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太田はすでに二つ先の車へ移動し、パンを渡していた。
「ご親切にありがとうございます」
老婆がわざわざ、車を降りて礼を言っている。
そいつに礼なんて言う必要はない。
親切なんかじゃない。
人をいじめて喜ぶ男だ。
そう告発したかった。
また、雪が吹き付ける。風が強く、あっという間に体温を奪われた。
太田が手袋で顔をおおった。白い息が大きく吐き出された。
いい人になったわけじゃない。ただ、会社に言われるがまま、パンを配っているんだろう。こき使われても文句を言えない立場なんだろう。
太田が声を張り上げた。
「すみません、一ケース分のパンが空になったので、トラックまで取りに戻ります。すぐにもう一度、配りに来ますので、お待ちください」
ケースを引いて、また、戻って行こうとする。疲れているのか、ちょうど横を通り過ぎた時によろめき、膝をついた。
思わず、近寄り、手を差し伸べてしまった。
冷たい手袋の大きな手。
引っ張るように立たせると、驚いたような顔になった。
「すみません、本当にすみません」
私に気づいたのか、気づいていないのか。太田は何度も頭を下げた。
私は首を振り、暖かい車の中に戻った。
太田はゆっくりと、自分のトラックへ戻って行く。そして、あのケースを一杯にして、また、この先に配りに来るのだろう。
一歩一歩、雪を踏みしめ、進む姿は修行をしているようにも見える。
雪が舞い、視界をさえぎった。
おとぎ話のように何もかも白く染まっていく。
白い世界の中で太田の姿が消えた。
幻だったんだ。そうに決まっている。
ダッシュボードのアンパンを手に取ると、少し暖房で温まっていた。
一口かじると、懐かしい甘さだった。
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