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陽炎
長閑なアナウンスとともに車体が徐行しはじめる。健司はさりげなく身じろいだが、すっかり熟睡している宏之は目を覚ます様子も見せず、健司の肩を追いかけるように、大きく体を傾がせた。
避けるはずがよけいに体重をかけられてしまい、健司はうんざりした。
「宏之さん」
「んー」
「起きて。宏之さん」
「うん……」
軽く揺すったぐらいでは起きそうにない。思い切って前屈すると、宏之の頭が、健司の背中と座席の背の間に落ちた。ようやく覚醒した宏之が、掌で顔全体を擦りながら、顔を上げる。
「眠い」
「わかるけど、もう着いたで」
放っておくとまたうとうととまどろんでしまいかねない宏之を無理矢理立たせて、健司はさっさと自分のぶんの荷物を引き寄せた。
いくら出発が早朝だとはいえ、店を終えて仮眠をとる程度の時間ぐらいはあったはずだが、宏之はまだ眠そうだった。健司としては車できたいところだったのだが、この調子では、どちらでもたいして変わらなかっただろう。
「ごめん、おれ、ずっと寝てた?」
電車を降りるときには、さすがに宏之も完全に目を覚まして、先を歩く健司に向かって謝った。返事をする代わりに、健司は片手に提げていたスポーツ・バッグを宏之に圧しつけた。
「持ってて」
「どこ行くの」
「トイレ」
「電車のなかで行っときゃよかったのに」
健司は宏之をにらんだが、けっきょくはなにもいわず、背中を見せた。
戻ってくると、宏之の姿はなくなっていた。ひとりで帰ってしまうことはないだろうが、怒らせてしまったのかと、健司は一瞬不安になった。視線を彷徨わせていると、ふたりぶんの荷物を持った宏之を売店の隅に見つけた。
「お、早いな、健司」
健司に気づいた宏之が、大股に歩み寄ってくる。手には2本のミネラルウォーターのペットボトルを持っている。そのうちの1本を健司に差し出して、宏之は顎をしゃくった。
「ちょっと歩くから」
宏之のさりげない気遣いに、健司の怒りも和らいだ。ペットボトルを受け取り、宏之と並んで歩き出す。
「荷物」
「いい、軽いし」
「女の子やないんやから、そんなんせんでええよ」
無意識に尖った口調になってしまった。まだ完全には素直になりきれずにいる自分を叱るような思いで、健司は顔をしかめた。それを見た宏之が、スポーツバッグを持ち上げる。
「おれがもたれて寝てたから、トイレに行けなかったんだろ」
健司は答えなかったが、宏之のほうも返事を求めていたわけではないらしかった。
「いっしょに持とう」
それほどの荷物でもないが、こんどは健司も断らなかった。バッグの紐の両脇をそれぞれ握って、再び歩く。
「関節手繋ぎ」
悪戯っぽい調子で宏之がいったので、健司は思わず呆れた。
「いまどき小学生でもそんなんでときめかへんで」
「そうか」
「周りから変に思われるし」
「じゃ、すげえ重たそうにしてよう」
宏之が腰を曲げて、まるで米俵でも引いているような素振りを見せる。健司は笑いながら、バッグごしに宏之に体をぶつけた。
電車のなかで疲れて寝たぐらいで怒ったのは悪かったなと思った。一泊で近場とはいえ、はじめてのふたりきりの旅行だ。思い出に残るものにしたい。
ときおり触れる宏之の指の感触をたしかめながら、健司は舗装された道路をのんびりと歩いた。
初夏の箱根は、観光客の姿も少なく、通行人もまばらだった。芦ノ湖に沿った坂の中ほど、神社の隣に目当ての旅館があった。宿を予約したのは宏之だった。どちらかというと、そういった作業は健司のほうが得意だったし、忙しい宏之に任せきりでいるのにも抵抗があったが、けっきょくは、宏之の好意に甘えるかたちになった。その判断が正しかったことは、旅館の外観を一目見ただけで確信できた。こぢんまりとしてはいるものの、情緒ある風情に、健司は傍らの宏之に抱きつきたい衝動を抑える努力をしなければならなかった。
なかに入ると、仲居が慇懃に迎え入れてくれた。近所のおばさんといった印象の丸顔の女性従業員の笑顔は、商売気がありすぎるわけでもなく、かといって馴れ馴れしさも感じられないちょうどよい距離感で、ふたりの疲れを癒してくれた。
「お疲れでしたでしょう」
宏之がチェックインの手続きを済ませている間、もの珍しげに周囲を見回している健司に、中年の仲居は小首を傾げるように会釈した。
「お荷物、お持ちいたします」
「や、だいじょうぶです」
「お任せください。こう見えても、力持ちですから」
仲居が腕をまくって力瘤をつくってみせたので、健司は思わず笑ってしまった。
「ご兄弟でいらっしゃるんですか?」
「いえ……」
否定しかけて、迷った。男の友人同士がふたりで温泉にくることなど、あるのだろうか。答えるべき言葉を探しているうちに、仲居は勝手に頷いた。
「仲がおよろしいんですね。素敵なお兄さまで、お羨ましいです」
「でしょ?」
宏之のことを褒められ、つい相好を崩す。誤解を解いておくべきだと思ったが、いちいち説明するのも面倒だし、兄弟だと思われているほうが、なにかと詮索されずに済むだろう。
「2階だって」
チェックインを終えた宏之が、笑顔で戻ってくる。
仲居の案内で、ふたりは奥まった部屋にとおされた。
部屋は10畳ほどの広さで、純和風の数寄屋造りだった。檜風呂に、掘り炬燵まで完備されている。襖を開けると、窓の外に屏風山と芦ノ湖の壮大な景色が広がり、健司は感嘆の声を上げた。
手短に説明を終え、仲居が辞去すると、健司はさっそく部屋を見てまわった。大きな窓にかじりつくようにして、身を乗り出す。
「見て、宏之さん。めっちゃええ景色」
「マジ?」
宏之もすっかり眠気を忘れ、健司に倣って窓に近づく。
「お、ほんとだ。すげえ」
「さすが箱根やな」
振り返ろうとしたすぐ目の前に宏之の顔があって、健司はぎくりとした。宏之はまるで意識していないように、絶景に目を凝らしている。
「疲れが吹き飛ぶ」
大きく体を伸ばす宏之の表情は、いかにもリラックスしているようで、健司はつい目をそらしてしまう。
宏之はただ単純に、ふだんあまり構ってやれない償いのつもりで連れてきてくれたのだろう。妙な下心がないことは、健司にもわかっている。独り善がりで恥をかくよりは、この貴重な時間をいっしょに楽しむほうがいい。健司はことさらに明るい声を出した。
「なあ、あとで散歩とか行かへん」
「うん」
宏之はにっこり笑うと、体を反転させて窓にもたれた。
「ちょっと休んでからな」
「晩メシ、何時やったっけ。見てくる」
苦笑いの宏之を置いて、健司は半ば駆け出すほどの勢いで部屋を横切っていった。
湖の周辺を散策し、箱根神社に参った。土産もの店を冷やかし、水族館に寄って旅館をぐるりと1周すると、すでに風が涼しくなりはじめていた。
「魚とか、おるんかな」
湖のほとりにしゃがみこんで、健司は透明度の高い水面を覗き込んだ。
「釣りしたかったな」
釣り道具を持ってこなかったことと、差し迫る時間を悔やんでいると、背後で宏之も腰を屈めた。
「釣りはこんどだな」
「こんどもある?」
「あるよ」
即座にかえってきた返事に、健司は胸を熱くした。
「そろそろ、旅館に戻ろう」
宏之の提案に頷きながらも、健司はすぐには立ち上がらなかった。
「宏之さん」
「なに」
「あの旅館、出るらしいで」
宏之の顔から笑みが消える。反対に、健司はにんまりと笑った。
「狸」
「おい……」
「びびったやろ、今。幽霊やて思った?」
得たりとばかりに笑いながら、健司がようやく立ち上がる。中腰の不安定な姿勢のまま、突然背中を思い切り突かれ、つんのめった。水面が目の前に迫ったかと思った瞬間、強い力で引き戻された。
「なにすんねん。危ないやろ!」
「仕返し」
健司以上に子供じみた口調で、宏之がいう。健司の体を支える両腕に力がこもる。背後から抱きすくめられて、健司は息を詰めた。
「びびった?」
「びびった……」
笑いを含んだ宏之の息が、健司の耳の裏からうなじにかけてを吹き抜けていく。咄嗟に目だけで周囲を見回しながらも、健司の体から力が抜けた。
緊張する健司をよそに、宏之はあっけなく拘束を解いた。健司の手を握り、砂利を踏みつける。
「行こう。腹減った」
本当はそれほど恐くはなかったのだということを、いおうかどうしようか、迷った。宏之がちゃんと支えていてくれることは、わかっていた。しかし、けっきょく健司は宏之の手を握り返して、旅館までの道のりを引き返していった。
夕食までには、まだ時間があった。宏之が散歩の汗を流したいといい出すのは至極当然のなりゆきだったが、健司はやはり緊張した。
「健司も行くだろ」
浴衣を取り上げながらいう宏之の背中には、相変わらず下心の欠片も見られなかった。
「健康促進、疲労回復だって。少なくとも、3回は入っとかないとな」
意外と貧乏くさいことをいいながら、宏之は楽しそうだった。素早く支度を済ませて、振り返る。
「おれ、部屋風呂にするわ」
考える間もなく、答えていた。
「せっかく天然の露天風呂があるのに」
「うん、けど、檜風呂にも入りたいし」
「そうか?」
宏之は一瞬残念そうな顔を見せたが、すぐに納得して、浴衣を抱えなおした。
「じゃ、おれ、行ってくるぞ」
「行ってらっしゃい」
宏之を見送って、部屋に備えつけられた古代檜にひとりでつかりながら、健司は頭を抱えた。
「なにが行ってらっしゃいや」
自棄気味に体を洗い、湯に首まで浸して、健司は独白する。熱すぎない湯は快適だったが、気分は決してよくならなかった。
付き合うようになってから半年以上がたったが、キスと、それに、健司が一方的に何度か昇り詰めさせられた以外は、ほとんどなにもしていない。
この旅行が、もしかして、そういった意味でも思い出に残るものになるのかもしれないと、ひそかに覚悟を持っていたのだが、宏之にそんなつもりはなさそうだった。安堵と落胆が綯い交ぜになった複雑な思いで、健司は両手に湯を掬った。
ぼんやりと湯をかき混ぜていると、思いがけず風呂場の外で物音がした。
「健司。風呂?」
「あ、はい」
声が裏返った。湯を跳ねさせて体の向きを変える。扉のすぐ向こうに、宏之の気配があった。
「めっちゃ早いやん」
「いや、おれも、やっぱりこっちに入ろうかなと思って」
当然、いっしょに入るということだろう。いいかと聞かれて、断れなかった。
「おー、檜の匂い」
宏之が無邪気にいって、体を洗いはじめる。風呂場なのだから、裸でないほうが変だとわかってはいたが、健司は顎から下を湯のなかに隠して、目を逸らした。
「ちょっと、そっち、寄って」
健司の傍らに宏之が体を割り込ませると、湯が派手な音を立てて溢れた。
「もったいない」
「さすがに無理があったか」
「そやから、露天にしといたらよかったんや」
宏之は照れたように笑って、乱暴に顔を洗った。濡れた髪をかきあげた拍子に飛び散った無数の湯の雫が、健司の背中にも届いた。
湯面がゆるやかに蠢いて、また少し、檜の縁から零れていった。
健司の背中と宏之の胸が接着し、湿った肌が絡む。健司に拒む様子がないのを確認した宏之が、腕を持ち上げる。宏之の指先が肩に触れた瞬間、健司は思わず体を強張らせたが、それ以上のことはなにもなかった。抱くというよりは、両腕でつくった輪で健司を囲い込もうとするようにゆるく薄く密着し、健司の首に顎を預けて、宏之は唸るような息を漏らした。中年じみていると感じる人間もいるかもしれないが、風呂場の壁を反響してわななく荒い息づかいは、健司の耳に快く、情熱的に響いた。
肩の重みが消えた。わずかに顔の向きを斜めにすると、ほぼ同じ高さの位置に宏之の顔があった。湯気に混じった息が鼻先にまとわりついたが、唇は微妙な距離を保ったまま、重なることはなかった。それでも、健司の体の裡は即座に熱くなった。視界が霞み、全身がひどく重い。上体を捻った不安定な体勢で、健司は宏之の首にしがみついた。
宏之は健司の額に唇を圧しつけて、無数に浮いた汗を音を立てずに啜った。ふたりはそのまましばらく動かずにいた。
「のぼせてきた」
ため息混じりの健司の言葉に、宏之が小さく笑う。湿った髪を手でめちゃくちゃにして、唐突にキスした。健司が構える前に、体ごと離れる。
「先に上がってろよ」
「うん……」
「あとでな」
あまりに軽くいわれたので、言葉の意味までさしはかることができなかった。単純にあとで会おうというつもりでいったのか、それとも別に深い意味があったのか。あらためて問い質す勇気もなく、健司は無言で湯から半身を出した。檜の縁に膝をついた瞬間、頭蓋が揺さぶられるような目眩をおぼえた。慌てて目を瞑る。宏之の視線を意識して、健司はなにごともないように装って風呂場を出た。
夕食は和洋中の織り交ざった懐石料理だった。さざえ飯に鱧の吟醸揚げ、牛しゃぶ、鮪とハマチの造り、南瓜と海老の椀などの色とりどりの料理を見て、健司は素直に感激した。
「うわ、めっちゃ豪華やん」
「すごいな」
「高そう!」
いかにも直接的な健司の感想に、宏之は苦笑いした。
料亭の個室はじゅうぶんに広く、部屋と同じように、大きな窓から外の景色を一望することができた。料理を挟んで向かい合った位置に座り、用意されたビールを注ぐ。
「かんぱーい」
小さめのグラスを満たしたビールを一気に半分ほど飲んで、宏之も健司に負けずにはしゃいでいる。
「うま。幸せや」
浴衣の袖を持ち上げて、調子よくそれぞれの料理に箸をつけながら、健司は上機嫌だった。出汁の滲みこんだ茄子を頬張り、少し大袈裟なほど大きく頷いた。
「宏之さん、こんど、これつくって」
健司の我儘に負けるかたちでカレーをつくってからというもの、すっかり料理に凝ってしまった宏之である。快く請け負って、皿を持ち上げた。
「これ、ハムかな」
飾りのひとつとして茄子の上に置かれた蘭の花びらを見て、宏之が真剣にいう。健司は手にしていたグラスからビールをこぼすほど笑った。
「なにやってんだ」
宏之は呆れたように笑って、脇に置いていたビールの瓶を取り上げた。軽く振っただけで、すぐに置く。
「なくなった」
「新しいの、頼んだらええやん」
「おれ、日本酒にしようかな」
「あ、おれも」
「飲みすぎるなよ」
ふだんから酒癖の悪い健司を、宏之が窘める。
「潰れたら、怒るぞ」
面倒を見るのが嫌だとか、手酌酒が嫌だとか、いろいろな意味があるはずだったが、健司はついぎくりとした。
「わかってますって。今日は絶対潰れへんから」
平静を装いながら、宏之の反応をうかがうが、とくべつな変化はなかった。
「さっき仲居さんにいわれた」
日本酒を注文し終えてから、宏之がいった。
「おまえ、兄弟だっていった?」
口のなかの刺身を飲み込んでから、健司は肩を竦めた。
「いうてへんよ。勝手に勘違いしてたけど」
「否定しろよ」
宏之は苦笑いで、怒ったような顔は見せなかったが、健司は謝った。
「怒った?」
「いや」
「ちょっとは怒ってよ」
「怒った」
立魚の身をつつきながら、宏之が笑う。
「海老くれたら、許す」
「おくらで手ぇうってや」
「だめ。海老」
しかたなく、健司は宏之の口に海老を差し入れた。頭をつまんだ指ごと噛まれて、声を上げる。海老の頭をばりばり砕きながら、宏之は楽しげに笑った。健司は照れ、投げ遣りな手つきで浴衣の裾に指をなすりつけた。
「なんしか」
「うん」
「バカップルっぽい」
「おれもそう思った」
ほぼ同時に、噴き出した。襖が開いて、仲居が日本酒を運んできた。
夕食を済ませてから、腹ごなしにまた少し旅館周辺を散策した。狸とは出会えなかったが、中庭の池を鯉が泳いでいたので、土産もの屋で買った饅頭を千切って撒いた。ふたりして仲居に叱られたのを機に部屋に戻った頃には、すっかり夜が更けていた。
窓辺で冷酒を飲んでいるところに、仲居がやってきて、布団を敷いてくれた。
広い畳上に距離を置いて準備された寝床を見てから、向かい側の宏之に視線を移す。思いがけず視線があい、健司は慌てて窓の外に顔を向けた。
「風呂は?」
一瞬考えてから、首を振る。
「なんか、面倒や。宏之さん、入ってきたら」
「おれもいい。朝、入るよ」
会話が途切れる。冷酒の残量を確認して、宏之がいう。
「じゃ、寝るか」
携帯電話のディスプレイを開くと、すでに日付が変わっていた。朝には旅館を出て帰らなければならないのだと思うと、寝てしまうには惜しかったが、さんざん歩きまわって疲れてもいる。仕事明けの宏之はもっとくたびれているだろう。健司は曖昧に頷いた。
それぞれ支度を整え、布団に入る。
「電気消すぞ」
「はーい」
部屋が暗くなり、隣で宏之が身じろぐ気配がした。うっすら見える天井を見上げながら、健司はいった。
「宏之さん」
「んー」
「今日、超楽しかった。ありがとう」
いい終わらないうちに、すでに照れていた。健司は宏之に背を向け、短くおやすみをいった。返事はなかった。代わりに衣擦れの音がして、気配が近づいた。
健司は壁を見つめたまま、動かなかった。浴衣の裾が畳みを擦る乾いた音。細く開けたままにしてある窓から、夏の夜の生温い風が吹き込んでくる。
布団の端が捲られ、宏之の体が滑り込んだ。夕方、湯のなかでそうしたように、薄く重なりあった。宏之の掌が健司の右腕をさまよう。肩を引く力は強くなかったが、健司は逆らわなかった。
仰向けになった健司の頭の横に肘をついて、宏之が上半身を持ち上げる。見下ろしてくる目が真剣であるのが、暗がりのなかでもわかる。思わず視線を泳がせる健司のこめかみを、宏之の指が掠めた。
漏れた息を絡めとって、宏之の唇が落ちてくる。軽い音とともに唇が離れ、日本酒の熱を孕んだ額と鼻先にそれぞれ触れていった。
「いい?」
これだけの至近距離でも聞き取りづらいほどの小さな声で、宏之が許しを請う。それだけで健司の胸はぎゅうぎゅうに詰まり、細かく頷くのが精一杯だった。
あらためて唇が重なった。こんどは音もしないほど深く接着し、宏之の舌先が健司の歯列をさぐった。皮膚がじんわりと熱くなるような、きついくちづけだった。無意識に浮き上がった腰を思いがけない力でつかまれ、健司は宏之の口のなかで呻いた。酸素と宏之を求めて、健司は布団を握りしめた。
死ぬまで離してもらえないのかと慄いたが、さすがに宏之も息がつづかなくなったらしく、唇がずらされる。しかしそれはほんの一瞬で、また烈しく貪られる。いい加減に呼吸をさせてほしいと泣いて頼みたくなったところで、ようやく完全に唇が離れた。解放されたらされたで、つい追いかけるように指に力をこめる。そうしてはじめて、布団を握っていたはずの手がいつの間にか宏之の浴衣の襟ぐりをつかんでいることに気づいた。同時に、意識外に追いやっていた飢餓感を強烈に意識して、健司は顔を紅潮させた。
宏之の唇は休むことなく、頬に首にと移動しながら、徐々に下降する。鎖骨の上のやわらかい皮膚を前歯で軽く抉られて、健司は眉を寄せた。熱に焙られた汗の匂いがわずかに立ち昇った。やっぱり風呂に入っておけばよかったと後悔したが、宏之は気にする素振りも見せず、黙々と健司の肌に痕跡を残していく。
健司の腰をまさぐっていた手が帯を弛め、下腹の前でかろうじて重なっていた浴衣を左右に分けた。胸元が露になって、健司は体を強張らせた。健司の動揺を汲んでか、宏之の手は核心めいた部分を避け、呼吸のたびに浮き上がる肋骨を辿った。未体験の感覚に臆しているいっぽうで、微妙な愛撫をもどかしく思い、健司は身を捩った。もっと触れたかったし、触れてほしかった。健司の体に負担をかけないように上半身だけをもたせかけていた宏之が、突然体重をかけてくる。ふだんは健司の嫉妬や我儘に気づきもしないくせに、こういうときばかりやけに勘が働く宏之を憎らしく思いながら、健司も宏之の浴衣の背中に強く縋った。
健司の肌と浴衣の間に宏之の手が差し込まれ、右肩から浴衣がはずれた。テレビの時代劇の殿様のように半身だけ裸になった不恰好な姿を晒して、健司は首を捻った。浮き上がった骨に咬みつかれ、また息が上がる。浴衣をずらしていた指が胸元をさぐると、開いたままだった唇の隙間から声が漏れた。
触れられる前から乳首が硬く屹立しているのには気づいていた。湿った指が掠めていっただけで、痛みを帯びた痺れが脊椎を駆け抜ける。こんどはそれ以上焦らされなかった。いきなり指の腹で押しつぶされ、健司は後頭部を枕に擦らせた。
「痛かったか」
「弱いみたい……おれ、そこ」
「知ってる」
宏之が嘯く。その箇所が性感帯にじゅうぶんなりうることは、以前に触れられたときに、教えられていた。そのときは指だけだった。反対側を舌でまさぐられ、健司は泣き声を上げた。
「きつい……」
「これだけで?」
頬が燃え上がる。感じすぎているのも確かだが、それ以上に、怯えすぎている。黙り込んでいると、睫毛を噛まれた。
「すぐ気持ちよくなるから」
「もうなってる……」
健司が正直にいうと、宏之は笑った。目尻に触れたままの唇を動かして、いう。
「おまえ、可愛いよ」
いい返す前に、また乳首に刺激を加えられた。右側は指で、もう片方は舌で、穏やかに嬲られる。鈍痛と快感の間を行き来させるような、絶妙な触れかただった。そんなふうにしたこともされたこともなかった。何度か触られただけだったが、宏之のテクニックが卓越していることは明らかで、健司は苛立ちをおぼえた。もてるタイプだろうとは思っていたし、自分もそれなりに異性との付きあいやその関係で積み上げた経験に少なからず自信を持っていたが、宏之とはちがっているらしかった。確信を持って責めてくる。どんな女の体でたしかめたのかと考えると、胸の奥がじりじりと燃えたが、そんなことを長く考えてはいられなかった。舌の裏のやわらかい粘膜に乳首の芯を覆われて、健司は宏之の腹筋に腰を押し当ててしまった。
「ここも触ろうか」
揶揄するような言葉に、健司は慌てて首を振った。上半身だけでこれほどまでに乱されている。声をころしていられる自信がなかった。しかし、宏之は作為的に誤解して、かろうじて引っ掛かっていた布団を剥いだ。
「ま、待って……」
「なんで」
さっきよりもずっと熱い息が、健司のわき腹にぶつかった。
「今触られたら、やばい……」
「出る?」
「出……」
「声」
あ、声か……。首まで赤くなって、健司は拳を目元に押しあてた。
「いいんじゃないか」
「いいんじゃないかって……」
返答に困っているうちに、宏之の手は勝手に動いて、浴衣の隙間から下着にかかった。
「腰、上げて」
待っていてほしいのに、無意識に従ってしまう。体をずらして下着を抜き取ると、宏之は再び全体重をかけてきた。息苦しいのは当然だったが、それ以上に、体が重なりあっているのが心地よかった。宏之の浴衣も大きくはだけていて、皮膚同士がしっとりとなじんでいる。当然ながら女のようにやわらかくも滑らかでもないが、ほどよく汗ばんだ肌はしみこんで溶けるようで、健司を恍惚とした気分にさせた。
気がつくと、宏之がじっと見下ろしてきていた。照れることもできないほど、真摯な瞳だった。無性に叫びだしたくなった。こんなふうに、視線だけで、好きだといわれたことはなかった。そんなことがあるなんて、想像もしていなかった。魔力じみた強い力に誘われるように、健司の手は宏之の頬骨をさぐっていた。
「好き?」
自分の貪欲さに呆れた。こんなにも深く、全身で好きだといわれているのに、言葉まで求めてしまうのは、贅沢でしかない。それでも、たしかめずにはいられなかった。何度でもそうしたかった。
「好きだよ」
「好き?」
「好き」
「ほんまに好き?」
「本当に好きだよ」
どちらも笑いもしなかった。本当に朝までつづけてしまいそうだった。先に焦れたのは健司のほうだったが、動いたのは宏之だった。これまで微妙に逸らしていた下腹を健司の太腿に露骨に圧しつけた。
「あ……」
戦慄をおぼえるよりも早く、宏之の手が帯をすっかり解いてしまっていた。下着が取り払われ、完全に露になった健司の充血器官は、数分間のやりとりの間に落ち着きはじめていたが、冷たい指に触れられたとたん、大きく跳ね上がった。
待ってくれとは、もういえなかった。いったとしても、聞き入れてはもらえなかっただろう。宏之は了解も得ずに、いきなり強く握りこんできた。唐突すぎる快感に対応しきれず、健司は思わず全身を硬くした。
慰めるような軽いキスをしてから、宏之はゆっくり体をずらした。まだ少し影をつくっていた浴衣の裾を掻き分けて、健司の臍の下に唇をつける。
「だいじょうぶか」
圧しころした声で、宏之が尋ねてくる。この期に及んでもまだ健司を気遣おうとする宏之の自制心に、健司は素直に感激した。宏之から与えられる快感の半分も返せないことを情けなく思った。
「はじめてやから……」
「おれもそうだよ」
ゆったりとした口調でいって、宏之は健司の脚の付け根に唇を這わせた。
「なにかしてほしいことがあったらいえよ。なんでもしてやるから」
夾雑物のいっさいない、純粋に思いやるばかりの言葉だった。健司は泣き笑いの表情になった。性別に関係なく、こんなに愛してもらえることが、この先の人生で二度とあるとは思えなかった。
「ずっとそばにおってほしい」
正直に答えた。宏之の動きが止まる。沈黙がはしり、下腹から宏之の気配が消えた。
「宏之さん……?」
顔を上げると、宏之は捩れた浴衣をなおしながら、健司に背を向けて胡坐をかいていた。
「ごめん」
「ごめんって……」
健司は混乱して、体を起こした。剥き出しの下半身を布団で隠して、暗がりのなか、目を凝らす。両手で顔を覆っているらしい宏之の背中は、はっとするほど小さく見えた。
「おれ、なんかした?」
「ちがう。本当におれが悪い、これは。ごめん」
早口にいってから、宏之は嘆息した。はじめて耳にする種類のため息だった。陽炎のように細く長く伸びて、朧に消える。
「おれ、寝るわ」
力なくいうと、健司のほうを一度も見ないまま、宏之は自分の布団にもぐりこんだ。にべもない背中だった。
湿気を吸った浴衣を不快に思う余裕もなく、健司は呆然とその背中を見下ろしていた。生温かったはずの夜風が、健司の肌を冷たく刺して、通りすぎていった。
おわり。
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