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1 通過列車を待ちながら
この駅の名前は〈五月野駅〉という。過疎化が進む田舎町にある、単線の無人駅だ。
三十歳のサヤカは一人、その駅のホームにいた。褪せた水色のベンチに座っている。
この町の古アパートに一人で住み、清掃会社で働きながら絵本作家を目指すサヤカは、孤独に押しつぶされそうなとき、この駅まで歩いてきてはベンチに座り、数時間、電車が停車し発車し、通過するのを眺める。世の中から忘れ去られたようなこの駅は、いくら絵本を創っても誰からも見向きもされない自分とよく似ている感じがし、居心地がいいのだ。
二月二十五日の夜七時。この日、この地方では珍しく、ふわふわとした粉雪が降っていた。
サヤカは雪の夜の清廉な空気を吸いこんだ。そのとき、見知らぬ男性が一人、改札をぬけてホームに入ってきた。
サヤカは目をみはった。五月野駅では普段から、乗降する人はほとんどいない。おまけに今日は雪が降っているため、電車がかなり遅れている。それなのに自分以外の人間がこのホームにやってくること自体が不思議だった。
彼はホームに立ち、単線の古びた線路をのぞきこんだ。黒いダウンジャケットを着た男性だ。両手をジャケットのポケットに入れ、東西にのびる線路をゆっくりと見渡し、時折ため息をついている。彼はサヤカの存在に気が付いていない。
十分ほどして彼はポケットから右手を出した。右手にはスマートフォンが握られていた。画面が点灯し、彼の手元がぼんやりと明るくなる。時刻だけ確認したのだろう、彼はすぐにスマートフォンを持った右手をポケットに入れた。
彼は線路を見て首を傾げている。
電車を待っているのだろうか?
サヤカは腕時計を確認した。七時二十五分。続いて座ったまま上半身だけ振り向いて、ベンチの後ろに貼られている時刻表に目をやる。七時二十五分は、特急列車が通過する予定の時刻だった。
「あの、すみません」
サヤカは彼の背中に声をかけた。
彼はよほど驚いたのか、肩をびくっとさせ、おそるおそるサヤカの方を振り向いた。
「え、いつから」彼は黒縁メガネの奥にある目を丸くし、言葉を詰まらせた。「いつからそこにいました?」
「ずっと。あなたが駅に入ってくる前からです」
「ぜんぜん気がつかなかった……」彼は右手でこめかみに触れた。
「そんなことよりも」サヤカはスマートフォンをコートのポケットから取り出し、操作し、この駅が属す路線が大幅に遅延していることを報じる画面を表示させた。「電車はしばらく来ません。雪ですごく遅れてるみたいで」
「え、マジで」彼は落胆したような、どこかで安堵もしたような、不思議な声音で言った。「七時二十五分通過の特急はいつ来る?」
「わからないです」
「え、ほんとに」
彼は通過する特急列車を待っていたようだ。特急列車の愛好家かなにかだろうか?
彼は線路の方を振り返り、ため息をつく。魂のかけらみたいな白い息が空へ上っていった。
サヤカは彼のことが心配になった。
「あの、大丈夫ですか?」サヤカは彼の背中にむかって訊ねた。「わたしは家が近くなので歩いて帰れますけど、帰りの足、ないですよね?」
言いながら、こんな雪の日に彼はどうやって五月野駅までやってきたんだろう、と考える。サヤカと同じように歩いてきたのか? だとすれば、彼もこの田舎町の住人であるということか——いや、それはないだろう。年齢はたぶんサヤカと同じくらい。背が高く、足がキリンのように長くて細く、痩せた輪郭に品のいい黒縁メガネがよく似合っている。町民の平均年齢が六十歳を超えていそうなこの町に、彼の存在は馴染まないような感じがした。
「いや」と彼は首を振る。「俺、車できたんで」
「車? 雪が降ってるのに?」
「チェーンつけてるから走れます。東北から来たから」
「そうなんですか」サヤカは言い、「じゃあ、もう車で帰るんですか」とたずねた。
「いや、待ちますよ。二月二十五日、七時二十五分にこの駅を通過する特急列車を絶対に見届けなくちゃいけないんで」
「え、なんで」
妙なこだわりが少し不気味だった。寂れた無人駅を通過する特急列車に、特別な思い入れがある理由を想像することができない。それも、日付や時刻まで指定で。
「なんでって」彼はわずかに苦笑した。「それ、俺が逆にききたいです」
「ききたい?」
「はい、あなたに。なんでこんなところにいるんですか? 電車が大幅に遅れてることを知ってるのに」
「ああ」サヤカは納得する。たしかに向こうからしたら、雪の中こんな駅で女が一人で座っているのが不思議だろう。彼も、サヤカのことを不気味に思っているかもしれない。「わたしは電車に乗るためにここに来ているわけじゃないですから」
「じゃあなんでこの駅に? まさか」
彼はサヤカの背後にある壁に視線をやった。サヤカは彼の視線を追って振り向く。そこには自殺予防窓口の電話番号が書かれたポスターが貼ってあった。
「いや、違いますよ」
サヤカは顔の前で右手を振った。
「この駅にいるのが好きなんです。わたしは普段から何時間も、この駅で、このベンチで、なにもしないで過ごしてます」
「へえ……」
彼はホームを見渡した。それから彼はベンチに歩み寄り、サヤカの隣の席を指した。
「ここ、座ってもいいですか? これから長い時間、特急列車を待たなくちゃいけないんで」
「ああ、はい」サヤカは頷いた。「どうぞ」
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