失われた週末

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失われた週末

 うん、てことはない。  携帯電話のサブディスプレイに浮かんだ文字を見て、健司はぞっとした。  普通、好きだといわれたら、おれもだと返すはずだ。それで終わりのはずはない。いくらメールが苦手だとはいっても、絵文字のひとつもないなんてことはありえない。  しかし、受信トレイを開くと、予想したとおりの2文字。  健司は腹立ち紛れに音を立てて携帯電話を閉じ、コートのポケットにねじ込んだ。が、すぐにまた取り出して、かじかんだ親指の先でぽちぽちとやりはじめる。  送信してしばらくしても、返事はなかった。  無意識にシューズの爪先で地面を叩いていた。やがて苛立ちを抑えきれなくなり、大股に歩き出す。  駅から少し歩いたところにあるアパートの一室。ドアの前に立ったところで、携帯電話を操作する。今度はメールではなく、通話ボタンを押した。宏之の返事を待っていたら、凍死してしまいかねない。 「はい」  何度目かのコールで、宏之が出た。現金なもので、声を聞いたとたん、苛立ちはどこかへ行ってしまった。 「ドア、開けてみて」 「うん」  ドアの向こうでかすかな物音が聞こえて、宏之が顔を出した。健司を見て、ちょっと眉を上げる。 「もうちょいびっくりしてよ」 「びっくりしたよ」  宏之が真顔で頷く。付きあって2か月である。それ以上の反応を求めることが過剰な期待であることぐらい、すでに健司にもわかっていた。 「入っていい?」  もうここまできてしまったのだ。断られるはずもない。しかし、宏之はろくに思案もせず、首を振った。 「待ってて。すぐ出るから」 「いや。むっちゃ寒いねんもん」 「3分で済むって」 「いやや。これ以上待たされると、ほんまに死ぬ」 「待たされるって、約束した時間まで、あと1時間はあるよ」 「そんなん知らん。死ぬか生きるかや」  健司は時間を間違えたわけではない。宏之の部屋に入るために、わざと早くきたのだった。 「おれを殺す気か、この人非人」 「わかった、わかった」  足踏みをする健司に根負けしたように、宏之はようやくドアを開け放した。 「すぐ出るよ」 「はいはい。宏之さんの部屋やー」  シューズを脱ぐのももどかしく、ワンルームの室内に入った。  シンプルな部屋だった。部屋の奥にベッド。真ん中にソファ。テレビとDVDデッキ、小さな棚。男のものとしても、少々殺風景にすぎるほど、無駄な家具がなにもなかった。それでも、部屋全体に広がる宏之の匂いを鼻腔に集め、健司は満足だった。  ソファに座って雑誌やDVDソフトなどを漁っているうちに、身支度を整えた宏之がバス・ルームから出てきた。パーカーにジーンズ。インテリアと同じ、ラフな格好だ。 「ごめん、もういいよ。行こう」  促されても、健司は雑誌から目を上げもしなかった。 「ええわ、今日はもう」 「ビリヤード行くんじゃないの」 「うん。そやったけど、外出るのいやなった」 「週末休めるの、久し振りなのに」  ため息を吐きながらも、宏之はキャップの形にへたってしまった髪を掌で乱した。  パーカーを脱ぐ宏之の背中を眺めながら、健司もさすがに心の中で手をあわせた。しかし、貴重な週末の休暇だからこそ、この機会を逃がしたくはなかった。  これだけ我儘をいっても怒りもしない宏之のやさしさには感謝しているが、反面、一抹のものたりなさもおぼえる。勝手な男である。 「なんか飲む?」 「なにがある?」  勝手なうえに、我儘である。 「ビールとお茶とりんごジュースとコーヒー」 「なに、そのバリエーション」 「昨日、砂原さんたちと飲んだから」 「ここで?」 「いや、道」 「三十路を前にして、青飲みて」  ちゃかしながらも、ほっとする。入室するためにここまでの苦労をたやした部屋に、砂原たちに先に入られたとあっては、とても冷静ではいられない。  健司の魂胆を知ったうえで、招き入れてくれたのかと思っていたが、どうやらそうではないらしかった。 「天然」 「え、なに?」 「なんも。お茶」 「はいはい」  健司に缶を手渡すと、宏之はベッドに腰をかけた。2人掛けのソファは、健司がゆったりと座ってもまだ余裕があった。おもしろくない気分で、健司は乾杯もせずに缶を傾けた。 「喉、乾いてた?」 「緊張してんの」 「緊張」 「宏之さんの部屋やもん」 「じゃ、出る?」 「なんでそないなんの」  げんなりして、健司はこれ見よがしに両脚を伸ばした。 「宏之さん、ここにおれいんの、いやなんや」 「うーん」 「ええ、もう。わかってきた。宏之さんがうーんいうときは、うんといっしょやって」  苦笑いを浮かべながら、宏之はラグランスリーブの袖で鼻を啜った。 「べつに、健司だからじゃないよ」 「あたりまえや。そんなやったら、こっから飛び降りたる」 「2階だけど」 「捻挫ぐらいならするやろ」  馬鹿正直に頷いて、宏之はつづけた。 「ここは、ほら、自分の空間だから」  当然のようにいわれて、健司はからかう言葉を失った。 「出てってほしい?」 「いや、そんなことない」 「うそやん。出てってほしいんやん」 「だから、そんなことないって」  再び、無言になる。寡黙な宏之とふたりでいると、健司がしゃべりつづけていないかぎり、沈黙になってしまう。 「……おれ、重い?」 「う」 「今、うーんていおうとしたやろ」 「ううんっていおうとしたんだよ」  相変わらず抑揚のない声だったが、それがよけいに腹立たしかった。 「おれ、けっこう抑えてるんやけど」 「マジで?」 「ほんまに正直やな」  健司は笑ったが、力はなかった。 「あんま突っ走って、引かれんのいややけど、好きやからずっといっしょにいたいんやん。声聞きたいし、なにしてんのか知りたいし」  再び沈黙の気配を感じて、健司は意図的に明るい声をつくった。 「宏之さんは?」 「なに」 「今まで、どんな付きあいかたしてたん」 「いや、普通」 「普通てなんやねん」 「普通だよ」 「どんなん? 何人?」 「なんでそんなこと聞くのよ」 「知りたいんやもん。おれも教えるから」 「いいって」  沈黙。宏之がテレビのリモコンに手を伸ばそうとする前に、健司が素早く取り上げた。  今日、本当はいおうと思っていた。はじめて言葉を交わした日よりもずっと前から、宏之を見ていたのだということ。  でもきっと気づいていないだろうし、そんなことをいえば、また鬱陶しく思われるだろう。 「あのさ、健司」  俯く健司の肩に手を置いて、宏之は宥めるようにいった。 「最近、年末で忙しいじゃん」  健司は眉を顰めた。話を逸らされたのかと思ったが、実際には、それどころではなかった。 「だからさ、週末にはこないほうがいいと思うんだ」  爪先が痙攣するのではないかと思った。この数ヶ月間、週末ごとに通っていた。その時間を奪われるのだと思っただけで、寒気がした。  しかし、これ以上宏之を困らせたくはない。宏之のためというよりは、健司自身の自尊心のために、健司は細かく何度も頷いた。その動きにあわせて、全身が刻まれていくようだった。 「で、何回にする?」 「は?」  次々に話題を変えていく宏之の独特のテンポに戸惑いながら、健司は首を傾げた。いつもの飄々とした顔で、宏之はこともなげにいった。 「うちにくるの、週何回にするか決めておこう。そしたら、ちゃんと掃除するし」  健司は耳を疑った。ビールを啜りながら、宏之は眉を上げた。 「なに」 「や……これ以上きれいにしたら、部屋やないで。近未来やで」 「近未来かあ」  心得顔で頷きながら、宏之は唇をひん曲げた。一応、これが彼の大爆笑なのだ。そんなことも、最近ではわかってきた。 「あと、元カノのことだけど……」 「なんで急に元カノが出てくんねん!」 「だって、健司が聞きたいって」 「なんでこの流れでそんなこと聞かされなあかんねん。空気読んでや」 「ごめん」 「2回」 「ん?」 「週2回、くるから」  鼻水を拭いたラグランスリーブの襟で、宏之は健司の頭を撫でた。ふざけて払いのけながら、健司はリモコンを投げつける動作をした。 「うち1回は、泊まりやで」 「う」 「今、うーんっていおうとしたやろ!」  宏之は唇の端をひん曲げた。 おわり
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