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エピソード 3/3
――あの日から約二年の時が流れ、遼の転勤が決まった。勤務地は都内で、望実の勤務先ともそう遠くはない場所だった。ちょうど望実の借りていたマンションも契約更新の時期で、これを機に、二人で住むことにした。「同棲」という言葉を発する度、どこか全てを手にした気分になった。
それから七年。
何不自由なく過ごしているものの、心はいつも浮いている。家に帰れば遼も帰って来るし、休みの日は一緒に過ごす。買い物も行くし、身体の関係も人並みだ。それにもかかわらず、満たされているようで、空っぽのような、そんな日常が流れている。あの頃の胸の高鳴りとやらも、もう随分とご無沙汰だった。
この上なく近くにいるのに、これ以上ないほど遠くに感じることもある――これが俗にいう、倦怠期というやつなのだろうか。同棲をしてからの七年間。一体、何が変わったのだろう。
職場も、趣味も、交友関係も変わっていない。住む場所だって、もう三度の契約更新を終えている。だとするならば、後はもう、気持ちの問題――しかないのかもしれない。何重にも蓋をしたはずの心の器が沸騰した鍋のように、カタカタと音を立て始める。望実の瞳は、涙で滲んでいた。
水道のレバーを勢いよく上げ、吹き出る水の音で誤魔化しながら鼻を吸い、水が飛び跳ねたことを装いながら涙を拭く。惨めなんかではない。遼と過ごしたこの時間は、間違いなく私を幸せにしてくれたんだから――望実は唇を強く噛み、自分を奮い立たせた。
「お待たせ。食べよっか」
「サンキュ」
遼は視線を向けることなく、姿勢を正す。そして、テーブルに置かれた料理を見ると、人間らしい表情を浮かべた。
「あれ、今日って確か……」
「うん。急遽、メニューを変えました」
白の器に盛られた、ホワイトシチュー。まだ何色にも染まっていない白色を見ながら、望実は思った。
この白はきっと、これからの足跡をしっかり記憶してくれる。振り返れば、今までの軌跡だって、はっきり示してくれている。だから進もう。このシチューを食べたら、二人の関係は――終わりなんだ。
「ふう。ごちそうさまでした」
食べかけのスプーンを置き、そう言った遼を見つめた。心臓が痛い。呼吸が辛い。言葉が消える。
待っていた時間のはずなのに。その思いが、さらに胸を締め付けた。そんなことなどつゆ知らず、遼が立ち上がる。
「あの……」望実がくすぶる思いを奮い立たせた――その時だった。
「あれ、ひょっとして……」
食べた食器もそのままに、遼は足早に窓へと向かう。望実はその様子を目で追うことしか出来なかった。
「ちょ、望実。こっち来て」
望実が重い腰を上げて歩み寄る。遼は静かに窓を開けた。
「ほら――雪」
窓の外に目を向けると、抑えていた涙がこみ上げる。今の望実にはもう、それを堪える力は無かった。
遼の言葉が、煌めく雪の中に溶けていく。
「この関係は……もう、終わりにしよう」
先を越された。越されてしまった――望実は声を殺して泣いた。
「やっぱり、そうだよね……もうダメなんだよね――」
「望実……どうして、泣いてるの?」
その言葉の意味を理解するより先に、望実の瞳は遼へと向かっていた。
「だって今、終わりにしようって――」
「うん。この関係を終わりにしたい。俺には望実が必要なんだ」
「どういうこと……?」
望実は涙ながらに尋ねる。一呼吸置くように大きく息を吸った遼の顔が、あの日の顔と重なっていく。
「いつまでも彼氏、彼女の関係でいたくないんだ」
もぞもぞと、遼はズボンのポケットをまさぐる。その小さな穴から出てきた手には、小さな箱が握られていた。遼はその箱に手を乗せ、口にする。
「俺と――結婚してください」
箱の中身が露わになる。望実の視界には、銀色に輝く指輪が飛び込んだ。
「うそ、うそでしょ……」
それ以上の言葉が出ない。想いが溢れては消えていき、望実は受け入れることも、突き放すことも出来なかった。瞬きの減った目が、遼と指輪を交互に捉えていく。
そんな望実の心を捕まえるように、遼は静かに言葉を続けた。
「想いを伝える日のことを、ずっと考えていたんだ。正直、生きた心地もしなかった。七年も同棲してるっていうのに、ここ最近は望実の顔を見るだけで、変に緊張した。だから無駄に残業をしたりもしてた。もし俺の態度で誤解させていたのなら謝る。でも……これが俺の、泉遼の本当の気持ちだから」
指輪の入った箱を持つ、遼の手は震えている。頭で考えるよりも先に望実の手は伸び、目の前で震える手を包み込む。
その手は望実以上に温かかった。望実は目を閉じて、この七年に思いを馳せる。
近くに居るからこそ、目に見えるモノだけを、信じ過ぎていたのかもしれない。変わっていくことに、怯えていたのかもしれない。
時を重ねるということが、人生の厚みを増すということに繋がるのならば、時間が過ぎるということは、変わっていくということだ。
この空を舞う雪も、いつかは溶けてしまうのだから――
「……よろしくお願いします」
絞り出すように、望実は言った。
「付き合った時と、全く同じ言い方だ」と笑う、遼を抱きしめた。
二人の身体がゆっくり離れると、遼は箱の中から指輪を取り、望実の元へと向かわせる。そして、望実の薬指は七年分の重みを増したのだった。
望実は手を伸ばし、角度を変えながら指輪を堪能する。そこへ狙いを定めたように雪が部屋の中へと飛び込むと、その一粒が、指輪の上に舞い降りた。
それは室内の温度に反応し、形を変えながら照明の光を反射する。
外を舞い落ちる雪よりも、綺麗だと思った。
変わった先にも美しさがあることに、望実は気が付いた。
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