グレープフルーツ

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グレープフルーツ

 レジに並ぼうとした健司の目が、造花で彩られたディスプレイの棚上のグレープフルーツに止まった。  腕に提げた買いもの籠は、肉や野菜、飲みもののパックなどでいっぱいになっていたが、健司はほとんど迷わずに、グレープフルーツの山の天辺からひとつ取り上げた。  家を出る前に、アメリカのホーム・ドラマを見ていたせいかもしれない。グレープフルーツの緩慢な香りは、外国のいかにも洒落たファミリーの朝を思わせる。日本においての幸福を象徴する果物が炬燵で食べる蜜柑だとしたら、グレープフルーツはアメリカのそれだ。  宏之の同意があれば、月末の旅行の行き先は欧米でもいいかもしれない。レジを通す間、大量に持参した旅行代理店のパンフレットに目を落としながら、健司は思わず頬の筋肉を緩めた。 「だめ」  ゲームをしているテレビ画面から目を離すこともなく、宏之はまさに一蹴した。 「早。めっちゃ早」 「国内で、かつ1泊つったろ」 「やからな、1泊5日」 「殺す気か」  コントローラを操作しながら、宏之が舌を打つ。どうやらオフサイドのようだ。テーブルの上にパンフレットを広げていた健司は、たちまち顔をしかめた。 「ウイニング・イレヴンとおれのどっちが大事やねん」 「わかった、わかった」  ちょうどきりのいいところだったのか、投げ出したくなったのか、宏之は案外素直にセーヴ画面に切り替えて、テレビの電源を切った。尻をずらして健司のほうに向き直ると、スーパーのロゴが印刷されたビニール袋を引き寄せる。なにげなく手を入れ、眉を寄せた。じゃがいもの袋を手に、健司を振り返る。 「おれ、じゃがりこ頼まなかった?」 「買ってきたで、ちゃんと」 「玉葱もあるけど」 「肉と人参とカレー粉も」 「シチュー?」 「惜しい。てかカレー粉ゆうてるやん」 「カレーつくってくれんの」  宏之の表情が綻ぶ。それ以上の満面の笑みを浮かべて、健司は首を振った。 「なにゆうてんの。宏之さんがつくるんやで」 「おれがつくるの」  宏之は目をしばたたいて、じゃがいもをしげしげと眺めた。 「くるときな、めっちゃカレーの気分なってん」 「そりゃいいけど、おれ、料理できないよ」 「うそ!」  健司は唖然としたが、宏之のほうもじゅうぶん驚いていた。 「なんでおれが料理できるってそこまで信じ込んでんだよ」 「だって、いかにもできるって顔してんねんもん」 「目玉焼きぐらいしかつくったことないよ」 「マジか……詐欺やな」  理不尽にも詐欺師呼ばわりまでされているのにもかかわらず、宏之は苦笑いした。 「おまえね、いちおう、確認してから買ってこいよ」 「だって、テンション上がってたし、つくれへんって思わんかったから」 「だから、その自信はどこからくるんだよ」 「だって、包丁とか鍋あるやん」 「それは前にいた……」  不自然に言葉を切ると、宏之は女のように揃えた両手で口元を覆った。 「前にいた……親?」 「親に前と後があるんか、あんたんとこは!」  飛んできたパンフレットを腕で防ぎながら、宏之は慌てて立ち上がった。 「わかった。つくるから」  追い込まれるようなかたちでキッチンに立ち、宏之は途方に暮れて腕を組んだ。とりあえず腕を捲くったりしている後姿を眺めながら、健司は早々に機嫌をなおしていた。 「けっこう、さまになってるやん」 「話しかけるなよ。手切るだろ」  素っ気なくいいながらも、宏之は割合手際よく野菜を洗い、切りはじめた。もともと熱中しやすい性格である。貝のように口を閉ざし、黙々と作業をしている。 「で、どうする、旅行?」 「近場でいいんじゃないか。箱根とか」 「陸つづきやんか」 「じゃ、大島とか」 「東京都やん」 「水ってどのタイミングで入れんの」 「やっぱ2泊ぐらいしたいなあ、おれ」 「灰汁……スプーンでいいか」  あかん。ぜんぜん聞いてへん。  自分でやらせておいて、健司は欠伸を噛みころした。 「そういえば、宏之さん、W杯、どうする?」 「ああ、W杯ねえ」 「いっしょに見るやろ」 「ごめん、たぶん、仕事だ」 「え」  健司はパンフレットを捲る手を止めて、宏之の背中を見上げた。 「めっちゃ楽しみにしてたやんか。小野さん脅迫してでも休みとるって」 「そうなんだけど、しょうがないよ、仕事だし」  大きめのスプーンで鍋のなかの灰汁を丹念に取り除きながら、宏之が肩を竦める。 「あんまりいうなよ。落ち込むからさ」  そういわれると、さすがの健司もそれ以上追求することはできなかった。サッカー好きの宏之が、4年に一度の祭典をどれほど楽しみにしていたか、よくわかっていたからだ。しかし、だからこそ、簡単に諦めてしまったことが信じられない。いくら仕事とはいっても、少し淡白すぎるのではないか。 「宏之さん」 「はいはいー」 「うしろから、こう、ぎゅってしてもええ?」 「美人若妻か、おれは」 「うん。セクシーやで」  宏之は肩を揺らして笑った。 「いいけど、鍋、気をつけろよ」 「はーい」  健司は飛び跳ねるように立ち上がった。鍋の前に立っている宏之の腰に両腕を巻きつけると、カレールウの匂いが強くなる。肩越しに覗き込んだ鍋のなかでは、よく見かけるカレーが煮込まれていた。 「すごい。本物のカレーや」 「けっこう楽しいな。はまるかも」  火力を調整しながら、確かに、宏之は楽しげだった。一度魅力にとりつかれると終わりを知らない。もしかすると、本格的に料理をはじめてしまうかもしれなかった。 「宏之さん」 「なに」 「最近、なんか考えてる?」 「なんかって?」 「なんか……変やない、最近」 「そうかな」 「うん」 「どこが?」  そう聞かれても、困ってしまう。具体的にどこがどうおかしいのかはわからないのだ。ただ宏之とその周囲の空気が以前と微妙にちがっているような気がして、本能的に怯えてしまう。 「できた」  宏之の長閑な声で、健司は我に返った。コンロの火を止めて、宏之は満足げだ。 「味見して」  スプーンに少しだけ掬ったルウを噴いて冷ますしぐさも、堂に入っている。正直あまり期待はしていなかったが、促されるままにスプーンを口に入れて、健司は目を丸くした。 「どう?」 「おいしい」 「マジ?」 「マジ。かなり旨い!」  健司とは反対の側の腕を曲げて、小さくガッツ・ポーズなどしている宏之がかわいい。もちろん、決して不必要に持ち上げたわけではなかった。 「すごいすごい。これ、ぜったい金とれるで。ほんまに料理やったことなかったん?」 「はじめてのはじめてだよ」 「嘘やろ。なんか隠し味とか入れた?」 「ああ、入れた入れた」  照れくさそうにいって、宏之がシンクを顎で示す。野菜の皮やパッケージが入ったビニール袋のなかに、じゅうぶんに絞りつくされたグレープフルーツの皮が放り込まれている。 「あれ、入れろってことで買ってきたんじゃないの」 「や、ふつうに食べよう思ったんやけど……でも」  やっぱ、幸せの果物や。 「なに」 「うん、結果オーライやなって」 「だなあ」  宏之は笑って、そのままのかたちの唇を、健司のこめかみに圧しつけた。 「おまえ、食ってるときがいちばん幸せそうだよな」 「幸せやもん」  まだカレーの匂いが残っている手で、宏之は健司の耳から後頭部にかけてを無造作に弄った。 「またつくる」 「うん」  宏之がわずかに身を屈めて、唇が重なった。ゆったりとした雰囲気に思わず脱力していたので、つい勢いあまって鍋を倒しそうになったが、幸い、それ以上深い密着にはならなかった。ほっとしながら、健司は宏之を見上げた。 「カレー食べたい」 「だめ」  返ってきた返事があまりにも思いがけないものだったので、健司は目を丸くした。 「なんで?」 「今思い出したんだけどさ」  居心地悪そうな顔で頭をかく宏之を見て、健司も気づいた。 「もしかして」 「ごはん炊くの、忘れた」  一拍置いて、ほぼ同時に噴き出した。無意識に唇を嘗めると、カレールウの強い香辛料に混じって、グレープフルーツの仄かな酸味が舌をくすぐった。  それでまた幸せになってしまうあたり、我ながら楽天的だとも思う。しかし健司は浮き立つような気持ちで、首を窄めて謝る宏之の頬をぎゅっとつまんでやったりしたのだった。 おわり。
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