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愛する娘
今思うと…、
夫のあの一言が
芙蓉の人生を狂わせてしまった…
そう思えてなりません。
「間もなく、
若君様が元服される。
その折、
我が家から次女の芙蓉を
お側付きに差し出すこととする。」
その言葉を聴いて、
私も長女の茜も
驚きと不審の色を
隠せませんでした。
名指しされた芙蓉さえも
どうしていいか戸惑うばかり…
「芙蓉でございますか。」
「そうだ。
若君様のお側に参るのは
芙蓉でなければならない。」
なぜ、
夫がそう断定的に言うのか、
理解できませんでした。
本来であれば、
長女である茜を
推すのが順当。
茜は
親の欲目で見ても美貌であり、
気位も高く気品がありました。
将来若君様のお側に差し上げて
御国御前となっても恥じぬよう
育てても来ました。
それなのに、なぜ?
しかし…
家長たる夫の言葉に
逆らうことなどできはしません。
茜は、
あまりのことに涙していました。
我が家からも
側女を出すことになった
という話が出てから、
茜自身も
自負するところがあったでしょう。
それなのに、
妹のために尽くさなければならない
立場に追い込まれ、
茜が哀れでした。
それでも…
日が経ち、
準備に追われるうちに
そんな感傷も次第に薄れていき、
愛する娘の慶事に
悦びが増してゆくのでした。
愛する娘。
私の特別な思いを受け継いだ…
そのことは、
誰も知らない。
あの人でさえ…
そう、芙蓉は…
夫の子どもではなかったのです。
その方とは、
まだほんの少年、
といっていい頃に
出会いました。
時折父の元に来る…方
たぶん仕官の道を求めて、
父を頼ってきた方なのでしょう。
その方の息子でした。
幼いながらも
眉の秀でた凛々しい少年。
彼は、
毎回父親に従って来るわけでは
ありませんでしたが、
何度かお見かけするうちに
言葉を交わすようになり、
やがて文を交わす仲になりました。
もちろん、
おおっぴらにはできません。
秘密の文通です。
その方の家は武家とはいえ
仕官の道を求める、浪々の身。
我が家とつりあわないのは
分かっていました。
また、武家の娘である私に
恋愛結婚の自由などないことも。
やがては、
親の決めた方のところに
嫁がなければならない。
それでも…まだ。
ほんの…
淡い初恋ではありましたが…
年頃になり、
私は親の決めた結婚相手、
夫の元に嫁ぎました。
夫は誠実で、
子どもにも恵まれ
あの方のことは
次第に思い出さなくなっていました。
平凡で幸せな毎日…
それなのに…
あの日…、
あの方は危険を冒し
忍んで来られたのです。
国元勤めの夫は、
特別なお役目で
殿に従い江戸へ発ったばかり。
いつもより、
家人も少ないとはいえ
藩の高官の屋敷に
忍び込むなど…
なぜ、そのようなことを…?
一目見て、
あの方であることは
すぐに分かりました。
何年ぶりの再会だったでしょう。
ひどくやつれておいででした。
でも…
主が不在であればなおのこと、
正妻たる私が
家を守らなければならぬもの。
それなのに…
たとえ、
寝所に忍び込まれたとしても
拒まなければいけない
辱めを受けるようなら
自害するべく、
懐には
常に銀の小刀を
忍ばせているのに…
受け入れてしまった…
抗うことはできたのに
夫が江戸へ発つ数日前、
隠し子がいたことが
発覚いたしました。
その頃、
まだ上り詰めてはいないものの、
藩の将来を嘱望されている夫に
側女の一人や二人いるのは当たり前。
世間も認めるところです。
私も、
そのようなことに
目くじらを立てるつもりも
ありませんでした。
そもそも、
正妻と側女では立場が違います。
正妻にとって
側女とは家来のようなもの。
嫉妬の対象ではありません。
でも…
外に通い処を作るなど…
私の目の届かないところに、
秘密の恋人を作るなんて…
夫に裏切られた
心地がいたしました。
そのことが、
心に隙間を
作っていたのかもしれません。
あるいは、
夫に復讐したかったのかも…
あの方は、
二度と来ないと固く誓われ
屋敷を後にしました。
数ヶ月後
夫は国元に戻り
私も、
何事もなかったかのように
貞淑な妻に戻りました。
そして、
身籠ったことに気づきました。
あの方が訪れたのは
夫が江戸へ発った数日後
その前に
夫と寝所を共にしていましたから
誰も疑いませんでした。
でも、
私には分かりました。
あの方の子だと…
同じ頃、
風の噂で
あの方が亡くなったことを
知りました。
あれは、
今生の別れの
つもりだったのでしょう。
私の中に、
ご自分の種を
落としていったことも
知らずに逝ってしまった…
月満ち、
私は女の子を産みました。
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