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2月1日
「そんなに焦らないで。 取材はともかく、落ち着いてご依頼の内容を伺ってもいいかな?」
閉店後の灯りを落とした店内は、窓際の席に置かれたノートPCからの光でぼんやり明るくて、私はそれを頼りに噴霧してしまったテーブルの上の水滴を拭く。
このお店で過ごす最後の夜のつもりだった。
全てをやり終えたと決心した矢先で、私は文字通り虚を突かれた。
「はじめまして。
突然のメッセージ、ごめんなさいっ。
えーと、卒論nで『ウィルス禍を乗り切った飲食業』をテーマに書こうtと思っていて、HPでh拝見した御店の独自性ある店舗っ運営についてお聞きkしたくて……」
二通目も文面はところどころおかしくて、肩の力が抜ける。明らかに急いで入力したと思われる文章が、なんだかとっても可愛らしかった。
俊がまだここにいたら、一緒に大笑いしていただろう。
「分かりました。でもね、おーせさん。このお店は繁盛している訳ではありませんよ? お力になれるかなあ」
「もちろんです! コーヒーも料理も雪融け水を使った雪国の喫茶店。それも学生街の駅そばの、古民家風カフェなんて! すっごくお洒落です!」
ようやく文面は落ち着いてきたが、文章の内容は熱を帯び始めた。
俊と二人で店を始めた頃、コンセプトはたしかにその通りだったかもしれない。でもそれは、今となってみるとあまりにも綺麗事が詰まっていて、もう私だけでは相当に重い枷でしかなかった。
「ありがとう。でもね、東京と違って地方大学の学生街は、人口も活気もお洒落さもそんなに無いの。あってもそれは不安定な事で、今年なんて雪も降らないのよ」
ちょっと突き放しすぎたかな、と思う。
でも本当に、今年は二月だというのに店の外に積雪が無かった。
ウィルス禍に続けて異常気象。この並外れた今年の天気は、雪国からも雪を奪っている。
だから私は、後悔や憎しみの類いを思い出せず、今こんなことになっているのだ。
すぐに既読が付いたが、返信は一度途絶えた。
私はコップに少しだけ残っていた水を、喉に流し込む。冷たい。茫漠とした想いを一度凍らせる。拭き残した水滴を拭ききったら、また溜息が出た。布巾に吸われた雪融け水はもう使えない。
製氷器で凍らせたそれは、もう残り少ないのだ。
俊。もう、残りは少ないよ。
(せっかくだけど……)
断りの返信を送ることにして、私はゆっくりと文字を打ち込み始める。
おーせには、ちょっと可哀相な事をしてしまうな。想いを道連れてしまうようで、罪悪感を感じた。
でも最後だし……そんな言い訳を呟いて、私は数粒口に入れる。今日はやり切れる気がした。
舌の上で転がし水を唇に付けた時、おーせから新たなDMが着信した。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
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