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笑窪
健司が笑った。
テレビでは漫才師が熱湯のプールに飛び込んで、悶えている。健司のお気に入りの芸人だが、そのおもしろさが宏之にはどうもわからない。
笑いだけではなく、食べものや酒、服の好みもまるでちがうふたりである。おそらくは女の趣味も異なるだろう。聞いてみたい気もするが、どれほどさりげなく話を向けたところで、健司が機嫌を損ねることはわかっていた。
慌ててプールを出ようとした漫才師が足を滑らせ、健司は膝を叩いて笑った。
少し離れた位置からそれを見ていて、宏之はふと眉を上げた。
声を上げて笑っている健司の両頬が、小さく窪んでいる。意外に思った。健司に笑窪があることではない。出会ってから半年近くになる。気づくチャンスはいくらでもあったはずだが。
胸にかすかな痛みを感じた。宏之の淡白さを健司はなにかにつけて責め、そのたびに宏之は考えすぎだと笑っていたが、健司の指摘はあながち間違いともいえなかった。
健司に対していっさい興味がないというわけではない。嫌いな相手といっしょにいるほど暇でもなければ、健司のいうように、やさしいわけでもない。
しかし、やはり健司からしてみれば、もどかしく思うだろうし、不安にもなるだろう。健司の笑窪を眺めながら、宏之は申し訳ないような気持ちになった。
「なに」
視線を感じた健司が、訝しげに首を捻る。笑いすぎて、目尻に涙が浮いている。
「いや」
とたんに照れて、宏之は視線を下げた。
「おまえ、笑窪あんのな」
いうつもりでなかった言葉が、つい口をついて出た。
「ああ」
健司は宏之以上に照れた。口元に手をあてて、苦笑いする。
「変やろ。男のくせに」
「いや。知らなかったよ」
微妙に噛みあっていない会話をもてあまして、宏之は咳払いをした。目を逸らしたまま、いう。
「かわいいんじゃないか」
「好き? 笑窪」
「好き」
実際のところ、そこまで意識したことはなかったが、即座に頷いた。健司の頬骨が上がる。自分ではなかなかいわないくせに、ストレートな愛情表現が好きだ。
健司が笑うと、また唇の両端が窪んだ。首を伸ばして、そこに唇をつけた。健司は照れて押し退けようとしたが、力は入っていなかった。
「宏之さんが帰ってくる前にな」
照れ隠しのためか、健司は突然話題を変えた。宏之がほかのことを考えているときには、なんとか自分のほうに気を向けようとするが、こうして宏之が健司に集中しはじめると、わざと矛先をずらそうとする。視線をテレビに戻して、早口にまくしたてた。
「めっちゃおもろかってんで。あんな、まっちゃんがぼけてな、若手が一斉に立つやんか。したら、ひな壇が壊れて、ガーンてなってん」
健司に向いてあぐらをかき、宏之が頷く。
「聞いとる?」
「聞いてるよ」
「見たり聞いたりしとる?」
「見たり聞いたりしてるよ」
正直にいうと、宏之の頭には笑窪のことしかなく、まっちゃんやひな壇のことなどどうでもよかった。
宏之の視線が刺さっている側の頬を指先で掻いて、健司が腰を浮かせる。
「DVD見よ」
「テレビ見てるじゃん」
「もういい」
「借りに行こうか」
健司は少し考えて、首を傾げた。
「めんどくさい」
「じゃあ、トラボルタ」
「また?」
健司は顔をしかめて、それでも身軽に体を起こした。
テレビに近づき、ラックの扉を開ける。すでに宏之のコレクションはすべて頭に入っているらしく、迷うことなくDVDを選別する。
両手と膝を床につけて身を屈める後姿は隙だらけで、ゆったりと鑑賞することができた。
健司はしばらく悩んでから、「パルプ・フィクション」を抜き取った。ディスクをデッキに滑り込ませてから、リモコンを取り上げる。
宏之は悪戯心を働かせて、健司が座っていた場所に先回りした。テレビ画面に気を取られていた健司が後ろ向きに戻ろうとして、宏之の足に躓いた。
バランスを崩しかけた健司の体を、背後から抱き込む。
「……びっくりするやろ」
「こういうの、嫌い?」
「されたことないから」
それはそうだろう。宏之は黙って健司の首の付け根に顎をめり込ませた。健司は痛そうに身を捩じらせたが、抵抗らしい抵抗はなかった。
腕の力を弱めても、健司は逃げる素振りを見せない。緩く抱いたまま、宏之は目だけをテレビの画面に向けた。画面のなかでは、マリリン・モンローやバディー・ホーリー、ジェーン・マンスフィールド、ジェームス・ディーンといったスターたちが飲みものを運び、ヴィンセントとミアがテーブルを挟んで顔を近づけあっている。
「ユマ、きれいやな」
「うん、きれいだな」
パルプ・フィクションとはよくいったものだ。実際、こうして胸と背中を密着している親密な体勢でいても、現実味はあまりに稀薄だった。
ヴィンセントとミアの軽やかなツイストを眺めながら、宏之はなんとも虚しい気持ちになった。
「健司」
「なんですか」
健司が宏之に対して敬語を使うときは、いたたまれないときか、怒っているときのどちらかだ。このときは、どうだっただろうか。とにかく、宏之はまた虚無感をもてますはめになった。
「どうすればいいかな」
「なにがですか」
「おれとおまえ」
「宏之さんとおれが」
「おれとおまえが踊るときは」
宏之は健司の手を持ち上げ、掲げてみせた。
「こうか」
今度は健司の掌を上向かせ、自分の手をそのうえに重ねる。
「こう」
どちらも同性と付き合った経験はない。単純な問いだった。すぐに健司も察した。
健司の肩に力がこもる。健司の髪を切ってやったあとで、腰のあたりに触れたことがある。シャツを捲り上げ、直に肌に触れた。そのときと同じように、健司は全身を強張らせた。
たちまち宏之は後悔した。たかが頬の凹凸である。そんなものに昂ぶらされた自分の浅はかさを恥じた。
咄嗟に引きかけた手を、健司がつかんだ。互いの汗が掌同士をきつく接着した。
「どっちでも」
宏之は半ば怖気づいて体を離しかけていたので、健司が俯くと、短く切った髪とフリースの襟の間からうなじが覗けた。
「どっちでも、おれは」
宏之は健司の手を振り捨てた。渾身の力で健司を抱きしめた。
「回りくどい」
健司は強がって呆れたような声を出したが、体は硬直したままで、戸惑っているのは明らかだった。
「回りくどいよな」
「うん」
健司の返事は素っ気なかった。それでも、よそよそしい敬語よりはずっとましだった。体は緊張を極めているのに、故意に高圧的にふるまおうとする健司の健気さを、宏之は愛しく思った。驚いた。いつの間に、おれは、
「好きになってる」
「おれも」
「いや、今のは独りごと」
「なんやねん、それ」
健司がむっとした顔で首をめぐらせる。これ幸いと、宏之は素早く唇に取りついた。すぐに舌が絡みあった。熱狂が訪れた。呼吸困難に陥るほどだった。限界まで吸いあい、意識が朦朧とする寸前で顔をずらした。必死に酸素を集める。上半身を捻った不安定な姿勢の健司はすでに疲弊して、肩を上下させている。
「ほんまに、巧い」
「キス?」
応えずに、健司は目を逸らした。
「経験、あるんや?」
「男とは、ない」
あるといえば嫉妬で激怒するくせに、健司の顔には不安が浮かんだ。おまえは、とは尋ねなかった。その必要がなかった。宏之の腕のなかで、健司はさながら実験体の小動物同然だった。
「宏之さんて、自由やな」
「自由」
「ボーダー・ラインとか、ない。おれとのことも、もっと迷ったりするやろ、ふつう」
たしかに、宏之には倫理感が欠けている。冒険心もないが、一度足を踏み進めてしまえば、躊躇がない。
一瞬罪悪感をおぼえたが、責められているわけでないことにはすぐに気づいた。
一度ゆるす素振りを見せておきながら、健司は怖気づいているのだった。怒りやもどかしさはない。宏之のほうも、もし健司のほうが手を返してきたらどう対処しようかと思っていたのだ。
どちらがどちらを、いうなれば侵してしまうのか。考えたことはなかった。考えたとしても、まず間違いなく、自分がのしかかる構図しか想像できなかっただろう。
「付きあうとき、考えた?」
「なにを」
「こういうことするって」
「そりゃ……」
「おれにされると思った?」
「宏之さんは、そんなん興味ないんかと思った」
「あるよ」
宏之は手を伸ばして健司の頬に触れた。笑窪は浮かなかった。指先を肉に埋めると、健司は痛みに顔をしかめた。
「興味あるよ」
「なんで、急に……」
笑窪のせいだとはいえなかった。変態だと思われるのは目に見えている。宏之は平然と大嘘をぶっこいた。
「急じゃない」
横を向いている健司の体を包む。膝を曲げ、まさに包み込む体勢を取った。健司の肩から力が抜ける。まるで親子のような健康的な空気だが、反面、常識とは縁遠い狂気に近い昂ぶりがあった。
「おまえに触りたかった」
「そんなん、ぜんぜん」
「嫌がるかと思ったから」
「嫌……」
「嫌?」
「嫌やない……です」
今の敬語はわかった。いたたまれなさだ。形容しがたい熱に胸を燻されて、宏之はきつく健司を抱いた。
なぜ。どこから。どういうふうにして、好きになったのだろう。
たとえ男であっても、好かれることに対して嫌悪はない。しかし、それだけのことだった。それだというのに、今は、もしかすると、宏之の気持ちは健司のそれを追い越しているのかもしれない。そういうと、健司は心外とでもいいたげに眉を顰めた。
「おれのほうが上や」
「おまえのほうが上か」
「おれのほうが好きや」
「健司」
「おれやで」
「ちがう。それはわかったから」
宏之は苦笑いして、健司の両肩を支え、体を反転させた。はじめのように、背後から抱く。
「ちょっと、いいか」
答える代わりに、健司は息を詰めた。宏之は着衣の上から健司の胸元をさぐった。
「脱いだほうがええんやったら」
「いい。気にするなよ」
フリースの裾から手を差し入れ、下に着ているシャツをジーンズから引き出す。
子供に小便をさせるように健司の両腕の下から差し込んだ手を上昇させると、腹の皮膚に触れることができた。宏之の掌の下で、腹筋が戦慄く。
「冷たい」
この期に及んで、健司は強がってみせる。宏之は取り合わずに手をずらした。胸をまさぐっていた指先が突起に衝突する。
小さかった。不安をおぼえるほど、頼りない印象だった。慎重に指先を振動させると、健司は胴震いした。
「そこは」
「ここ?」
「そこは、感じんやろ」
「かんじん」
「ふつう……」
「ふつうは感じないよな」
同意してみせながらも、宏之は指の動きを早めた。強く押しつぶすと、ようやく跳ね返すような反動を感じた。
「宏之さん」
感じないといったのは本心だっただろう。経験に基づくもの確信だったはずだ。健司は目に見えてうろたえた。
「触られたことある?」
「ある。あるけど」
鷹揚に投げ出されていた両脚がもぞもぞと動きはじめ、膝が浮き上がっている。宏之は浮き立つような気分で、しつこく乳首を愛撫した。健司の服が宏之の腕のかたちに盛り上がり、蠢く。様々に動きを変えるナイロンが、エイリアンに侵略された胎内を思わせた。
そんなはずはない。エイリアンのことではなく、性別的にだ。男性。この染色体は、はっきりいって、宏之の性対象には未来永劫なりえない。にも関わらず、宏之はすっかり夢中になっていた。
「宏之さん」
もう一度、健司に名前を呼ばれた。当惑が消え、代わりに縋るような淡さがあった。
「好きや」
告白ではなかった。確認だった。健司は確実性を求めているのだった。これまでも、同じ色の言葉を向けられた。そのたびに、宏之は臆したような気持ちで、曖昧に笑みを浮かべた。だが、今はちがった。笑わなかった。代わりに、きつく噛んだ。健司の肩口に歯を立てた。
健司が苦しげに身を捩ると、指先が乳首から逸れた。苛立ちをおぼえた。もう一度着衣を掻き分けようとしたが、うまくいかなかった。
宏之は焦った。珍しいことだった。健司の指摘したとおり、宏之は巧みだった。もともと、一度はまると没頭するたちだ。醒めているぶん、その気になれば何度でも追い込む自信があった。しかし、今その自信は崩壊寸前だった。
宏之は居直ることに決めた。冷静さを放擲することにも、嫌悪は湧かなかった。すぐに目標を変え、手を健司の下腹に移した。
健司の膝はすでに鋭角に立てられていた。宏之の腕を拒絶するように挟みこんだ。強引に割り入ることもできたが、そうはしなかった。健司の耳に顔を寄せて、懇願した。
「離して」
耳の裏に唇を圧しつけた。火傷するかと思うほど、熱がこもっていた。
「離せって」
鼓膜に息を吹き込むと、健司は嘆息した。諦めたように脚の力を抜いた。
ジッパーを下げようとした手を止めた。ボタンフライだった。フリースの裾が長めだったので、気づかなかったのだ。たぶん、リーバイスの501。会うのはどちらかの家と決めているのにも関わらず、健司は身だしなみに手を抜かなかった。そういうささやかな距離感が、宏之の執着心を募らせる。
フロントボタンをはずす。2個目から先は、わざと時間をかけた。かろうじて冷静さを取り戻した。素材の感触が変わった。下着は手早く開け放した。健司に思案する隙を与えないように、躊躇なく抜き出した。
触角はすでに育っていて、宏之の誘導を待たずに顔を出した。苦笑いした。ひとまわりも変わらないが、やはり、若い。
拍子抜けするほど、純粋な気持ちだった。嫌悪も、それに近いものもまるで感じない。宏之は健司に触れた。触れるだけでは足りず、健司の肩ごしに顔を突き出して、見た。
健司の下腹を覆う茂みは、想像したより雑だった。乳首は子供のように小さかったくせをして、傲慢に思えるほど豊かだった。想定外のギャップに、宏之は胸を躍らせた。
「意外と濃いんだな」
「やめてください」
「なんで丁寧語」
「嫌ですって……」
「丁寧語はやめろよ」
「ごめん……なさい」
健司の声は切れ切れで、よく聞こえない。少し、苛めてやりたくなった。握りこむ手から力を抜き、言葉に稚気を混ぜ込む。
「最近、やってない?」
「あたりまえやないですか」
「あたりまえか」
「宏之さん、おるし……」
思わず猜疑心を抱いてしまいたくなるほど、健気だった。宏之は胸を詰まらせ、そのことを圧し隠して、笑った。
「聞いていい?」
「いい……ええよ」
共通語も関西弁もタメ口も敬語も、もはやばらばらだ。意味をなしているかどうかも、よくわからない。
「おれのこと、考えて」
「してへん」
最後まで聞かずに、健司は大きく首を振った。肯定したも同然だった。
「なんだ」
「なに」
「おれはしてるのに」
「嘘やろ」
「マジ」
「マジで?」
「うん」
健司はしばらく黙考していた。宏之は篭絡を知って、笑いを噛み殺した。
「おれも……」
「おれも、なに」
「おれも、ほんまは」
「ごめん、うそ」
「うそ?」
「してない」
宏之が笑うと、健司は首まで赤くなった。
「最悪や、このひと」
「ははは」
長閑に笑ってから、宏之は再び指先に意識を集中させた。他愛ないやりとりで緩慢になっていた健司の器官は、唐突な刺激に対応しきれず、大きく震えた。
「あ」
びくりと肩が跳ねたのは、声の前だったか、あとだったか。健司は両手で口を覆った。うなじの朱が濃くなった。
宏之はため息を飲み込んだ。せっかく苦労して冷静さを取り戻したというのに、すべて水の泡だ。
「いいよ」
左手で健司の腕を引くが、健司は頑として手を解かなかった。
「あかん」
「いいって」
「あかん。ほんまにあかん」
健司は子供のように駄々をこねた。必死に声をころしていたのだろう。しかし、軽い会話のあとに不意をつかれ、緊張が解けて、漏れ出てしまった。
宏之は頓着せずに指をずらした。触れるか触れないかの微妙な距離で陰嚢をさぐり、間を置いて引っ張る。
「あ、あっ」
小刻みに漏れる声が、健司の掌のうちで籠もる。宏之の掌のうちには硬直。脈打っている。素直だった。ひどく素直だ。
「あ、あかん、あか、あ……」
「あーかん」
「ちゃ……ほんまやって。宏之さん、ほんまに……」
冗談をいっているつもりはなかった。本当に、冗談じゃない。こんな。
「健司」
糸の絡む音に混じって、粘着質の音。健司の腰が浮く。
「健司」
「あ……触、触るんは……」
「なに。なんて、いってる?」
「宏之さん……」
「聞こえない」
「宏之さんっ」
「健司」
「健司、健司って……」
「おまえだよ、健司」
腕に痛みを感じて、はじめて健司につかまれていることに気づいた。健司はいつの間にか左手を口元から離して、宏之の右腕に取りすがっていた。
「やめ……やめてください」
「丁寧語」
「ひ、宏之」
丁寧語を使うなとはいったが、呼び捨てろとはいっていない。思いがけない健司の切迫に、宏之も昂ぶった。烈しく動作させる。手首が痺れるほどだ。
「我慢、でけへん」
「するな」
宏之は健司の首に噛みついた。さっきと同じ場所。健司が宏之の肩に後頭部を圧しつけて仰け反る。掠れた声が線を引くように伸びて、切れた。
宏之の手のなかで断続的に性を吐き出しながら、健司は虚脱した。苦しげに喘ぎ、ときおり思い出したように痙攣を起こす。言葉はない。
手を伸ばす。宏之の歯のかたちがくっきりと残る首に触れる。手を引っ込めてしまいそうになるほど、熱かった。
引き寄せようとすると、健司はいきなり体を強張らせた。
「やっぱ」
「なに」
「無理」
「無理?」
「恥ずかしい」
小声だった。消え入りそうだった。焦らしているわけではない。そんな余裕がないのはわかっている。羞恥心だった。雑物のいっさいが排除された、純度の高い羞恥心。健司の肩を鷲掴みにして、思い切り唇を吸いたいという衝動に襲われた。必死に自制した。無理矢理こちらを向かせようとしても、健司は抵抗するだろう。縮こまった背中には、完全な潔癖があった。
「恐い?」
健司は口を開かない。肯定したのも同然だった。
「なあ、健司、おれは」
口を噤んだ。いうべき言葉が見つからなかった。宏之は黙って体を寄せた。意図的に距離を置いていた下半身が腰に触れたとたん、健司はぎくりと震えた。
「宏之さん」
半疑問形。見られていないのにも関わらず、宏之は情けない顔をつくった。
無言でいた。消えたくなった。健司の自己嫌悪が伝染していた。分け合うことができていればいいのだが。
「宏之さん」
今度は懇願の色が混じっていた。素直に頷いた。自制心を奮い立たせるように、宏之は健司の背を圧して、無理矢理体を離した。
前身をあたためていた熱が冷めると、ふいに惜しくなった。依存しはじめている。宏之は焦って、反発しあう磁石のように強引に健司の背中を手放した。
おさまることのない下半身の脈をもてあまして、宏之は自虐的な気分になった。しかし、いっぽうでは、じゅうぶんに充足していた。苛立ちや焦りといったものはない。満たされるよりも与えるほうに満足感をおぼえるタイプだという自覚はあったが、これほど自分を誇らしく思ったことはなかった。
「あの」
「うん」
「おれも、手で」
「いいよ。気にすんな」
「ごめんなさい」
背を向けたまま、嗚咽のような謝罪を口にする健司を抱いた。性的な触れかたではなく、友情さえ感じさせるような、長閑な密着。
健司の痴態に触発されて湧き上がった野性は消えていた。無理を通すには、健司の背中はあまりにも小さすぎる。たいせつにしなくてはならない。そう思うと同時に、決意は固まった。
「健司」
はじめて、宏之はいった。
「おまえのことが、おれは好きだよ」
テレビの画面では、エスメラルダが微笑を浮かべていた。
おわり。
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