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蟻
中指に嵌まった指輪を外そうとして、健司は躊躇った。
そこまでいけるかどうか、自信がない。指輪を嵌めたままの指をしげしげと眺め、唇をつける。舌先で触れ、離す。息をつく。半ば投げやりな動作で、再び口元に持ち上げる。含む。短く切った爪の隙間まで、唾液がまとわりついた。
自分の口のなか。果たして、これほどまでに熱かっただろうか。フラッシュ・バック。ごつめの指輪が意識から消える。宏之は指輪を嵌めない。宏之の手はもっと冷たくて、固かった。
東急百貨店の男子トイレの照明は鮮やかで、引き抜いた指を輝かせた。健司は無意識に目を逸らし、前傾姿勢をとった。
排泄していないにも関わらず、二度もウォシュレットをつかった。臀部はきれいなものだ。それでもやはり、硬直してしまう。
48時間前に宏之が触れようとしてかなわなかった場所を、健司は自ら指先でさぐった。経験はなくとも、そこをつかわないわけにいかないという知識はある。自分の体。空洞の入口はすぐに見つけることができたが、その先へ行くには、非常な勇気が必要だった。
その程度の度胸はあると自負していた。間違いだった。宥めるように告白した宏之の笑顔と、そのやさしさに反比例する烈しい熱を思い出して、健司は泣きたくなった。
けっきょく、入口をわずかに圧迫したところで、指を離した。ジーンズと下着を下げた情けない姿で、健司は個室の便座に体を投げ出した。
無理。どう考えても、無理。
宏之のことが好きだった。自分でも戸惑うほどに、溺れていた。そういうことを想像しなかったわけではない。しかし、いざというときになると、その気にさせたのはたぶん自分だというのに、急に怖気づいてしまった。
無理や。ぜったいのぜったいに、無理や。
経験がなくとも、だいたいの想像はつく。痔にかかって肛門科に通った女友達の話も聞いている。
しかし、痛みや苦痛よりももっと不安なのは、宏之の反応だった。
健司は心中でこっそりと宏之のことを「ノー・ボーダー」と称している。一度その気になれば、躊躇はないだろう。それでも、彼の眼前に痴態を晒すのは耐えられなかった。
昂ぶりに打ち勝つ自信はあった。自分を見失うことはないはずだとたかをくくっていた。それもまた、健司を裏切った。宏之の手にさぐられて、着衣のままあっけなく乱されてしまった。狭い部屋に響いた声を思い出すと、死にたくなった。
同じ男である。あそこまでしておいて、素直に退いた宏之の自制心には、尊敬の念を抱かずにいられない。もちろん、罪悪感もあるが、それでも、求めに応じることは、いまだできそうにない。
それだというのに、デートしようと誘われれば、ちゃっかり最新の下着を選んで、シャワーまでしっかり浴びてくる矛盾。
買い物をして、食事をして、そのあと、どうなるか。期待と不安が入り混じった、奇妙な高揚があった。
なにしてんねん、おれ……。
健司は便座のうえで頭を抱えた。
待ち合わせた時間までには、まだ1時間以上もある。予行演習をしておくにはじゅうぶんだったが、これ以上トイレに籠もっていても、陰鬱な気分になるだけだった。
健司は身だしなみを整え、個室を出た。用も足していないのに、便器を流しておく。軽快な水音に自己憐憫を募らされる。
洗面台で丹念に手を洗い、髪に指を差し込む。宏之に切ってもらった前髪はおろしておいた。トミーのラグランスリーブにダウン・ジャケットといった服装も、悪くはない。洗面台から少し離れて、全身をチェックし、満足した。同時に、さらに落ち込んだ。
ほんまに、おれは、なんやねん。
両手を洗面台について、反省をかましていると、携帯電話が鳴った。最近のお気に入りはもっぱらジャパニーズ・ヒップホップだったが、宏之の好みにはあわない。彼からのメールや着信だけは、べつの着信音に設定してあった。
“ヒロユキさん”のあとに絵文字でハートを加えたディスプレイには、男としての自分にますます嫌気がさしたが、文面を見たとたん、沈んだ気持ちは消えてなくなった。
1時間以上前だというのに、宏之はすでに到着しているらしい。慌てて東急を出て、待ち合わせ場所に向かった。
勝手な拒否を示した健司に向かって、宏之はたぶんはじめて、心から愛を告白した。ふだん平気で遅刻してくるくせに、こんなに早くにくるとは。やはり今までの気持ちとはちがうということだろうか。それとも、勢いに任せて無理を通そうとしかけたことに対する罪悪感だろうか。どちらにしても、健司にはまだ覚悟がなかった。どんな顔でどんな話をすればいいのか、決めかねたまま、鼓動だけがいやになるほど高鳴っている。
こないだ、ごめんなさい……いや、ちがう。あのときの話はするべきでないだろうし、敬語をつかわれるのを嫌がっていたようだった。思い切って、いきなりかつさりげなく、宏之と呼び捨ててみようか。しかし、あれしきのことで馴れ馴れしくなったと思われるかもしれない。
悩みながらも浮ついた気分で、健司は待ち合わせた中央口に向かった。
宏之の姿はすぐに見つかった。目立つのは長身のせいだけではなく、図抜けた容姿のせいでもある。だれになんといわれようとも、健司はそう信じていた。
挙げかけた手を止める。宏之はひとりではなかった。小柄な女と談笑している。健司は全身を強張らせ、歩幅を狭めた。
「あ、健司」
健司に気づいた宏之が、破願する。つられたようにこちらを向いた女が、曖昧に会釈した。健司も軽く首を傾けてみせる。正面から見た女は、健司でさえ思わず頷きたくなるほどの端整な顔立ちだった。
「中学の同級生」
名前を伏せて紹介したのは、宏之なりの気遣いだったかもしれない。しかし、健司の猜疑心はかえって強まった。
「どうも」
想像以上にそっけない言葉だったが、宏之は気づく素振りも見せず、無邪気としか形容できない素振りで女に向き直った。
「健司。友達」
「へえ。かっこいいね」
女の言葉にもまた邪気は含まれていなかったが、健司の苛立ちはおさまりそうにない。
「友達ですか」
「そう。中学の同級生。偶然会ってさ、びっくり」
敬語を使うなといったくせに、宏之はそのことにも頓着しなかった。健司と女を交互に見ながら、平然と喋る。同級生だというのは二度目だったが、気づいていないようだった。それは、健司も同じだったが。
「今日、デートなの」
「デートかよ」
当然ながら、女は本気にせず、馴れ馴れしく宏之の脇腹をつつく。
「たまにはこっちにも回してよね」
「だめだめ」
「宏之はいつもそれだ」
中学の同級生と、宏之はいった。馴れ馴れしいのはあたりまえだった。それでも、健司の心は沈んでいく。
「健司くんだっけ。こんなのと遊んでいないで、彼女とデートしなよ」
気を遣ったのだろう。女が健司に視線を向けたが、健司の笑いは歪んだ。
「彼女、いないっすから」
「うそ、うそ」
揶揄するような笑みを浮かべて、女は自分の首を指で示してみせた。健司は慌てて首に手をあてた。宏之の歯が穿った痕跡。朝、鏡の前に立って、誤魔化さなくてはいけないと思ったものの、一張羅を準備することで頭がいっぱいで、すっかり失念していたのだった。
無意識に宏之のほうを窺った。宏之は戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに納得したように目を見開き、照れた。居心地悪そうに健司から視線を逸らした。
「あんたの胸のあれみたいね」
笑いを噛み殺しながら、女が宏之を見上げる。媚のようなものはいっさいなかったが、自分の知らない話を耳にして、健司の嫉妬心は高まった。
足元がぐらつくのを感じて、健司は身を引き締めた。渾身の力で、口を開いた。
「辻さん」
宏之が周囲に首をめぐらせる。健司が彼を苗字で呼ぶのははじめてだった。だれに呼ばれたかわかっていないのだった。宏之の天然ボケには慣れているつもりでいたが、健司には我慢ができなかった。
「辻さん」
ようやく気づいた宏之が、驚いて目をしばたたく。
「なんだよ、びっくりするだろ」
宏之の笑いには、迎合できなかった。健司は強張った顔を歪ませて、横を向いた。
「おれ、先、行ってますわ」
「あ、いいの、いいの」
先に反応したのは、女のほうだった。とりなすように笑顔をつくった。
「こっちも待ち合わせだから、行って、行って」
しかし、健司は聞こえないふりをして、踵を返した。背後で小さな別離のやりとりがあって、すぐに宏之が追いかけてくる。
「待てって、健司……健司」
腕を引かれる。この強さは、本物だろう。しかし、いつものように笑顔で振り返ることはできなかった。
「友達だよ」
鈍感な宏之も、さすがに健司の嫉妬を感じ取ったらしく、早口に弁明する。
「おまえだって、いるだろ」
たしかに、健司にも女友達はいる。しかし、そんなことは頭になかった。
「わかってます」
「健司」
「わかっとるいうねん」
健司は宏之の手を振り払った。にらんだ。視界が揺れた。目を逸らした。
「気にしてへんから」
「ごめん」
宏之が即座に謝る。健司の言葉をまるで信用していない。
「どこ、行きたい」
機嫌をとるように磊落な調子で宏之がいう。健司は急に投げ遣りな気分になった。
「ホテル」
短くいう。宏之の耳には入らなかったらしい。聞き返されて、健司はもう一度、いった。
「だから、ごめんっていっただろ」
宏之は取り合わなかった。苦笑いで健司の頭を小突く。健司は真顔で宏之を見つめた。宏之の顔から笑みが消えた。
「さっきな」
信号が青に変わり、膨大な量の通行人がふたりを追い越していく。
「入れてんで、おれ」
「なにを」
「指」
絶句する宏之の手を、健司はとった。
真昼のホテルは、呆れるほど繁盛していた。ランプの消えた部屋の写真が、なんともいえない鬱然とした雰囲気を醸し出していた。
躊躇う宏之を強引に連れ込んだ。余っていた部屋は狭く、澱んだ空気が流れていたが、気にならなかった。
宏之の手を離して、ベッドにかけた。リモコンを操作して、ケーブル・テレビを点けた。
ダウン・ジャケットを脱ぎかけた手を、宏之が抑える。戸惑いが消え、真剣な目になっていた。揺れそうになる心を引き締めて、健司はにらみ返した。
「しよう、宏之さん」
「健司」
「だ」
こめかみから首にかけて熱が行き渡る。それでも健司は視線を逸らさなかった。
「抱いて」
語尾が震えて、思わず舌打ちが漏れた。俯いてしまった自分を内心叱りつけたが、そうなるともう、顔を上げることはできなくなった。
「無理すんなよ」
「してへんし」
目の前の宏之の腰。縋りついた。動作以上に依存的な目を向けた。
「今日は、ちゃんとできるから」
「健司」
「おれかて、できんねんで。女の子みたいに、ちゃんと」
「健司」
突き飛ばされた。すごい力だった。呆然とする健司の手をとって、宏之は顎をしゃくった。
「風呂に入ろう」
見下ろす視線の冷たさに、健司は慄いたが、口には出せなかった。促されるまま、立ち上がった。
凝ったつくりのバス・ルーム。ごていねいに、数種類のチューブや玩具の自動販売機が側面に設置されている。目が離せなくなる健司を放って、宏之はさっさと脱衣をはじめた。裸の背が視界に入って、健司は慌てて目を逸らした。鈍い手つきでジャケットのファスナーを下ろす。手が震えた。唇を噛んだ。息苦しい。こんなはじまりはごめんだったが、今更あとには退けない。
とっくに決意してしまっているはずなのに、健司の手はジャケットを脱いだだけで、次に進まなかった。
健司に背を向けたまま、宏之がなにかいった。
「はい?」
答える代わりに、宏之は脱いだシャツを床に叩きつけた。振り向きざまに、健司の体にしがみついた。
「だめだ」
「宏之さん」
「だめ、おれ」
ため息混じりの言葉が繰り返され、健司は混乱した。宏之の背におそるおそる腕を回す。宏之は風呂上りに半裸で部屋をうろつくような男ではない。裸を見るのもはじめてなら、直接素肌に触れるのもはじめてだった。指先が冷たいわりに、体温は高かった。
自動販売機の隅が背中に食い込んで、痛い。宏之は押し黙っている。息苦しかった。健司が喘ぐと、宏之は腕の力を緩めた。理性を取り戻したらしい。自動販売機と健司の間に手を差し込んで、やわらかく抱いた。
「ごめんな」
「なにが」
「おまえの知らない女としゃべって」
「べつに……」
「嫌だっただろ」
健司は黙り込んだ。嫌悪感をおぼえたのは、宏之にでもその友人にでもなく、自分自身に対してだったような気がした。勝手に甘い時間を想像しておいて、そのとおりにならなくなると、裏切られたと錯覚する。本当に、勝手だ。
「おれ、おまえのこと本気だよ」
唐突に宏之はいった。
「最初は、そりゃ、適当なノリで付きあったけど、今は、大事にしたいって思ってる。自棄になられると、おれが、痛い」
宏之の言葉は、健司の全身に沁み入り、緊張を解していくようだった。
「宏之さん」
「うん」
「おれな、エッチなんか、簡単やって思っててんやんか」
「うん」
「でも、いざってなったら全然ヘタレで、自分に自信がないていうか」
「おれが浮気すると思った?」
「……正直、このまんまやったら、そうなってもしゃあないって思った」
「そこまで猿じゃないよ、おれ」
「男なんて、みんな猿やで。欲求不満やったら、ふらふらってなるかもしれんやんか」
「おまえだって、男だろ」
「おれはそんなんはないからええの」
「おまえはなくて、おれはあるの」
「うん」
宏之はため息をついた。
「寝たら信用してくれんの」
「信用てか……安心はするかも」
「おまえねえ」
宏之が体を少し離して、ようやく視線が絡んだ。困ったような宏之の顔を見ていられず、健司は俯きかけた。
落ちた視線が宏之の胸元で止まる。薄明かりのなか、健司は目を凝らした。
「宏之さん」
「なに」
「胸んとこ、なんかついてる」
「胸……ああ」
宏之が照れ笑いを浮かべる。説明を受けるまでもなく、健司も気づいた。
宏之の裸の胸。鎖骨のすぐ下のあたりに、赤ん坊の掌ほどの黒い模様があった。一匹の巨大な蟻を模った刺青。健司が汚れだと勘違いしたのも無理はなかった。彼にとって、宏之はそのような捩れた装飾などとは縁遠い男だった。
「若気の至りっていうか」
健司が凝視しているのを意識して、宏之は蟻に手を触れた。肩を竦める動きにあわせて、黒い胴体が蠢く。
「引いた?」
遠慮がちに尋ねられて、健司は我に返った。格好をつけるつもりで、無理に笑ってみせた。
「全然。友達とかでも、多いし。宏之さんは、ちょっと意外やったけど」
「そうかな」
「ゆうてくれたらよかったのに」
「いちいちいわないだろ、そんなこと」
「だいたい、なんで蟻」
「かわいくないか」
「かわいいけど。蜘蛛とかちゃう、ふつう」
「蜘蛛、怖い」
大きな図体をして、虫が苦手な宏之である。顔をしかめるのを見て、健司は笑いを噛み殺した。
「ちょうちょとかなら、恐ないやんか」
「ちょうちょも恐いよ」
「どこが」
「強くつかむと、羽が取れるだろ」
宏之はなにげなくいったが、健司は目を逸らした。
口では馬鹿にしていても、蜘蛛でも蝶でもなく蟻を選ぶ宏之のセンスを、健司は愛している。しかし、その喜びも、胸に広がる不安に侵食され、消えてしまった。
駅で会った宏之の同級生がいっていたのは、このことだったのだ。どれほどの仲だったかは知らないが、まだ知り合って半年もたっていない健司が、彼女以上に宏之を知らないのは当然だった。もちろん、反対に、友達や同僚が知らない宏之の一面を知っているという自信もある。しかし、健司には、それだけでは足りなかった。
宏之は蝶に触れるように健司にも触れるつもりなのだろうが、それでは宏之の胸に永遠に存在することはかなわない。たいせつにされるだけで、満足できるはずがなかった。
健司は宏之の胸元に指を這わせて、節ばった蟻の体をなぞった。宏之はくすぐったそうに肩を揺らしたが、好きなようにさせてくれた。
「なんで、彫ったん」
「蟻なら、恐くないから」
「そんなんやなくって」
「べつに、理由はないよ。ちょっと興味あったから」
宏之の胸をさぐりながら、健司は眉間に皺を寄せた。おそらく、宏之は本当のことをいっているのだろう。思いきってしまえば、即座に行動に移す性格は、よくわかっている。それでも、健司の胸は曇った。
蟻になりたいと思った。仕事も食事も睡眠もせずに、ただひたすら宏之に寄り添っていられれば、どんなにいいだろうか。しかしそんなことはできないし、口に出しただけでも、宏之はあやふやな笑顔を浮かべるだろう。
「ほんまに、なんも知らんねんな、宏之さんのこと」
「これから知っていけばいいよ」
健司は緩慢に頷いた。納得できていないのは明らかだったが、宏之はそれ以上宥めようとはせずに、胸元の手を取った。
「出よう」
宏之の言葉は健司の耳を素通りしていた。健司はしばらく黙って俯いていた。宏之の手はあたたかく、力強い。しかし、安寧はなかった。やさしく扱われれば扱われるほど、不安と猜疑心は際限なく拡散していく。止める方法はひとつしかなかった。
宏之が踵を返し、体を折り曲げて脱いだ服を拾い上げる。蟻の姿が視界から消え、健司は胸を騒がせた。
咄嗟に、縋った。腰に両腕を巻きつけると、宏之は硬直した。
宏之の背中に額を圧しつけて、健司は息を吐いた。右手を下降させる。腰骨がジーンズの生地を押し上げてできたわずかな隙間に指先が滑りこもうとしたところで、手首をつかまれた。即座にねじ上げられ、健司は顔をしかめた。
腕の力はすぐに弱められたが、解放はなかった。苦しげに眉を顰めたのは、健司ではなく、宏之のほうだった。
「やめて」
「嫌や」
「頼むって、健司」
さすがに宏之の口調にも苛立ちが混じった。陰鬱な声でいった。
「あんまガツガツこられると、ちょっと引く」
健司の体から血液が落ちた。宏之も我に返り、慌てて弁解する。
「いや、一般論だけどさ」
「でも、引いたんやろ」
「引いてないよ」
「おれ、ガツガツしてへんし」
「わかった。わかってる」
わかっているとは思えなかった。宏之の気持ちをとどめておくためならなんでもするという覚悟と、実際にはそうできない自分の弱さに苦しんでいる健司の苦しみを、宏之はまるでわかっていなかった。形容しがたい空虚が、健司の膝から力を奪った。
「そんなふうに思われてんねやったら、もうええわ」
「健司」
「別れよ」
宏之が絶句する。健司は掌に顔を埋めた。
「するか、別れるか、どっちか選んで」
はっきりいったつもりが、語尾が揺れた。誤魔化すように、畳み掛けた。
「今すぐ、選んで」
ため息がわななくように広がった。静かに、宏之はいった。
「わかった」
健司とは反対に、宏之の言葉には躊躇がなかった。
「別れるよ」
蟻はその節をぴくりとも動かすことなく、幸せにつづくはずだった1日を終わらせた。
おわり
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