ハンカチのご用意を

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ハンカチのご用意を

 低い唸り声を上げて、宏之が寝返りを打った。仰向けの姿勢になると、部屋の電灯が眩しいのか、肘を曲げた腕を額の上に投げ出すようにして、眉間に皺を寄せている。すぐに寝息が聞こえてきて、小さな鼾になった。そうとう疲れているらしい。健司は複雑な思いで、宏之の寝顔を眺めた。 「宏之さん」 「んー」 「宏之さんて」 「うーん……」  ほとんど無意識だろう。返事ともいえないうめき声を漏らして、宏之は壁のほうを向こうとする。健司は開いていた雑誌を床に投げ出すと、ベッドに上った。容赦なく体重をかけて、寝ている宏之の腹部に跨る。 「おも……」  それでもまだ半分眠りに入ったまま、宏之が苦しげに喘ぐ。 「ちょ、マジ重い、重い」 「宏之さんが起きんから」 「今日、休みなんだよ……」 「休みやから、やろ!」  健司は声を張り上げた。 「連休の間、ぜんっぜん会われへんかってんで。久し振りにゆっくりできたのに……」 「だから、ゆっくりしてるだろ」 「しすぎ!」 「わかったから、でかい声出すなって」 「なあ、どっか行こ。おれ、海猿見たい」 「あとでな」 「あとっていつ?」 「健司……」  薄く目を開け、ため息混じりに宏之がいう。 「あのな、おれ、10連勤ですごい疲れてんだよ。ちょっとだけでいいから、寝かして」  噛んで含めるようないいかたをされると、よけいに素直に頷けなくなる。口を開きかけた健司の首に、宏之の腕が巻きつき、引き寄せられた。 「……おれ、べつに眠くない」 「頼むって。ほんとにちょっとでいいから」  投げ遣りにいって、宏之は健司の頭を撫でる。健司はなおも身を捩って逃れようとしたが、半ば強引に抱き込まれた。 「ちょっ、また……誤魔化されへんで」 「わかった、わかった、な。愛してる、愛してるから……」  宥めながらも、宏之はまたとろとろと眠りはじめる。抱き枕になった気分で、健司は途方に暮れた。 「そんなテキトーにゆわれても、嬉しくない」  小さく悪態をついてみたが、すでに宏之は熟睡しているらしく、返事の代わりに、長い息が健司の額を擽った。肩にのしかかる宏之の腕も、重量を増している。  さすがに、諦めざるをえなかった。腕枕は嬉しかったが、このまま眠ってしまっては、起きたときに痺れてしまうだろう。眠いわけではなかったが、いちおう気を遣って、頭の位置をずらしてみた。宏之のTシャツの胸に鼻先を圧しつけると、汗と煙草とアルコールが混じった、鼻に慣れた匂いがした。店から帰ってきてすぐ、シャワーも浴びずに寝たのだろう。午後になって健司が部屋を訪ねたときは、死んでいるのかと思ったほど、疲れ果てていた。  大型連休は飲食店にとっては絶好の稼ぎどきだ。忙しいのはよく理解していたから、連絡も最小限に抑え、店や部屋に押しかけることもやめた。しかし、会えない時間を平然と過ごしていたわけでは、当然ながらない。  顔が見たくてたまらなかったし、話したいこともいっぱいあった。久し振りに会えることになって、躍るような気持ちだったのに、宏之はちがったらしい。  まるで深い青と悪魔のあいだにでもいるように、どんどん気分が沈んでいく。宏之の体温も、醒めた心を凪ぐことはできなかった。気持ちが入っていない愛してるなんかより、愛のないセックスのほうがよっぽど救われる。  前日はとくにすることもなく、自宅でひたすら眠っていたので、眠気はまったくなかった。健司は宏之を起こさないように注意しながら、そっと腕のなかを抜け出した。  春先に雑誌に取り上げられたのがきっかけで、“鉄郎”はつねに客でごった返していた。歓迎会と連休の時期を過ぎても客足は退かず、週末は少人数でも予約が必要なほどだった。  平日の早い時間とはいえ、侮れない。後輩の倉林を伴い、ガラスドアごしに店内を覗き込んでいると、いきなり背中を圧された。 「あ、宏之さん」  店の名前が刺繍された前掛けを巻いた宏之が、目を擦りながら立っていた。 「あ、宏之さん」  倉林がおどけた顔で健司の口調を真似る。宏之は苦笑いを浮かべて、店に向けて顎をしゃくった。 「入れば」 「うん」 「ふたり?」 「水野もおんで」  べつに、倉林とふたりきりでいたとしても、宏之が機嫌を損ねることはないだろう。わかってはいても、つい弁解するような言葉になってしまう。健司は慌てて目を逸らしたが、宏之は気づかなかった。暖簾を分けて、ふたりを招き入れる。 「健司」  おしぼりを手渡しながら、宏之が声をひそめる。 「ごめんな、この間」  部屋にきてもいいといっておいて、健司が帰ったことにも気づかないほど深く眠りこけていたことをいっているのだと、すぐにわかった。健司は倉林の視線を意識して、投げ遣りに頷いた。 「忙しいんやもん。しゃあないやろ」  宏之は無言で健司の頭を撫でた。乱暴だが、じゅうぶんにあたたかみの感じられる手つきだった。髪が乱れるのを気にするふりをして、健司は首を捻って避けた。宏之は楽しげに笑った。少し休んで、体力も回復したようだ。注文をとりながら、嫌がってみせる健司の髪を引っ張って、からかっている。 「仲いいっすよね」  宏之が厨房に引き下がると、倉林がそういって冷やかした。 「いいなあ。宏之さん、かっこいいし」 「あ、やっぱ、思う?」 「そりゃ思いますよ」  倉林が大きく頷く。水野は薄々気付いているだろうが、倉林はふたりの関係を知らない。健司に気を遣う必要もないから、きっと本心なのだろう。誇らしい気持ちになって、健司は機嫌よく酎ハイのグラスに口をつけた。 「彼女とか、いないんすかね」 「宏之さん?」 「もてそうじゃないすか」 「そりゃもてるやろ」  自分がそうだともいうわけにもいかず、曖昧に頷いておく。 「でも、あんな忙しいと、寂しがるんじゃないですかね」  ほんまや。  健司はため息をついた。いつの間にか、すっかり彼女がいることになっているが、わざわざ訂正するのも不自然だろう。肯定も否定もせずにいるうち、酔いもまわってきたのか、倉林は勝手に納得して腕を組んだ。 「まあ、宏之さんと付きあうぐらいだから、そうとうきれいで、ものわかりがいいひとだとは思いますけど」  悪かったな、きれいでもものわかりよくもなくて。  健司はひとりでふてくされた。 「あ、やきもち。自分に彼女がいないもんだから」 「うっさいわ、おまえ」  丸めた箸袋を投げつけると、倉林は大仰に体を逸らした。失礼な奴だが、陽性で屈託がないので、いっしょにいて楽な相手ではある。  しばらくしてバイト帰りの水野も加わり、友人たちの噂話や、ファッション、音楽の話などで盛り上がった。この数日間落ち込んでいた健司も、ようやく本来の明るさを取り戻して、大いに飲み、はしゃいだ。  久し振りの“鉄郎”はやはり居心地がよく、つい長居してしまった。健司たちが腰を上げたのは、すでに始発が走り出した頃だった。他に客はなく、綾瀬や砂原といったスタッフが忙しげに立ち働いて、店じまいの支度をしている。店長と宏之の姿がないことに気づいてはいたが、酔った倉林がトイレに閉じこもってしまったので、そちらに気をとられて、すぐに意識から消えてしまった。 「ごちそうさまでしたー」 「おう、お疲れ」  よろけながら歩く倉林を、水野といっしょに両側から支える。ふだんは逆の立場が多い健司を、砂原たちがからかった。 「ちょっと待てよ、今、宏之呼んできてやるから」 「あ、いいです、忙しいと思うんで」  早口にいって、暖簾をくぐった。強がりといわれれば否定できないが、邪魔はしたくなかった。  しかし、砂原が気をきかせたのだろう。階段を半分ほど降りたところで、サンダルの音を響かせて、宏之が追ってきた。 「あ、ども」  水野が素早く健司と宏之の間に視線を配る。 「うん」  水野に向けて返事をしながらも、宏之は健司を見た。酔いつぶれている倉林はともかく、水野の視線が気になって、健司はアルコールで熱った顔を俯けた。 「帰るの」 「うん。もう朝やし」 「そっか」  なんともいえない沈黙を追い出すように、水野がわざとらしく喉を鳴らした。 「先、行ってるわ」 「だいじょぶ?」  すまなさそうにいう健司から倉林の腕を受け取って、水野は意味ありげな表情で頷いた。なにもいわないが、ふたりの関係に気づいていることは間違いなさそうだ。 「気、遣わせたかな」 「うん……」  宏之は無言で階段に腰を下ろした。少し距離を置いて、健司も同じようにしゃがみこむ。狭い螺旋階段である。階下の歩道を行き交う酔っ払いたちの姿が見えなくなると、ますます落ち着かなくなった。 「そんな酔っ払ってない?」 「今日は、あんまし……」  沈黙が破られると、また新しい沈黙が漂いはじめる。以前はなにをどんなふうにしゃべっていたか、思い出せない。情けなさに、涙が滲みそうになった。  うなだれていると、いきなり肩をつかまれた。思いがけない力で引き寄せられ、上半身が大きく傾いだ。健司の体の右側が、宏之の体の左側と密着する。無意識に顔を上げると、やわらかい笑顔とぶつかり、慌ててまた目を伏せた。 「……平気なん、片付けさぼって」 「うん……ちょっとだけ、おまえといたいから」  無感動な口調だったが、健司は耳まで赤くなった。健司が半ば強引にいわせることはあっても、宏之からあからさまな言葉を口にすることはほとんどなかった。  考えてみれば、砂原にしろ水野にしろ、いつもよりやけに気を遣ってくれる。なにかがおかしい。今更ながら、胸が騒いだ。肩に回った腕の強さに、かえって不安を募らされる。しかし、健司にある勇気は、せいぜい人目を気にしながら宏之の首に頭を寄せるぐらいのもので、直接尋ねることなど、できそうになかった。  健司は縋るような思いで宏之の指を求めた。掌に触れると、すぐに心得て、強く握り返してきてくれる。  大学生だろうか、酔っ払いの集団が階段のほぼ真下で立ち止まった。甲高い声に突き上げられるように、健司は顔を上げた。咄嗟に体を引こうとしたが、宏之がゆるさなかった。肩に食い込む指に力が入る。痛いほどだ。  顔が近づいて、しかし、唇同士は出会わなかった。宏之は顎を逸らすようにして、素早く健司の額に唇を圧しつけた。健司の肩を抱いていた手を頭に移動させ、朝の空気に湿った髪をめちゃくちゃにする。今度は嫌がらなかった。仔犬が威嚇するように鼻梁に皺を刻んでみせる。その顔を見て、宏之は安堵したように微笑んだ。健司の不安も、消えたわけではないが、気にならないまでになっていた。付きあって半年。まだキスしかしていないということに焦りを感じないわけではなかったが、こうして呑気に確かめあうのが、むしろふたりには合っているのではないかと思う。 「じゃ、行くわ」 「うん。おれも帰る」  同時に立ち上がった。健司は階下に、宏之は階上にと、それぞれの方向に段を上がるが、指先だけは名残惜しげにぎりぎりまで絡んだままだった。 「月末さ」 「うん」 「平日だけど、連休取れるから」 「マジ?」 「空けられる?」 「がら空きです!」  宏之は笑いながら、頭を掻いた。店のほうをちょっと振り向いてから、声を顰める。 「じゃ、どっか、旅行とか行こうか」  健司は絶句した。これって、夢? 「嫌だったらいいけど」 「全然。行く。絶対行く。死んでも行く!」 「死んだら行けないだろ」  大真面目に訂正して、宏之は頷いた。 「おれ、ハワイ行きたい!」 「一泊二日だぞ」  宏之が念を押す。せめて国内と決めておかないと、健司が勝手に突っ走ってしまうのを予測しているのだった。 「明日、相談しよう」 「オッケイ!」  さっきまで沈んでいたことも忘れて、健司は弾むような足どりで階段を降りた。  薬局のシャッターに凭れて待っていた水野が、腰を上げた。倉林は膝を抱えて舟を漕いでいる。 「宏之さん、なんだって?」 「うん、あんな……」  旅行の予定まで喋ってしまいそうになり、健司は慌てて口を噤んだ。 「なんだよ」 「や……おれもな、ええ加減、年貢の納めどきやなあと思って」 「はあ?」  首を捻っている水野を無視して、健司はさっさと倉林を起こしにかかった。  夜どおし飲んでいたのにも関わらず、体が軽い。薄暗い飲み屋街を抜けた健司のTシャツを初夏の朝日が突き抜けて、胸の端にこびりついていた不安を溶かしていった。  帰りに旅行会社に寄って、パンフレットを集めてこようと、健司は思った。 おわり。
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