雪融け

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 夕方から突如降り始めた大雪から逃れるように、私は帰路に就いていた。  右肩に下げた買い物袋を何度も持ち直しながら、融けかかった雪の道をグチョグチョと音を立てて歩いた。  家に着き、コートについた雪を手で払いながら扉を開けると、「おかえりなさい」と由香里の声が聞こえた。 「すごい雪だったね。帰り大丈夫だった?」 「ちょっと買い物袋が濡れちゃったかも。乾かしてくるから、中身だけ冷蔵庫に入れてもらっていい?」 「わかった」  風呂場に向かい、シャワーヘッドにトートバッグを逆さに被せる。  持ち手の部分がやや湿っているが、一時間もすれば乾くだろう。  ついでに、朝に干したタオルの様子を見ようとベランダに向かおうとすると、すでにリビングの床に畳んで置かれていた。 「由香里、タオルありがとうね」  「うん。早めに帰れたから良かったよ」 「部活はなかったの?」 「まあ、この雪だし。っていうか見てよこれ」  由香里は中学校で貰ったプリントを私に見せた。  そこには町内で行われるイベントの告知が書いてあった。  一月上旬に開催決定、「瀬田川ゆきんこ祭り」…… 「今年の冬休み、学校の近くの公園でやるらしいんだよ。友達と行く予定なんだけど」 「なんだっけ、『瀬田川ゆきんこ祭り』って」 「知ってるの?」 「昔、どこかで聞いた気がする」 「へえ。先生が言うには、十年振りの開催だって」  そう言われて、だんだんと思い出してきた。  あれはまだ、由香里が幼子だった頃。  あの日もまた、大雪だった。 ◇  ああ、清々した。  轢いた瞬間、そう思った。 「夫だったもの」をワイパー越しに眺めながら、私は警察に連絡をした。  由香里が産まれてから、夫は何もしなくなった。  育児も、家のことも。最終的には会話すら無くなった。  私を嫌いになったのか、育児をやりたくなかったのかは知らないが、家に居てもとにかく邪魔で仕方がなかった。  明確な殺意を抱いていた訳ではなかった。  どこかで事故に遭えばラッキー。その程度の感情だった。  ただ、最終的に事故を起こしたのが私だった。それだけのことである。  数週間かけて、私は夫の行動パターンを綿密に調べ尽くしていた。  犯行当日の朝、私は道路脇に車を停め、じっと夫を待ち構えた。  当然、防犯カメラのない道を選んだ。  唯一の懸念点は通りがかった人間に不審に思われることであったが、私の乗っていた白色の軽自動車は雪に紛れるのに丁度良かったらしく、誰の記憶にも残らなかったようだった。  車道を横切りそうな夫の姿を確認し、私はアクセルを強く踏んだ。  一瞬にして「最愛の夫を殺してしまった不幸な妻」となった私にとって、同情を誘うことは容易かった。 「由香里の具合が突然悪くなって病院へ急いでいた」と言ったら、義父母も泣きながら私を慰めた。  無論、罪に問われることにはなったが、歩行者が車道に飛び出してきたこと、雪で視界が悪かったことなどが考慮され、刑罰は軽く済んだ。  結局、私の犯行は「不運な事故」として処理されることとなった。  あの日、事故現場のすぐそばの公園で祭りをやっていた記憶がある。  車の中で待機している間、雪の中ではしゃいでいる子供達の姿が見えた。  由香里がもう少し成長したら、連れて行ってあげようと思っていた。  しかし、翌年からその祭りを見かけなくなってしまった。  数年後、PTAに所属した際に「この地域で冬に祭りをやっていなかったか」と尋ねたことがある。  以前は毎年のようにやっていたものの、実行委員会の会長と副会長の間でいざこざが起こり、それからは開催の目途が立っていないとのことだった。  その祭りこそが「瀬田川ゆきんこ祭り」だったはずだ。 ◇ 「運営の人が変わったのかな」 「ん? 何が?」  ぽつりと呟いた言葉に由香里が反応する。  なんでもない、と言って晩御飯の支度をしようとキッチンに向かった時、ピンポンと音がした。 「こんばんは。警察署の者ですけども」  インターホンの画面にはスーツ姿の男性が二名、映っていた。  一瞬の動揺の後、すぐに落ち着きを取り戻して彼らを玄関に招き入れた。  たまたま昔のことを思い出していただけである。  今さらあの事故の話をするはずがない。  そう考えていた私に、片方の男が「単刀直入に申し上げますが」と前置きしてからこう述べた。 「十年前の柏木智之さんの事故について、あなたが故意に殺害したものとして捜査を進めています」  心臓が跳ね上がった。  あり得ない。そんな訳がない。  私は震えを必死で抑えながら、「どういうことですか」と聞いた。  もう一方の男がファイルから二枚の写真を取り出し説明を始める。 「こちらの二枚の写真をご覧ください。どちらにも同じ車が写っているのが分かりますか?」  その写真は、フィルムを現像したものであった。  おそらく「瀬田川ゆきんこ祭り」の様子を撮影したものだろう。  中央に子供達が遊んでいる姿があり、その周りには屋台やステージが並んでいた。  今のカメラでは考えられないほど粗い画像だが、片方は右端に、もう片方は左上の遠くの方に、白色の軽自動車、私が十年前に乗っていた車がはっきりと写っていた。 「ええ、これは私の車ですね」 「変じゃないですか?」 「……何がでしょうか」 「これ、事故があった日の午前十時と午後二時に撮影された写真なんです」  もはや、口を開くことはできなかった。  写真が一枚だけなら「偶然その場所を通っただけ」と言い訳が出来た。  しかし、別の時間に撮られた写真が複数あるとなると話は変わってくる。  彼の言葉の意味するところは、つまり。 「この車は、少なくとも四時間以上、この場所に留まっていたということになります。それって変ですよね?」  私にもう少し余裕があれば、きちんと反論が出来たかもしれない。  しかし私は、とても冷静ではいられなかった。 「待ってください。私が殺したなんて、突然そんなことを言われても困ります」 「仕方ないじゃないですか。ようやく証拠が見つかったんですから」 「もう十年前のことですよ。どうして今」 「……これ、『瀬田川ゆきんこ祭り』の写真なんです」  困惑する私の顔を見て、意味が伝わっていないと判断したのだろう。  男は一呼吸置いて、さらに説明を続けた。 「ご存じないですか、『瀬田川ゆきんこ祭り』が今年開催されることを」 「ええ、先ほど知りましたけど」 「それを機に実行委員会が再結成されて、最後に開催された祭りの記録を振り返ることにしたそうなんです。そして、当時の写真をかき集めた」 「まさか……」 「ええ。別の二人が持参した写真に、同じ車が写っているのを発見した」  当時、あの事故は町内で大きな話題となった。  十年経った今なお、事故を起こした「白い車」を覚えていたとしても不思議ではない。 「だとしても、何故今まで気付かなかったんです」 「気付けなかったんですよ。写真を照らし合わせるタイミングが無かった」  そう言われて、全てを理解した。  つまり、その写真を持っていたのは…… 「いざこざがあってから十年経って、二人の関係は良好になったみたいです。おかげで、この証拠が発見されたんですよ」  雪融けは、私を捕らえた。
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