2 『ゴドーを待ちながら』についての会話

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2 『ゴドーを待ちながら』についての会話

  「ありがとう」  彼はわずかに微笑み、ベンチに座った。 「わたし、人と話すの久しぶりです」気が付けば、サヤカはそう口にしていた。「仕事場ではほとんど話さないし、休みの日に会うような友だちもいないし」  仕事がある日は出勤したら上司から簡素な指示を聞き、無言で市役所や病院の清掃をし、上司に簡素な報告をし、一人暮らしの古アパートに帰る。アパートに帰ってからはひたすらタブレット端末にかじりつき、新人賞に出すための絵本の創作を行っている。休日は無人駅に行ってぼんやりしたり、部屋でタブレット端末と向き合って過ごす。慌ただしい都市での生活や人付き合いに疲れてこの町に越してきてから三年間、ずっとそんな毎日を送っていて、人と雑談をするような機会は一度もなかった。 「俺も」と、彼は言う。 「俺も普段、人とあんまり喋らない。仕事は食品工場で単純作業。仕事がないときは本屋に行くか、家にこもって本を読んでる。全部、無言です」  彼は低い声で話した。彼の静かで低い声は、音のない無人駅の雪景色に良く似合っているような感じがした。 「そうなんですか」サヤカは彼に親近感を覚えた。この人となら友だちになれるかもしれない、という気持ちになる。「あの……」 「名前、なんていうんですか」  サヤカは彼にきいてみた。 「俺は」彼は言いよどみ、なにかを迷っているようだった。「名前は教えられません」 「え、なんで」 「俺、他人と知り合う権利がないんです」  彼は言った。それがどういうことなのか、サヤカには理解できなかった。でもそれ以上掘り下げて問い詰めてはいけないと思った。彼がそう思うに至らせた理由が、楽しい出来事であるとは思えなかった。 「じゃあ、何歳ですか」サヤカは違う質問をした。「年齢くらいは教えてくれてもいいですよね」 「三十」彼がこたえる。 「わたしもです」 「なんとなく、そんな気がしました」  彼はサヤカの顔を見、かすかに笑った。 「本を読んでるって言ってましたけど、どんな本を読むんですか?」  サヤカはきいた。久々にする会話は思ったよりも楽しくて、サヤカはどんどん話したくなった。人との関わりを避けて田舎町に越してきたはずなのに、思いの外、人との会話に飢えていたことに気が付く。 「いろいろ。本屋で最初に目についた本を買って読みます」 「最近読んだ本は?」 「『ゴドーを待ちながら』」 「あの、演劇の?」 「そう、戯曲」 「おもしろいんですか?」 「いや、別に。男二人が〈ゴドー〉をずっと待ってるだけ。最終的に、〈ゴドー〉はこないまま終わるし」 「〈ゴドー〉は神を表わしている、とか言われてるんでしたっけ」  学生のころ、なにかの授業で習った記憶があった。 「そう。でも結局〈ゴドー〉はこない。なにも起きないし、救われもしない物語です」 「どうしてその本を選んだんですか?」 「たまたま行きつけの本屋が戯曲フェアみたいなのをやってて、最初に目についたのがそれだったからです。俺、本は読むけど、読む本はなんでもいいんですよね」 「へえ、好きな本とか、読みたい本とかないんですか」 「ないです。読書は義務なんです」  彼はあっさりと答えた。読書好きだけど好きな本がない人なんているんだ、と腑に落ちない思いがする。っていうか、読書が義務ってどういうこと? 「あなたは好きな本があるんですか」  考えていると反対に、彼が問いかけてきた。 「わたしは絵本が好きですね」  サヤカは答える。 「絵本? 子ども向けの?」 「はい」 「へえ、俺、本屋は行くけど絵本のコーナーは見たことないな。よく読むんですか、絵本」 「よく読むっていうか、絵本を創ってます」 「え、すごいじゃないですか。絵本作家?」 「いや、違います。絵本を創って、新人賞に応募してるだけ。二十歳のころからやってるけど、いまだに通ったことはないんです」  サヤカは自嘲の滲む声で言った。絵本のことはこれまでだれにも話したことがなかった。中学生のころ、ノートに絵本のようなものを描いていたら、それが同級生に見つかり、黒板に張り出され、クラスぐるみで馬鹿にされたことがあった。それ以来、自分が絵本を創作しているということはだれにも明かすまい、と心に決めた。 「へえ、すごい。賞に通らなくても、ゼロから物語を創れるってこと自体がすごいですよ。俺はたくさん本を読んでるけど、創ろうと思ったこともない」  社交辞令を言っているようには思えない。 「ありがとうございます」これまで馬鹿にされたことしかなかったので、褒めてもらえたことが単純にうれしかった。「でもたぶん、わたしの絵本は永遠に世に出ることはありません」 「なんでですか」 「わたし、才能ないから。わたしの絵本が認められることはないと思います」  十年もひたすら絵本を創っているのに、一度も世の中に認められたことがない。それはきっと、自分には才能の欠片もない、ということだ。 「へえ」彼は低い声で相槌を打った。「そんなふうに思ってても、新人賞には応募しつづけてるんですか?」 「はい」 「認められないって思ってるのに?」 「はい。ほとんど諦めてはいますけど、いつか自分の創る、わたしの好きな世界を、たくさんの人たちが好きになって、共有してくれる日がくるんじゃないか、ってありえない期待もしているんです」  言いながら、サヤカは自分の気持ちを理解していった。子どものころから友だちを作るのが苦手だった。だから絵ばかり描いていた。それでいいと思っていた。でも三十歳という年齢になってまで絵本を創って新人賞に送りつづけているのは、きっと自分の世界を理解し、共感してくれる人が現れるのを待っているからだ。 「たしかに、応募しているかぎり可能性はゼロじゃない」彼は言う。 「はい、ゼロじゃない」サヤカは少し考えてからつづけた。「六十億分の一くらいの可能性はあるかもしれません」 「地球に住む人が出会う確率といっしょですね」 「そうです、まさに。ほとんど奇跡」  サヤカは苦笑した。 「ペンネームとかってあるんですか?」 「あります」 「教えてください」 「五月野、です」サヤカは言った。
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