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片膝をついて深雪や凍死人 ——紅実
明け方に目が覚め、布団の中で少し縮こまってから覚悟を決めて布団を出た。
屋内の空気が冷凍庫めいている中、布団の温もりの残る間に済ませて帰らないと……
家人を起こさないようにそっと抜け出した。
トイレで用を足し、手を洗いタオルで拭った後、暗いのにほの白い窓に気がついて少し開けると屋外には雪が降っていた。
地表の全て、雪に覆われ色と形を隠されている。
物の在り処だけでなく道の在り処も分からない。
せっかくの週末が雪降りで潰れた。
出かけるのもことなので、こんな日は家に籠るに限る。
北国では住居の、あらかじめ寒さを遮断した屋内は雪の夜にも温度が保たれる仕組みになっているのだろうけど、本州の半ばだと夏の暑さも考慮した作りの為か、冬場の冷え込みへの対処は不十分なのかもしれない。
廊下で吐く息も白い、布団に戻って寝なおそうか。
見ると時計の時刻ももう朝にかかっている。
どこかのタイミングで家の周りと道路の雪を空けなきゃならないだろう。
昼前後に雪かきスコップを出して取り掛かるか、……
それよりも乾燥した冷気で喉の奥が痛くなった。
寝直す前にどうか、と思ったが暖かい飲み物が飲みたくなった。
少し迷ったがカフェインを摂ることに決め、ケトルをコンロの火にかけ、即席コーヒーの粉をマグカップに入れ、そしてしばらく待った後、沸騰した熱湯をそこに注いだ。
湯気を立てる一杯を持ちリビングに入ると、ソファに先客がいた。
既にカップを持ち僕の席に座って飲んでいる。
湯気が出ていないカップを持ち放心した表情のそれは紛れもなく僕自身だった。
しばらく立ったままでマグを包み込み手指を温めながら黒いコーヒーを口に含んだ。
この『僕』が現れたタイミングについて考えた。
向こうはこちらを見ていない。
持ったカップを覗き込んだままだ。
『子供の頃……大雪が降った時』と、『僕』が僕にではなく、独語のように語り始めた。『夜中、家族に気づかれないように一人、家の外に出た……』
コーヒーを飲みつつ『僕』の声を聴きながらその思い出を頭に浮かべた。
正確な年齢は忘れたが、珍しい大雪の降った年の話だ、調べれば分かるだろう。
『何もかもが白い雪に埋もれ、音も無い真夜中に長靴を履いて、足跡を付けながら一人歩いた。見当を付けながら、自宅の敷地から道路へ。 車も走らない厚く積もった雪原を、夢見るように歩いて行った。 遠い風景が白く消し去られた中を、ただ魅入られたように歩いて』
僕はその光景を思い出していた。
羽毛のような雪が降る中を膝まで埋まる深さまで積もっていた。
『眺める雪景色に気を取られ、舗装道路の端から足を踏み外した。片足が深みにとられて身体がそちらに倒れ込んで雪の中に突っ込んだ。雪の中に埋まり、起き上がろうとしても起き上がれなくなって、そのまま……』
『僕』が出現した理由を察した。
この時、子供のままで凍死していたら……そんな事を思い浮かべているのだろう。
『僕』を見ると、身体の表面に、ショートニングがまぶされたようになっている。
まるでケーキ菓子じゃないか。
次第に色が薄れてとうとう真っ白になると、それは人型の雪像に変わっていた。
もう少しよく見よう、と思っていると、自分自身が入れ替わり、ソファに座っていた。
時間差のように。
そうしてカップを持ちながら、誰にともなく一人さっきの台詞を呟いてみた。
「……そのまま」と言ったところで言葉を止めた。
あの時、埋まったままだったら凍死していたろう。
道路脇の側溝に足をとられたのだと思う。
自力で起き上がり抜け出したんだろうか。
いや、何故か自分では起き上がらなかった、
そこまで考えると、自分がここにいるのは不自然な気がしてきた。
子供時代に凍死した人間が、大人に成長出来る分けはないのだ。
もしかしたら、ここまでの人生は夢で、実際は凍え死にしかけている子供がそれを観ているだけではないか。
『僕』の出現はこの疑念から湧き出たものだったようだ。
あの時に息絶えていなかった理由を探し出さなければ、ここまでの人生が夢になり、現実の人生はあの雪の夜に途絶えた、という事になる。
その記憶自体が無い。
次第に室内の風景が薄れ、替わりに羽毛の雪の降る、音のない夜中の無人の街が見え始めた。
「合理的に説明できる解答」が無い限り、子供時代の僕はあの夜中に人生を終えている。
「なぜ自分は現在まで生きているのか」
『僕』の抱く疑義によって、過去のその場の状況は吟味され、疑わしい「現在」は否定されてしまうとそれは来るはずのない「未来」にされ一つの空想や夢にされてしまう。
記憶を動員してあったはずの道筋を割り出して、自分のいる未来がきちんと過去と繋がっていることを証明しなければならない。
……自分で抜け出さなかったなら誰かに助けられたと思うのが普通だ。
でも真夜中、あの道は農地の横を通る道路で、日中も近所の人々がぽつりぽつりと通るだけの道だった。
妙な時間、雪に埋もれた子供を何かのついでに見つけるほどの通りすがりもあるまい。
だとすれば足跡だ。
雪が積もって消す前のタイミングならば、家から繋がる足跡を辿って埋まっている場所までやってくるのは可能だろう。
あとは誰が見つけたか、だ。
他人にとっては単なる足跡にしか見えないだろうけど、その意味を知って追いかけてくるとすればやはり両親だろう。
夜中に起きた両親が何かの拍子で僕が外に出たのを知った。
抜け出した時にわざと起こさないようにしてきた。
夜中に起きても部屋を覗くことは考えられない、すると抜け出したのを知ったのは別の理由。
例えば、……夜に起きて雪を知り、積もり具合を確かめに表を確かめた、その時に玄関から続く足跡を見て。
これならば説明がつく。
しばらく目蓋を閉じてから、ゆっくりと開いた。
冷え込んだリビングの部屋にいた。
そうだ、だからあの時の自分は凍死しなかった。
それから大人になって結婚し、今は妻と小さな息子とこの家で暮らしている。
この現在が夢にされるなんて事があってたまるか。
『僕』は納得できたのか消えた。
冷たくなったコーヒーを煽りカップを干すと、表の様子が気になった。
どれぐらい積もっているんだろう。
僕はソファを立ち部屋を出た。
サンダルを足に引っ掛け、ドアを開けて表を見た。
白い息を吐き、雪のまだ降る中、すっかりと雪に覆われた屋外を見ていたが、僕は文字通り凍りついた。
玄関から外の道へと一組の小さな足跡が連なっている、そして出て行った足跡の一列のみで帰ってきた一列が無い。
三和土を見ると息子の長靴が見当たらない。
僕はつけられた足跡に既に雪がかぶさっているのを見た……
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冒頭の句は
現代教養文庫 横田正知/編『写真 俳句歳時記 冬』p228
から孫引きをしました。
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