さんには悪いけど、ちょっと楽しんじゃおうかしら」
「スリーアウトだな。イセリナおっかないな」
「二人は店を出て、人気のない街角へいったんだ。そこで二人は見つめ合った」俺はいった。
「こら、二人とも、やめときなさい」トイレはいった。
「唇と唇が近づいた」
「うわあ、ちゅう? ちゅう?」
「二人の唇がふれあう寸前、フランツ・ヨーゼフが、がくりと地面に倒れ込んだ」
「もう、なんだよ、いいところで。フランツ・ヨーゼフ飲みすぎだろ」
「イセリナは恐怖に顔をひきつらせ、叫び声をあげながら逃げ出した」
「どういうことだい? イセリナはなぜ、フランツ・ヨーゼフを置いて、逃げ出したんだい?」
「フランツ・ヨーゼフの妻が、棍棒を握って仁王立ちしていたんだよ」
「やはり妻はおっかないな」
「翌日、新聞に、フランツ・ヨーゼフ・ミチナラヌド死亡の記事が載った。顔は本人と識別できないほど激しく殴打されており、容疑者は彼の妻だと」
「さらば、フランツ・ヨーゼフ・ミチナラヌド。しかし、それもこれも、君が道ならぬ恋に走ったからだぜ」
「ところが、この話には裏があるんだよ」
「どういうことだい?」
「あの日、フランツ・ヨーゼフは、しばらく気を失っていたが、気がつくと、辺りには誰もいなかった」
「妻はどうしたんだい?」
「フランツ・ヨーゼフを殴ったあと、とっととうちへ帰ったのさ」
「妻は犯人ではないということかい?」
「まあ、聞きたまえ。そのとき、フランツ・ヨーゼフの中に神様が降りてきたんだよ。彼は神様から、とあるアイデアが授かり、すかさず実行に移した」
「どんなアイデアだい?」
「フランツ・ヨーゼフは、自分と体格の似た浮浪者を探し出し、殺害した」
「ひどい話だね。なんでまた」
「そして、人相がわからなくなるほど、浮浪者の顔を殴打し、服を取り替えて、あたかも、自分が死んだと見せかけたんだよ」
「なんてことだ。フランツ・ヨーゼフの死体は、実はフランツ・ヨーゼフの死体ではなかったということかい?」
「そうさ、フランツ・ヨーゼフは、妻に自分を殺させて、その罪を着せ、自分はイセリナと一緒になろうとしたんだ。道ならぬ恋のため、彼は凶悪犯罪に手を染めてしまったんだよ」
「そんなにイセリナとちゅう、いや、道ならぬ恋がしたかったのか」
「しかし、悪いことはできないものだね」俺はいった。
「どういうことだい?」トイレはいった。
「フランツ・ヨーゼフは、浮浪者を殺すところを目撃されていたんだよ。まもなく彼の犯行はばれて、彼は絞首刑になったんだ」
「さらば、フランツ・ヨーゼフ・ミチナラヌド。まさしく、道ならぬ恋の権化だったな」
「なあ、トイレ」俺はいった。
「このフランツ・ヨーゼフ・ミチナラヌドの話で、俺が本当は何がいいたいのか、君にはわかるかい?」俺はいった。
「実はよくわからんね」トイレはいった。
「何がいいたいんだい?」
「我ながらさっぱりわからん」
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