遠浅に溺れて

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遠浅に溺れて

 自分の家庭環境を詳しく話したのは、妻を除いてはただ一人だけ、古枝(ふるえだ)だけだった。  古枝は、会社の同期で、部署は違えど会えば挨拶をするような間柄だった。  同じ会社なので、当然、飲み会なんてものもある。それが終わった後、僕は古枝と二人で飲みに行き、そのままホテルに泊まった。  なんてことはない。ごくありふれた、ごく普通の不倫だ。  そう思ってしまうようになったのは、妻が他の男との子供を身ごもったからだ。  幸い、と言うべきなのか、異常妊娠のために手術をせざるを得なかったが。 「そう。辛かったのね」  古枝はタバコの煙を吐きながら素っ気なく言った。 「もし普通に妊娠していたとしても、俺は言ったよ。産めって」 「奥さん、産みたかったの?」 「どうやら、そうらしい」  俺はその時の妻の顔を思い出していた。そしてすぐに、目の前に居る女性に視線を戻した。  古枝は、地味な女性だ。服装も、化粧も、先ほどのセリフと同じく素っ気ない。にじみ出る美しさがあるか、と聞かれると、少し違う。  しかし、俺のような男をどうにも惹き付ける、魔力のようなものがあった。 「(やなぎ)くん、いつ帰る?」  俺はベッドに備え付けられたデジタル時計を見る。午前三時だ。 「五時には出る」 「わかった」  古枝はタバコの火を消し、スマートフォンを操作する。アラームを設定しているのだろう。 「あたしはもう少し寝るよ」 「うん、そうすればいい」  自分も寝付けるか不安だったが、古枝の湿った髪を撫でている内に、俺も眠りに落ちていた。  優香(ゆうか)は俺が朝帰りをしたところで、もう何も言わなくなった。  それは今まで、俺がそうしてきたせいだろう。本当は咎めて欲しかった、と言われたが、それならやるなよ、としか返しようがない。  好きで好きで妻にした筈なのに、いつからこうなってしまったのだろう。  俺はもう、優香に対して愛情を抱いていなかった。それどころか、憎んでいた。  俺が優香と古枝にだけ話した家庭環境というのは、祖母の愛人に育てられたということだ。  その愛人と俺は、戸籍上はもちろん、血が繋がっているわけでも無かったが、大学までの学費を軽く出してくれた。  そんなわけで、金に困ったことは無かったが、祖母は癌で死に、母は行方不明になり、父はトラック運転手をしながらギャンブルに溺れている。  今も仕事は充分上手く行っているし、優香を養うことができるくらいの収入は得ている。 「柳くん」  一夜を共にした相手が、急に俺のデスクにやってきた。 「どうしたの、古枝さん」  平静を装いつつ顔を上げると、古枝はいつもの地味な顔でつまらなさそうに言った。 「同期会があるんだって。出欠、頼まれた」 「俺は行かないよ」 「そう」  まるで俺の答えを見透かしていたかのようだ。古枝はさっさと自分のデスクに戻って行った。  優香とのことがあってから、俺は行かなくてもいい飲み会は断るようになっていた。そのことに言及されるのが恐かったのだ。  同期たちの間では、俺は妻想いの一途な夫で通っている。そんなイメージをわざわざ壊したくない。  離婚すれば、別だが——。 「柳。同期会、出ないのか」  隣の席の先輩が、ビール腹をさすりながらそう聞いてきた。 「はい、ちょっと、面倒で」 「同期は大切にした方がいいぞ。仕事でも家庭でも、何でも悩みを話せる同期とはいいものだ」 「はあ、そうですね」  何でも話せる? 冗談じゃない。妻が他の男に孕まされた、なんて、言える相手は俺には居ない。  古枝には話したが。それは、別だ。  俺は昨夜のことを考えないようにするため、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、仕事に集中した。  優香と共に居る時間を減らすため、ギリギリまで残業をして帰ってくると、彼女はダイニングテーブルに座って俯いていた。 「おかえり」  あのことがあっても、優香は必ず起きて俺を待っていた。料理もきちんとしている。それが俺には耐えがたかった。  しかし、腹は減っている。優香の作った飯は、あんなことがあっても不味く感じられない。それをかきこんだ後、優香が告げた。 「雅人(まさと)、お願いがあるの」 「……何だよ」 「離婚して」  相手の男も既婚だと聞いていた。だから、そちらと結婚したいというわけでもなさそうだ。つまり優香は、単純にこんな生活から逃れたいのだ。 「私が悪いのはわかってる。でも、もう無理よ。お願いだから離婚して」 「ダメだね」  これは罰だ。優香への、最も残酷な罰。俺は彼女を、このまま飼い続ける。そうすることで、より自責の念をつのらせればいい。  そして、離婚しないことが罰なら、古枝とのことは、当て付けだ。 「もう嫌なの、こんな日々を送るのは……」  泣き縋る優香を無視して、俺は風呂に入った。シャワーの音が、彼女の耳障りな泣き声を消してくれる。  スッキリしたい。それが俺の今一番の願いだった。どうすれば、それが叶うだろうか。  風呂から上がると、優香はもう眠っていた。柔らかなその耳たぶを、一晩中愛でていたこともあったというのに。  優香の父母は、良い人たちだった。生い立ちは適当に話したが、両親のいない俺のことを本当に可愛がってくれた。  子どものことは焦らなくても良い、自然に任せなさいとも言ってくれた。  その子どものことで、俺たちの関係は壊れたというのだから、皮肉なものだ。  俺は優香を許さない。絶対に。  俺はまた、古枝を呼んだ。彼女はあっさりと誘いに乗った。俺たちは安い寿司チェーンで最低限の食事を採った後、バーに来ていた。 「離婚しないんだ?」  心底不思議そうな顔で古枝は言った。彼女は強めのウイスキーをロックで注文していた。 「罰なんだよ。離婚しないことで、ずっと苦しみを味わえばいいんだ」  古枝は、ウイスキーグラスを傾けながら語りだした。 「でもね、それって柳くん自身をも縛らないかしら? 一緒にいても仕方ない人と生きていくのは、多分退屈よ」 「退屈、ね」  古枝は、優香にまるで感情移入をしていないようだった。どちらも不倫するような女なのに、だ。 「今日も、良いのか?」 「別に。白々しくお酒だけ飲んで帰るつもり、はじめから無いでしょう?」  俺は泡の消えかけたビールを一口飲み込んだ。ああ、確かにここで帰る気は無いさ。  シャワーを浴び終わった後、古枝は早速身支度を始めた。今日はもう、泊まらずに帰ることにしていた。  スカートを履き、薄いカットソーを着た段階で、古枝はタバコに火を点けた。  俺はソファに座ったまま、その様子をじっと眺めていた。 「俺はさ、ずっと家族が欲しかったんだ」  気づくと俺は、そんな話を始めていた。不思議なものだ。古枝を抱いた後は妙にお喋りになる。 「だから結婚も早かった。優香とは、大学を卒業した直後に婚姻届を出しに行ったんだ。でも多分、それが間違いだった。優香はもっと、別に恋をしたかったんだ」 「恋、ねえ」  古枝は、薄く煙を吐き出した。 「お前はどうなんだ、古枝。結婚とか、考えないのか」 「考えないわ。あたし、不倫をするために生まれてきたかもしれない」 「……何だって?」  タバコの火を消した古枝は、俺の隣に座った。 「あたしは、不倫以外のセックスをしたことが無いの。初めても、妻子のいる塾講師だった。高校生のときよ」  それから古枝は、俺の手の甲をさすり、話を続けた。 「それから、何人もの男たちと寝たわ。狙っていたわけじゃないのよ、たまたまみんな、既婚者だった。あなたも、その内の一人」  正直に言おう。俺はこうなるまで、古枝は処女じゃないかと疑っていた。それくらい、色気が無く、女性的には見えなかったからだ。 「お前には既婚者を惹き付ける魔力があるんだ」 「なにそれ」  古枝はプッと吹きだした。笑われるのを覚悟で言った言葉だから、気にはしない。 「もしそんな魔力があるとしたら、やっぱりあたし、生まれつき不倫をするように運命づけられていたのね」  それは、諦めなのだろうか。古枝だって、普通の恋をしたいはずだ。いや、それは俺の思い込みなのか。 「古枝はそれでいいのか?」 「ええ、もちろん。これが、あたしよ」  俺は古枝の肩を抱き寄せた。シャンプーの香りが鼻孔をくすぐった。キスしようか、と思ったが、明日の朝に響くのは避けたいので、やめておいた。  家に帰ると、やはり優香はリビングで起きていた。飯は要らないと言っておいたのは、せめてもの優しさだ。 「おかえり」  そんな決まりきった挨拶に、もちろん俺は何も返さない。着替えてしまおうとしたときだった。 「父さんたちに、言ったわ。私が不倫したこと。だからお願い。今度こそ、離婚してちょうだい」 「言わない約束だったろ」 「もう耐えられなかったのよ」  俺は、家族が欲しかった。優香を繋ぎとめることは、優香の両親も手放さないためだった。それに今、気付いた。 「多分退屈よ」  古枝の声が脳裏によみがえった。優香との退屈な未来を俺は想像した。でも。 「考えとく」  俺は逃げるように、リビングを立ち去った。  休日の昼間に、俺は古枝を呼びだした。彼女は黒いデニムとベージュのセーターという地味な恰好だった。 「それで、どうするの?」 「コンビニ寄ってから、ホテル」 「無駄が無くていいわね」  古枝は、俺の腕に手を絡ませた。俺たちはコンビニで酒を買い、ホテルのソファに腰を下ろした。 「離婚することにしたんだ」 「あら、急にどうして?」 「古枝が言ったんだろ、退屈だって」  俺にそう決意させたのは、紛れも無くその言葉だった。優香の両親に知れた以上、後に引けなくなったという理由もあるが。  俺は、これ以上退屈な人生は御免だと思った。優香を自由にしてやることで、自分もそうなれるのだと思うようになった。 「おめでとう」  古枝は、全くめでたそうではない顔つきでそう言い、缶ビールを開けた。アルコールの香りが辺りに漂った。 「じゃあ、今日でサヨナラね」  全く予想だにしなかった言葉を古枝は紡いだ。 「どういうことだよ?」 「言ったでしょ、あたしは不倫しかできないって」  そんなバカな。俺は古枝の茶色い瞳を射抜いた。 「柳くんが晴れてフリーになれば、もうあたしの役割はおしまい。今までだって、ずっとそうしてきたのよ」 「なんで、そんなこと言うんだよ。過去のことは関係ないだろ」 「じゃあ、柳くんはあたしとまだこういうことがしたいの?」  古枝は俺の太ももに手を伸ばしてくる。俺はそれを制することができない。  俺は乱暴に、古枝を抱いた。  俺たちはベッドに横たわり、手を繋いだまま天井を見上げていた。  シーツには汗がぐっしょりと残っていて、気持ちのいいものではない。しかし、俺たちはそこを動く気にならなかった。 「古枝、さっきの話だけどさ。サヨナラはもう少し後にしないか」  古枝は答えない。俺の次の句を待っているのだろう。 「俺はまだ、お前に興味がある」 「ふふ、好き、とは言わないのね」  顔は見えないが、古枝がくしゃりと笑顔を浮かべたのがわかった。 「好きかどうかは、これから俺が決める。だから古枝、ひとまずは俺の物になれよ」 「そういう言い方、好きじゃないわね。柳くんは多少傲慢なところがあるわ」 「構わないさ。俺は、お前に溺れているんだから」  古枝は俺の上にのしかかり、額にキスをした。何度も、何度も。 「いいわ。柳くんの物になってあげる。いつまで続くかは分からないけど、きっと退屈はしないわよ」  その瞬間、俺は古枝のことを縛り付けてやりたい気持ちになった。閉じ込めて、どこにも行かせたくない。それは、独占欲というものだろう。  きっと古枝は、俺の他に良い男ができれば、脇目も振らずにそちらへ行ってしまうだろう。  そして俺は打ち捨てられ、漂い、干からびて、そのまま粉々になってしまうだろう。  それでもいい。俺は、この恋に身を捧げることにした。  古枝。どうか、できるだけ長く、俺の元にいてくれ。 了
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