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ナチュラル
どうやら、健司の周りには、タイミングが悪い人間が集まってくるらしかった。
「なんで自分の誕生日パーティを自分の店でやんねん」
“鉄郎”の店先で、健司はもう30分近くうろついていた。
はじめは断ったものの、散々世話になっている篠原から直々に呼び出されては、断るわけにもいかなかった。宏之とのことを正直にいえば、気を遣ってくれるだろうが、同情されたくはなかった。
宏之も、今日はシフトに入っているはずだ。健司が顔を見せなければ、意識していると思うかもしれない。
すでに別れているのだから、なんと思われようと関係ないはずだったが、そう単純に割り切れるはずもない。嫌いで別れたわけではないのだ。それどころか、健司には別れるつもりなど微塵もなかった。
セックスするか別れるかのどちらかを選ぶように迫ったのは、確かに横柄だった。しかし、後者を選択されるなどとは、予想もしていなかった。
自惚れていたかもしれない。健司が思っていたほど、宏之の心は固まってはいなかったのか。健司の賭けに、これ幸いと飛びついたのかもしれない。自分を汚すことなく、健司から逃げることができたのだから。
だとしたら、ずるい。自分の我儘を棚に上げて、健司は憤った。
別れを告げられ、呆然としたままホテルをあとにしたが、やはり、どういうつもりなのか問いたださなくては、気が済まなかった。
声に出して気合を入れてから、健司は階段を駆け上がった。暖簾を掻き分けようとして、足を止めた。前掛けをした宏之が、伝票を手に立っていた。
「お」
「……ども」
不意打ちだった。詰問するつもりだったのが、けっきょく、目を背けてしまった。
「なおさんの?」
頷く。宏之は平静そのものだった。奥の席に向かって顎をしゃくる。
「辻さん」
店内に戻ろうとして、宏之は振り返った。今度は訝しげに周囲を見回すこともなかった。
「なに」
「や……なんもないです。ごめんなさい」
厨房に入る宏之の背中を見送って、健司は肩を落とした。障子を引いて顔を出した水野が、健司を見つけて手を振る。
「遅いぞ、健司」
掘り炬燵の席には、綾瀬や砂原といったスタッフとともに、健司の友人や後輩までもが顔を揃えていた。
「なんで店員でもないのにちゃっかりおんねん」
「おまえがいうな、おまえが」
主役の篠原はすっかりできあがっていて、健司の肩に腕を回す。
「酒臭いで、なおさん」
「ええやんか、誕生日なんやから」
「家帰ったら?」
「嫁と子供には、昨日お祝いしてもらいました」
篠原が歯を見せる。ついに三十路を越えてしまったというのに、無邪気なものだ。そのあたりが、健司をはじめとする若者に懐かれる由縁だろう。
緩慢な手つきで見るともなくメニューを捲っている健司を見て、向かいに座っていた綾瀬が眉を寄せる。
「元気ないな」
「実はな、宏之さんと……」
慌てて口を噤む。宏之が注文を取りにきたのだ。
ほかにもスタッフおんのに、なんでわざわざあんたがくんねん。
勘違いしてしまいそうになるのを必死に自制して、顔をあわせないようにメニューをにらみつける。宏之も気にする素振りを見せずに、伝票にペンを走らせる。
「倉林くん、ビールだっけ」
「はーい」
「あ、おれも」
「ビールふたつね……我孫子くんは?」
一瞬、空気が冷えた。ごくりと唾を呑みこんでから、健司は頬を痙攣させて答えた。
「ええわ、焼酎で」
宏之のほうは見ずに、ボトルを手にしている砂原に向かっていった。
注文を取り終えて宏之が下がると、たちまち健司の周囲に全員の顔が集まった。ふたりの関係を知らない水野や後輩の倉林などは戸惑っていたが、篠原などは酔いも覚めてしまったようだった。
「どないなっとんねん」
「どないもこないも」
「喧嘩?」
さすがに砂原もからかう気になれないらしく、神妙な面持ちで尋ねてくる。ぎこちない笑いを返した。
どういうことか、健司のほうが聞きたい。もはや他人ということなのだろうか。先に苗字で呼んだのは自分のほうだということも忘れて、健司は唇を噛んだ。砂原が酒をつくり終えるのを待たずに、ロックのまま焼酎を煽った。
1時間とたたずに、潰れてしまった。健司はグラスを持ったまま、隣の篠原にしなだれかかった。
「あぶなっ」
「なおさーん」
「まとわりつくな。うっとうしい」
「おれ、なおさんの嫁になる」
「間に合ってます」
「じゃ、子供になる」
「いやや、こんなでかいガキ」
篠原はあからさまに顔をしかめて、周囲に助けを求めた。
「だれか、これ、いらん?」
「健司なあ。イケメンなんだけどなあ」
綾瀬が笑いを噛み殺す。
「いかんせん、うざいんだな」
「いかんせん、うざいわな」
砂原が調子をあわせると、健司は即座に顔を上げた。
「あ、嘘です、嘘」
「ちゃうねん」
健司の声が沈み、両手を挙げかけていた砂原と綾瀬が顔を見合わせる。
「ほんまに、うざいねん、おれ」
抱いてくれと迫ったときのことを思い出すだけで、死んでしまいたくなる。別れるといった宏之の顔は、どれだけ飲んでも、消えてくれそうにない。
「うざいねん」
せっかく好きになってくれたのに、あれでは気味が悪いと思われてもしかたがない。気持ちが通い合っただけでは、どうして満足できないのだろう。体を繋げたとしても、そのときはまたべつの不安に襲われて、少しでも気に入らないところを見つけては、宏之を責めるのだろう。
そうして際限なく傷つけあうぐらいなら、確かに、今のうちに別れておくほうがいいだろう。
しかし、健司には簡単に割り切れなかった。かといって、素直に謝って縋るには、宏之のげんなりした顔の記憶はあまりにも鮮明すぎる。
「健司、おまえな……」
隣で見ていた水野が声をかけようとするのを遮って、間の抜けたアナウンスが鳴った。
「えー、ご来店ありがとうございます」
宏之の声だった。健司の顔が強張る。
「本日はうちのベテランスタッフ篠原の誕生日ということで、よろしければ、みなさんも祝ってやってください」
客の誕生日には恒例となっているイヴェントのひとつである。ふだんは店長の小野がマイクを取って盛り上げるのだが、手が離せないらしい。無理矢理やらされているのが明白な、面倒くさそうな声に、篠原も思わず苦笑いを浮かべた。
「それと、私信ではございますが、この間はすみませんでした」
バースデイ・メッセージにしては妙である。篠原は首を傾げた。
「なんかしたんかな、おれ」
「どっちか選ばなきゃいけないと思って、あんときはああいってしまいましたけど、今になって、すごい後悔してます。できれば、もう1回、チャンスがほしいです。なんでもするんで、ゆるしてほしいです」
「なにこれ」
怪訝そうにいったのは、障子を隔てた隣の席の女性客だった。
「なおさん」
「知らん、知らん」
戸惑って首を振っている篠原の肩につかまって、健司はよろけながら立ち上がった。
「トイレ、行ってくる」
だれにともなく断って、障子を引く。店の名前が書かれたスリッパを引きずって、歩く。トイレとは逆の方向。途中からは、ほとんど走っていた。
マイクの設置してあるレジにはもう宏之の姿はなく、見知らぬ若い店員がシフト表を眺めていた。息を切らしてレジ台に前のめりになった健司を見て、目を丸くする。
「やい、新人!」
「やいって……」
「宏之さんは」
「裏にビア樽取りに……」
最後まで聞かずに、健司は店を飛び出した。厨房を抜けたほうが早いのだが、知り合いの顔は見たくなかった。
階段を駆け下り、大回りして、裏口にたどり着いた。
「あれ、健司」
樽を抱えた宏之が、首をめぐらせる。
「なにしてんの」
健司は全力疾走した。殴りかかるような烈しさで宏之に抱きついた。ビア樽が落下して、鐘のような音を立てた。
「二度と苗字で呼ばんで」
宏之の首にしがみついて、健司は懇願した。
「もうなんもせんでええから、苗字は呼ばんで」
「わかった」
くどいようだが、先によそよそしい態度をとったのは健司のほうである。しかし、宏之は短く謝った。
「手、汚れてるけど」
いい終わらないうちに、大きく何度も首を振った。宏之の両腕が健司の肩甲骨の上下に食い込んで、互いの胸が密着する。息苦しいほどだ。アルコールの沁み渡った体が燃えるように熱い。
「一瞬」
ため息とともに言葉を吐き出す。
「なおさんとなんかあったんかと思った」
責めるような、甘えるような口調に、宏之が笑う。
「みんな、たぶん、思ってるよな」
「なんで、あんなん」
少しの間黙って、宏之はいった。
「おまえが、なおさんとべたべたするから」
責めるような、ふてくされるような。健司は唖然として宏之を見た。マイクごしのそっけない告白。宏之が嫉妬することがあるなんて、想像もしていなかった。冷ややかな態度はそのせいだったのか。健司はもう一度自分から宏之を抱きしめた。
「もうせえへん」
「いいよ、ちょっとぐらいなら」
「せえへん!」
「わかった」
宏之は苦笑いして、健司の背中を叩いた。
「わかったから、泣くなよ」
「泣いてへんし」
「鼻水出てるぞ」
「う」
見上げた顔におしぼりを押しつけられ、健司は眉を顰めた。気づくと、宏之のTシャツの襟は湿って色を濃くしていた。薄い密着の隙間で鼻をかむ健司を、宏之は安堵の表情で見守った。
顔が近づき、吐息が絡みあう。
「宏之さん」
だれかがきたら。そういおうとした唇が強張った。おどけたしぐさで、鼻先を蠢かせた。古い油の緩慢な臭気が鼻腔を刺激した。
「唐揚げの匂いがする」
「おまえは、酒の匂い」
健司は泣き笑いの表情をつくった。宏之の親指が頬の窪みに埋まって、笑窪を指摘されたことを思い出した。健司の顔が朱に染まる。
宏之は首を傾げるようにして健司の唇の端に唇をつけた。額同士を圧しつけあうと、色も長さもちがう前髪が汗で接着され、複雑に絡んだ。
健司の頭頂部に掌を置き、ときおり思い出したように乱暴な手つきで撫でる。触れかけた唇が痙攣したような気がして、健司の胸はしめつけられた。
厄介払いできて宏之が喜んでいるのではないかといった捩れた被害妄想を、どうして抱くことができたのか。そもそも、離別と引き換えにしてまで、肉体的な繋がりを求めた切迫さえも、今となってはまったく理解不能だった。
こんなにも、宏之は健司を愛してくれている。それ以上の切実さを持って、健司は宏之に依存している。今度、宏之に苗字で呼ばれたら、大袈裟でなく、死んでしまうだろうと思った。
「ゆうとくけど」
何度目かのべそをかかないように、一度言葉を切って、顔を引き締める。
「別れてへんで、おれら」
「うそ」
宏之が女のような手つきで手を口元に持っていく。健司は腹筋に力を込めて、笑い出しそうになるのをこらえた。
「別れてるて思てた?」
「思ってた」
「いいっていうてへんやん」
「だれが」
「おれが。おれが別れてもいいよっていうてへんやろ」
無茶な選択を強引に迫っておいて、凄まじいいいぐさだが、宏之は素直に頷いた。
「あ、そうか。そういえば、そうだなあ」
よかった、馬鹿で。健司は内心胸を撫で下ろしていた。宏之がいわゆる天然ボケであることを、ここのところの揉めごとですっかり忘れていた。
「じゃあ、おれら、まだ付きあってる?」
「あたりまえや」
健司の居丈高な態度にも文句ひとついわず、宏之は満面の笑みを浮かべた。
「よかった」
男らしさや猛々しさといったものとは縁遠い、控えめな独白だった。それでも、健司の動悸は烈しくなった。それでいて、穏やかな気持ちだ。
手のなかのおしぼりを握りしめる。こんな居心地のいいところに、今までいたのか。夜風に煽られてようやく酔いが醒めてきたところで、強烈な羞恥心が湧いてきた。
宏之は馬鹿だったが、健司にはかなわない。幼稚な独占欲で、かけがえのない時間や場所を失うところだった。今更ながら、背すじを冷たいものが駆け抜けた。
厨房から宏之を呼ぶ声がして、宏之が呑気なレスポンスをする。
「戻んないと」
「おれも……」
薄明かりの下、視線を交換した。宏之は肩で大きく息をついて、健司の頭を軽く叩いた。
「あとでな」
「ん。終わるん待ってる」
「遅くなるぞ」
「どうせ暇やし」
なにを反省したのか、浅慮を省みないそっけない態度になった。それでも、宏之は顔を綻ばせた。
「あんま飲みすぎんなよ」
もう一度、今度はさっきよりもおざなりな手つきで健司の髪をもみくちゃにしてから、宏之はビア樽の縁に手をかけた。筋肉の直線が腕上を真っ直ぐに伸びる。思わず凝視してしまい、慌てて視線を逸らした。
「健司」
「ん?」
樽を持ったまま上半身を傾けて、宏之が健司にキスした。今日はじめてまともにするキスだった。
「あとでな」
「……うん」
健司も赤面していたが、宏之のほうも浮ついているようだった。よりが戻ったことを無邪気に喜んでいるような顔を見つめていると、一時的にでも、健司の不安は消える。
「健司」
階段を降りて入口に向かおうとする健司を、階上から宏之が大声で呼び止めた。
「こんど、しような、セックス」
螺子が緩んでいるのもかわいらしいが、程度問題である。健司は丸めたおしぼりを宏之に向かって思い切り投げつけた。
おわり。
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