ため息は。

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ため息は。

「私ね。昔、雪うさぎを飼ってたの」  高校の冬休み、日が暮れて少しの頃。私は、独り言みたいに言う。 「十年以上前になるのかな。大雪で、親のお仕事がお休みになった時に、手伝ってもらって作った子なんだけど」  初めは、不格好でドロドロな。砂とか枯れ草混じりの、あんまりキレイじゃない風体だったことを、まだ、おぼろげに覚えている 。 「次の日、いつの間にか大きくなって、日当たりの悪いところに隠れてたの。だから、この雪うさぎ生きてる! 飼いたい! ……って」  それから、雪うさぎって何食べるんだろうって親に聞いて、手作りの雪ニンジンだったり、目と同じ赤い実を添えたりして。次の日になるといつの間にか無くなっていて、嬉しかったことを、よく覚えている。  記憶にないくらい、寒い日ばかりが続いて、楽しくて。ずっと一緒だなんて思っていた。だから。 「その雪うさぎがいなくなっちゃったことがスゴく嫌だったから、私、今でも春の始まりとか好きじゃないの」  溜め息みたいな思い出話は、相づち一つないまま、波音に溶ける。  冬の夜、外に誰もいないような砂浜を、ちょっと高いところから眺める。吐く息は、暗がりでも分かるくらいに真っ白だった。  人に聞かれるには色んな意味で恥ずかしい独り言、みたいな。 「……それで、今更だけど。なんで海なの?」  だけどあいにく、今は一人じゃない。空と海も曖昧な視線の先、波打ち際より気持ち手前側にいる、その人に向けて声を掛ける。  ふてくされたように。  砂浜にて、私に背を向けたまま屈み込んでいる、制服姿の男の子。私と同じ高校の、クラスメイトだ。この人に呼ばれて私はここに来ていた。  そして、返事だとか相づちだとかより速く、半身だけを振り返らせての目線。 「……雪が降るって思ってた」  ふてくされたような。無愛想さに似た低い声色、言葉選びだった。  それきり、説明を続けてくれるつもりもないらしく、彼は海の方へと向き直る。またふてくされたみたいに気持ちうつむいた。  いや、もしかすると単に、本当にふてくされているだけかもしれない。例えば、見上げた空は夜でも分かる灰色。今にも雪が降りそう、だったのに。  ──普段は雪が降らないような地方でも、積雪が予想されます。お出かけの際には足元、十分にお気をつけ下さい。  そんな予報をギリギリ裏切っての、ただ寒いだけの夜。そして眼前の彼は、よく見ると砂いじりをしているのが見て取れる。 「それで、一人雪のつもり祭りは順調ですかー?」  ワクワクしていただろう気持ち自体は分かりつつも、余りにも安直で残念な代替え案を見せつけられて、私は苦笑い混じりに問いかける。 「一人祭りじゃないから呼んだんですけどー。っていうか、何、見てるだけなの?」  返答は、ノリが良いのか分からない調子で、すこぶる不機嫌そうな声色だった。色んな意味でふてくされているのはよく分かった。とはいえ。  参加しない言い訳のための思い出語りだったんだけどなぁ。いつかの、もうイメージと化しつつある雪うさぎを思いながら、仕方なく私も砂浜の縁に足を踏み入れる。  それから、適当な枯れ枝を見繕ってから、なるべく膝を曲げないようにして拾う。スカートの下はジャージ、上はモコモコの完全防寒。少し屈めば、すなすなになっちゃいそうだった。 「はいはい来てあげましたよーっ……てなにそれ、お城?」  そして、寒くないのか心配になるただの制服姿で、袖もまくらないまま砂遊びにふけっている姿と、海すぎて夏しか似合わないような砂のお城にも苦笑い。  羨ましいほど初々しいと言うか……子どもっぽいと言うか。  こぼれた声が、白く濁る。寒々とした波音が気まずいほどに沈黙を数えて。 「……雪うさぎがいなくなっちゃった時、私、多分人生で一番泣いたんじゃないかなって思う」  なんでもいいから話さないと。そう、口に任せて出た言葉は、はじめの話の続きだった。  枯れ枝で砂浜をなぞる。楕円を描いて、耳をつけて。目の跡を付けて出来上がる、雪の代わりの砂うさぎ。  波に溶けたりしませんように。砂浜の端、海から遠いところに書き上げた。 「いなくなった? 溶けたとかじゃなくて?」  そして、些細な言葉の綾が引っかかったのか、単純に飽きたのか。彼はおもむろに立ち上がって、私の方へと向き直る。少しだけ海に近いせいか、身長差を覆して、同じくらいの目線で。 「うん。明日にはもう溶けちゃう……ってくらいの日に、急に。耳も目も残さずに、いなくなっちゃってたの」  目を逸らす代わりに私は、砂うさぎの後ろに、枝で幾つか横線を引いてみる。  駆け出すように。逃げ出すように。雪うさぎは、そうやっていなくなったんだ。  波音。うつむいたまま、吐息が視界を白く濁らせる。遠い思い出みたいに。 「……へぇ。それで、親はなにか言ってた?」  そして気まずいのか、単に興味があるけど聞き方に迷っただけか。妙にぎこちない調子で質問が返ってきた。 「うん。雪うさぎは逃げちゃったんだ、って言ってたのは、お父さん。また会えるかも、って言ってたなぁ」  あまりにも私が泣き止まないものだから、ちょっとだけ、希望を添えてくれたのだろう。最後には信じて泣くのを我慢したことも覚えている。だけど、その前に。 「お母さんはね……そうやって泣けるのも今のうちだけだから、好きなだけ泣いたらいいよ、って」  今思えば、小さな子には難しいことを言ったものだと感じる。そして意味もよく分からないまま、ただ、『泣いていい』って言われたから泣き止めなくなってしまった。そういうことだったと理解している。 「へぇ」  眼の前の彼には、どう届いたのだろう。 「いいな、そういうの。子どもっぽい感じ」  思わず顔を上げた私をよそに、彼はまた砂の城に向き直る。けれど。  子どもっぽい? 大人っぽいとか……人の親らしいとかじゃなくて? 浮かんだのは、そんな単純な疑問。そして。  こうやって見下ろす先の彼が。何かと純粋に見えて、羨ましく感じるくらいの人が。他の何かを、子どもっぽいと感じる。  それくらい、幼さから遠ざかっていることに。なんだか不思議な感じがしていた。  ──そうやって泣けるのも今のうちだけだから。  今なら、分かる。きっと雪うさぎの不思議さは、お父さんが演じてくれていた。お母さんはそれも、私のことも、微笑ましくも遠巻きに感じていたのだろうと。分かるようになったのに。  今でも覚えている。散々泣いて、悲しくて、どうしようもなくて。だから未だに冬の終わりが苦手だ。好きになれそうにない。  例えば、砂遊びに興じる男の子を子どもっぽいと思うような私は、だけど。未だに、泣けなくなるほど大人じゃない気がしていて──  こんな取り留めもない思考に交じる、強い、怖いくらいの波の音。慌てて見れば、思ったより近く、高いところまで波が押し寄せてきていた。咄嗟に砂浜から飛び退く。  雪の終わりの、雨のように。  砂に描かれたうさぎの絵が、海に溶けた。  掬い上げた雪も、砂も。どれだけ無くしたくないと思っても、いつか、この手からこぼれ落ちていく。  掻き消えた砂うさぎの絵が、遠い。今にも泣き出しそうな思いを、遠巻きに思うような、不思議な感覚。  大人っぽい。子どもっぽい。  私は今、どこにいるのだろう。思わず屈み込んでしまいそうな焦燥感が。 「──なにこれ、すげーっ!」  声に紛れる。笑い声に似た。 「ほら、城のかけらも無くなった! 波すげー! ってか海冷たっ!」  振り返って、私を見て笑う。今日一番に屈託なく。こんな冬の夜なのに、キラキラ、眩しいほどで。  熱っぽいほどに。思わず私は、空を見上げる。胸がざわざわして、いろんな言葉が、思いが波みたいに混ざって、混ざって。  忘れかけた思い出に似た、心のモヤ。私は今、何に悩んでいるのか分からないけれど。  どうせ、飲み込めない思いなら。手のひらをこぼれ落ちていくのなら。  いっそ大きく吸い込んで。 「わーーーーーーっ!!!!」  真っ白な息ごと、空に向かって吐き出してしまえ! 言葉なんて何も浮かばないまま、ただ、無意味な声だけを浮かべた。視界が真っ白に染まるほどに。  そして。  霞んだ息の隙間に、夜へ解けない白さが踊る。  ヒラヒラ、こぼれ落ちる。暗がりにも真っ白な、冷たい欠片。頬を撫でて溶けた。 「わーっ! 雪だーっ!!」  そして私は似たような叫び声を上げてしまう。だけどキーが上がっているのが自分でも分かる。何が楽しいのか自分でも分からないまま、思わず、眼下の彼へと目を向けてしまう。 「……冬とか雪とかも嫌いなのかなって思ってたけど」  幼子のように見上げる視線と、目があった。 「なんだ、笑えるくらいには好きなんじゃん」  そんな言葉が誰より似合うくらいの、満面の笑みで。熱っぽさ、白い吐息、淡雪が踊る。私はまた、空に向けて目を逸らした。  海へと逃げた砂うさぎば、いつか、もしかして雪うさぎに出会うのかもしれない。  そんな、ありえないと分かっていることを思ってみるのだけれど、なぜだろう、その幻想が眩しく思えて、私はまた涙ぐみそうになっていた。  大人っぽく。子どもっぽく。どっちでもなくて、きっとその両方に似た、今。  いつかこんな、思い出を懐かしく思った日を、懐かしく思う時がくるのだろう。雪のように溶けて砂のように流れていく、ちょうど今。
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