3 五月野駅

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3 五月野駅

「え、それってこの駅の名前ですよね? 五月野駅」  彼は驚いたように言った。 「そうです。ペンネームは〈五月野サヤカ〉。五月野はこの駅からとって、サヤカは本名です。わたし、三年前にこの町に越してきたんですけど、その頃からこのペンネームを使ってます」 「なるほど、それなら絶対に忘れない」彼は寂しげな微笑みを浮かべた。「この駅の名前は俺、絶対に忘れないんです」 「なんでですか? この駅と、東北に住むあなたにどういう関係が?」 「俺、五年前までこの町の隣の市に住んでたんです。今住んでる東北は地元で」  彼はそう告げると、上半身だけで振り向き、自殺予防窓口のポスターを指した。 「これ」 「自殺予防窓口?」 「はい。これ、五年前の二月二十五日に起きた飛び込み自殺のあとで貼られたものだと思います」 「え」  サヤカは彼の言葉を聞いても、なにがどうなっているのかわからなかった。ただ、〈飛び込み自殺〉という悲しい単語が胸に突き刺さるような感じがした。 「五年前の二月二十五日七時二十五分、この駅を通過した特急列車に女性が飛びこんで死にました」  彼は線路を見つめながら言った。淡々と、異国で起きた事件についての新聞記事を読み上げるような口調だった。 「その女性は、俺の彼女だった人です」  彼は、五年前にここで通過列車に飛びこんでしまった彼女の話をした。  彼が彼女と出会ったのは彼が二十二歳のころだった。当時彼は五月野駅から六駅上った大きな駅のロータリーにある小さなバーで働いていた。そこに常連客としてやってきていたのが彼女だった。彼女は読書が好きで、聡明で、でもなんだかいつも不安そうな、怯えた小動物のように不安そうな目をしていた。そんなアンバランスな彼女の魅力に彼は惹かれた。彼と彼女が恋人同士になるまでに、そう時間はかからなかった。 「でも付き合いはじめてから、彼女の不安がどんどん膨張していったんです」  彼女と恋人同士になってからも彼はバーでの仕事を続けていた。彼女はそれがとても不安だった。あのときのように彼が常連客に惹かれるようなことがあったら? 彼は他の客に恋愛感情を持つようなことは決してなかった。それでも彼女は日に日に不安を増殖させていった。「あのお客さんのことが気に入ってるんでしょ」彼は毎日のように彼女にそう問い詰められる。それでも彼は彼女のことが大好きで、どうにか不安から解放させてあげたくて、「大丈夫だよ、俺が好きなのはきみだけだ」と声をかけ続けた。しかし彼女から返ってくるのは、「それならもう他の女と話さないでよ」という無茶な注文だった。「わかったよ、できるだけね」彼はいつもそう言って彼女をなだめた。  そんな日々が三年もつづいた。 「それで五年前の二月二十五日の夕方、俺が仕事に行こうとしたら、彼女から電話がかかってきた。その電話で彼女は俺にこう言ったんです」語尾が少し震えていた。彼は一つため息をついて、つづけた。「『今日は仕事を休んでわたしのところに来てよ。こなかったらわたし、死ぬから』。彼女はそう言ったきり、電話を切った」 「え、そんな」  サヤカは言葉を失う。沈黙がつづく。粉雪はまだやんでいない。 「あの日、俺は彼女のところに行かなかった。電話もかけなおさなかった。あのときの俺は、彼女にうんざりしてたんです」  サヤカは彼女と付き合っていたころの彼の気持ちを想像した。理由なく心変わりを疑われ、束縛され、安心させようと言葉を尽くしても、彼女には全く届かない。そんな日々が三年も続けば、うんざりしてしまうのも無理ないような気がする。 「だったらスッパリ別れればよかった。うんざりしてたけど、それでも俺の中には彼女のことが好きだっていう気持ちが残ってたから、別れることができなかった。彼女と付き合っていきたいなら、彼女の不安を無視したりすることは絶対にしちゃいけなかったんだ。それは命にかかわることなんだから」  彼は独り言のように言う。目の前の線路で散った彼女の魂に向けて懺悔しているようでもある。それを聞いてサヤカは、彼が「読書は義務」と言った理由を理解した。彼は、読書が好きな彼女の代わりに本を読んでいるのだ。たぶんそれは、彼女への償いとして。 「でも俺は彼女を無視したんです。だから俺には、他人と知り合う資格がないんです。彼女は俺と知り合ったせいで死んだんだから」 「いや、それは」サヤカははっきりとした口調で言った。どうしても否定したかった。彼女が死んでしまったのは彼のせいではなく、彼女が自ら作り出した不安のせいだ。「そんなことないと思います。あなたのせいだなんて、そんなことは」 「いいんです。これは、俺の問題だから」  彼は苦しそうに眉をゆがめた。その顔を見て、サヤカはあることに思い至る。 「もしかして」サヤカは彼の横顔に向かって言う。「あなたも同じ列車に飛びこみに来たんですか」 「それは……まあ、否定はできないです。実際に通過列車を前にしたら、怖くて飛びこめなかったかもしれないけど」  彼は深いため息をついた。 「電車、遅れててよかった」  サヤカは心からの言葉を口にした。 「こんな日に雪が降るって、なんていうタイミングだろう」 「雪に助けられたって感じがしますね」 「雪に助けられた、か」  彼がため息まじりに言ったところで、二人の会話が途切れた。 「ちなみにね」  すこし沈黙がつづいたあとで、彼は吹っ切れたように、さきほどまでよりも明るい声で話し出した。 「ここで死んだ彼女の名前、ユキっていうんです」 「え、ユキさん」 「俺は雪に助けられたのか、ユキに助けられたのか」  彼の声が雪の降る夜空に溶けていくような感じがした。 「ユキの命日に彼女が死んだ駅に行ったら、雪で電車が止まる。これってなんか、すごくないですか」  彼は線路を見つめながら言った。 「すごいです。そんなことが起こる可能性は、六十億分の一くらいじゃないですか」 「五月野サヤカさんの描いた絵本が出版される確率といっしょだ」 「はい、ほとんど奇跡」 「でも今日、それが起こってる」 「そうですね」 「だから五月野サヤカさんの絵本が出版される未来も、もしかしたらあるかもしれません」 「そうですね、ゼロではないです」サヤカはうなずいた。「マグレで新人賞を突破するようなことが、あるかもしれません」 「マグレを待ちながら」ふいに、彼がつぶやく。 「ゴドーを待ちながら、みたいですね」 「でも、結局ゴドーはこないまま終わるんだ」 「だったらマグレもこないかも」 「きっと待つことに意味があるんですよ。待つものがあるってことは、十分に生きる糧になるような気がします。俺、これからは本屋に行ったら絵本売り場もかかさずチェックするようにします」 「ありがとう」サヤカは彼に言う。「待ってくれる人がいるっていうのも、十分生きる糧になりそうです」  その会話を最後に、彼は五月野駅の改札を出ていった。サヤカは彼が去ったあともそのままそこに座り、少し遠くから聞こえる車のエンジン音を聞いていた。本当は電話番号をきいたりして、ちゃんと知り合いたかった。でも彼がそれを望んでいないことを、サヤカはわかっていた。
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