これも悪くない

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これも悪くない

 欠伸を噛み殺した。  向かいにあぐらをかいた小野さんが、そっとにらみつけてきた。気づかないふりをして、牌を集めた。  居酒屋のアルバイト店員たちは皆仲がよく、そして麻雀好きだ。おれも多少の嗜みがあり、ときどきこうして小野さんの部屋に集まっての会に参加するが、明け方ともなると、さすがに疲労が溜まる。  しかし、小野さんだけでなく、台を囲んでいる砂原さんや綾瀬さんの目も血走っていて、しばらくは終わりそうにない。  それなりの棒を手にしたおれは、いい加減抜けたかったが、今そんなことを口にすれば、たちまち槍玉にあげられてしまうだろう。なにしろ、4人しかいないので、替わってもらうわけにもいかない。 「それ、揃ってるんとちがう」  そうだ。もうひとりいた。おれの後ろでジュースの缶を弄びながら、健司がいった。大儀そうに身を乗り出して、おれの手元を覗き込む。 「それ、その丸がいっぱいあるやつ」 「うそ」 「うそです、うそ。健司、わかんないんだろ」  手を閃かせて追いやると、健司はあからさまに不機嫌な顔になった。  店長の小野さんが40歳、砂原、綾瀬両名が29歳、一番年下のおれでも27だ。今年やっと21になったばかりの健司とは、世代がちがう。大学に行っているわけでもない若者が、麻雀に興味を持たないのも、しかたなかった。 「なんやねん。みんな揃って、おれのこと仲間はずれにして」 「だからくるなっていっただろ。だいたい、店員でもないのに、なんでいつもいるんだ、おまえ」  綾瀬さんが苦笑いを含んだ口調でいう。健司はいよいよふてくされた。  おれたちがバイトをしている居酒屋に健司が客としてやってきたのは、1か月前。それから何度も店にきて、世間話などしているうちに、いつの間にか、店以外でもこうして付きあうようになった。 「まあ、いいじゃん」  少し負けを取り戻して、余裕の出てきた砂原さんがとりなした。 「宏之のこと、待ってんだろ、なあ」 「そうなの?」 「そうなのって……」  健司が呆気にとられたような顔でおれを見た。 「今日、なんの日か忘れたん?」 「え?」  当然のように尋ねられて、おれは天井を仰いだ。 「なんか約束してたっけ」  正直にいうべきではなかったかもしれない。健司は見る見るうちに表情を強張らせた。 「約束もなにも、1か月記念日やんか」 「1か月……」  そこまでいわれても、さっぱり思い当たらない。 「付きあってからや。付きあって、1か月記念!」  焦れたように健司がいう。空き缶が台のうえにどすんと着地した。砂原さんがそっと手を伸ばして、爆弾を処理した。 「付きあって……付きあってたの?」  そういったのは、おれだった。健司は口を開いたまま、硬直した。紅潮していた顔から血の気が引いていく。 「宏之、おまえが悪い。謝れ」  小野さんが涼しい顔でいって、おれは混乱した。 「え、だって……おれ、そんなの知らないけど」 「うそやん。告白したらオッケーしたやん」 「告白……」 「はじめて会ったとき!」 「友達になってくださいって、あれ?」 「そう、それ!」  牌をかき回しはじめた綾瀬を、健司が鋭くにらみつけた。 「やかましい!」 「あ、すみません」  再び沈黙が訪れると、おれはおそるおそるいった。 「だってさ、それは、友達だろ」 「あほか。なんでお願いして友達になってもらわなあかんねん。男同士で友達になってくださいいうたら、付きあってくださいいうことやろ、普通」  そんな馬鹿な。 「もうええ。もう知らん。宏之さんのアホ!」  吐き捨てるようにいうと、健司はいきなりおれの背中をどんと叩いて、大股に部屋を出ていってしまった。 「……激励されたのかな」 「どこ殴っていいかわかんなかったんだろ」  小野さんは笑いを噛み殺している。ほかのふたりも、にやにやしながらおれを見ていた。 「宏之さんのアホ」 「やめてください」 「可愛いじゃないの」 「記念日だってさ。若いよね」  おれの気も知らず、3人は安手のドラマでも見ているかのように好き勝手なことをいっている。 「付きあってんだろ」 「付きあってません」  投げ遣りな手つきで牌を並べながら、強調した。 「同僚をホモにする気すか」 「だって、もうオッケーしちゃったんだし」  のんきな言葉に、頷きあう。  知らない間に、健司は店内のアイドルと化していたらしい。今になってようやく気づいた。 「追いかけなくていいの」 「たぶん」 「待ってるんじゃないか。戻ってくるぞ」 「なにしとんねん、アホーっつって」 「さっさと追っかけてこんと、ほんまにどっか行ってまうやんか、アホーっつって」  完璧に玩具にされている。おれは無視して黙々と牌を動かした。  友達になってください。  ビールのジョッキを持っていったおれに頭を下げて、健司はそういった。そのぐらいのことで、いやに緊張しているものだとは思ったが、たいして気に留めなかった。軽い気持ちで、いいよといった。  なにかと懐いてくる健司を弟のように思っていたが……そうか、そういうことだったのか。  みんなが気づいていたぐらいだから、おれに対する健司の愛情表現はかなり直接的だっただろう。まるで気づかなかった自分が情けなかった。  同じことが、以前にも何度かあった。どうやらおれは、自分が思っている以上にぼうっとしているらしい。  冷静になって考えてみると、悪いことをしてしまったかもしれない。おれは少し心を曇らせた。  どうしようかな。健司、泣いてるかな。いや、まさかな。男だもんな。傷つけたかもしれないけど、もとはといえば、向こうが勘違いしていたのがいけないわけだし。 「宏之」 「あ、はい」  顔を上げると、小野さんが無言でおれの手元に向けて顎をしゃくった。視線を追ってみると、おれは牌をすべて逆向き……つまり、みんなに見せるように並べていた。 「なにしとんねん、アホーっ!」  ドアが開いて、健司が乗り込んできた。  近所迷惑だからと部屋を追い出された。なぜかおれもいっしょに。  並んで歩きながら、おれはこれまでにない緊張感を味わっていた。 「寒いね」  空気を換えるつもりでいってみたが、逆効果だった。にらみつけられ、慌ててコートの襟を立てた。うまくごまかしたとは、とても思えなかった。  吐く息が白い。日が昇りかけていた。虚無感を持て余して、おれは足を止めた。このまま歩き続けていると、神奈川まで行ってしまいそうだ。 「座る?」  先を行く健司の背中に呼びかけたが、健司は聞こえていないようだった。 「おーい、健司。座ろうよ」  頬に指を押しつけて、繰り返した。ようやく、健司が足を止めた。  俯いたままの姿勢で、健司が振り向いた。大股に歩み寄ってくると、おれの前で止まった。 「ごめん」  お、謝った。 「邪魔して、ごめん」  あー、そっちか。 「ほんまにごめん」  上半身をかしがせて、健司はいった。先手を打たれた。これでは、責めることも謝ることもできない。 「嫌い、なったやろ」 「ううん」  答えてから、しまったと思った。これでは、本当にカップルの痴話喧嘩そのものだ。 「座ろう」 「どこに」  周囲を見回したが、田舎道だ。ベンチはおろか、ガードレールしかない。しかたなく、不良少年のようにその場にしゃがみこんだ。少し離れて、健司も同じように膝を曲げた。 「久し振り、ウンコ座り」 「うん。若くなった気分」 「若いやん」 「そうかな」 「うん」  なんとなく、黙ってしまう。普段はとくに気にならない。明るく話す健司を見て、よくこんなに話すことがあるなと呆れることもある。しかし、今はどんなくだらないことでもいいから、喋っていてほしかった。 「宏之さん」 「うん」 「宏之さんも」 「なに」 「謝って」  あやうく尻をついてしまうところだった。健司が首をひねってこちらを見る。表情にはもう怒気はなかったが、冗談をいっているわけでもなさそうだった。 「……ごめん」  子供のような目に負けて、しかたなく頭を下げた。健司は満足げに微笑んだ。 「仲直りやな」 「そうだね」  なにが、そうだね、だ。 「もうちょいちゃんとしよな、お互いな」 「うん」 「メールしてな、1日30回な」 「うん……いや、それはちょっと」 「20回?」 「う……電話、する」 「えー、しゃあないな。1日3回やで」  うわーと思いながら、頷く。おれの一番苦手な付きあいかただ。いや、待て。そもそも付きあっていない。 「会うのは? 何回にする? おれがメールと電話決めたから、宏之さん、決めてええで」  あ、決まったんだ。  何回でもいいといいかけ、慌てて口を噤む。ここは慎重に答えなければならない。  しかし、週に3度は飲みにくる常連客だ。今更会うもなにもない。しばらく考えて、答えた。 「3……回、とか?」 「えー、そんなにかい」  いいながらも、健司は表情を綻ばせた。うまくやったらしい。ほっとして、また我に返る。 「なあ、健司」 「なに。やっぱ4回にする?」 「いや、そうじゃなくて」 「5回」 「勘弁して」  はは、と小さな笑い。健司は脛の前で指を組んで、しきりに体を揺すっている。寒いのかと思ったが、ちがった。 「やっぱ、おもろいわ、宏之さん。ツボ」  健司は怯えていた。微妙に確信を避けていた。そのことに気づくと、現実を口にする気がなくなった。 「健司」 「いややで」 「なにがだよ」  膝のうえに顎を乗っけて、健司がさぐるような眼差しを向けてくる。犬みたいだなと思いながら、おれは無造作に手招きした。 「こっち、くれば」  スイッチで切り替えたかのように、健司の顔がぱっと輝いた。小動物のような動きでおれの前に移動してくる。額が擦れあうような距離だ。 「向かいじゃない。隣」 「なんや。はよゆーて」  平然というと、健司はよいしょと口に出しておれの隣におさまった。  もう逃げられない。おれは徒労感を持て余しながらも、覚悟を決めた。  右肩に健司の体温を感じた。1か月遅れの記念日ということになりそうだ。  悪くないさ、こういうのも。 「宏之さん」 「うん」 「浮気したら、殺す」  今日の日付を確認しておかなければ、と思った。 おわり。
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