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「やり直し。数字が違う」
部下から差し出された書類を一瞥し、俺は端的に返した。
一目見ただけで分かるくらいの間違いに気づけないなんてあり得ない。それでも「数字が」と、誤りの箇所まで指摘してやるなんて俺は優しい。めちゃくちゃ忙しいのに。一分一秒が惜しいくらいなのに。
パソコンの画面に視線を戻し、ドドドドッとキーボードを叩きまくる俺に、部下は「す、すみませんっ!」と勢いよく頭を下げる。そして肩を落としながら自分の席に戻って行く。
次にやって来た別の部下は、数字どころか文章そのものがおかしかった。なぜか途中からフォントが変更されている。ディスカウントショップのPOPか? と思うような字体で、思わず目つきが鋭くなる。
「書類はPOPじゃないんだが?」
氷点下かと思うくらいに冷たい声だな、と自分でも思う。怒りを抑えるとこうなる。抑揚がなくなるのだ。怒られないだけマシだと思って欲しい。部下は凍り付いたように固まり、それから小さくなって俺の前から去って行った。
小さくため息を吐いていると、やたらキラキラした奴が目の前に現れた。
藤間佑馬。この春に入社してきたばかりの新人だ。整った甘い顔立ちに人の良さそうな笑みを浮かべている。他の社員は、出来るだけ俺と距離を取ろうとして離れた位置からそろりと書類を渡してくる。それなのに、藤間は逆だ。
ぐいぐい至近距離に来る。陽の下ではしゃぐ大型犬みたいに、元気いっぱいに距離を詰めてくる。
「書類の確認をお願いします!」
「……ああ」
ちらりと一瞥する。パッと見た感じでは、誤りはなさそうだった。受け取ってパラパラと資料をめくる。
「問題ない」
「今ので分かるんですか? 凄いですね!」
藤間が人懐っこい顔で俺を見る。二重のきれいな目をぱちぱちさせている。眩しい。キラキラしている。金粉でも放出しているのかと疑いたくなるほどだ。
「次、これを頼む」
俺は藤間に新たな仕事を振り、自分の席に戻るように促す。
「承知しましたー!」
無愛想な俺とは真逆で、藤間は常に笑顔全開だった。元気よく返事をしながら遠ざかって行く後ろ姿を見て、内心ホッとした。
俺は藤間が苦手だ。
上司なので、好き嫌いしてはいけないと百も承知なのだが。いや、好き嫌いではない。あくまでも「苦手」なのだ。
配属されてきたとき。初めて藤間を見た瞬間に背筋がぞくぞくした。今思えば恐怖に近かったと思う。やたら高身長なところとか、スーツ姿でも筋肉質なことが分かる体格とか。そういう部分はもう理屈じゃなく怖い。何でもないふりをしているけど。
書類を受け取る際、いつも藤間の手に視線が吸い寄せられる。大きな手をしている。長くてきれいな指。Ωの自分とは、何もかも違うなと思う。
◆
俺、香椎翠には、日頃から心に留めている言葉がある。自分を励まし、鼓舞し、ときには戒めるための言葉。迷いが生じた瞬間や決断を迫られた際、頼りにしている信念の言葉。それは……。
努力、根性、忍耐。
昔のスポ根マンガかよ、と思われるかもしれない。時代錯誤も甚だしいと笑われるかもしれない。けれど、今を生きるΩの俺にとっては必要不可欠な言葉なのだ。
Ωを取り巻く環境は、ここ数年でかなり改善された。それでも生きていると、どうにもならない現実に直面する。
たとえば、この体つき。
Ωは筋肉が付きにくい。俺は今、会社帰りのジムで絶賛トレーニング中だ。努力と根性と忍耐によって、かなりの負荷をかけてトレーニングに勤しんでいるのだが、成果は乏しい。
「香椎さんって、筋肉に嫌われてますよね~~!」
ジム仲間の女性会員にもこんなことを言われる始末だ。ちなみに彼女は、俺がΩであることを知らない。バース性はプライバシーの最上位に位置する。
「普通、こんなに負荷かけてたらムキムキになると思うんですけど。香椎さん、いつまでたっても細マッチョの域を出ないんですもん」
けらけらと笑う彼女を苦々しい気分で睨む。本当のことだから何も反論できない。
「まぁ、香椎さんの冴え冴えとした美貌を思えば、今くらいがベストだと思いますけどね! 完全に守られ系王子様の外見じゃないですか」
守られ系王子様って何だよ? 生まれて初めて聞くワードなんだが。それに美貌って……。俺、もうすぐ三十路だぞ。
「この年で王子様はキツイだろ」
「言わなきゃ分かりませんよ~~! ぜっんぜん、大学生でも通用します!」
正真正銘の女子大生に太鼓判を押され、微妙な気持ちになる。
実年齢より若く見られるのは今に始まったことではない。自分では少し気にしているけど、どうにもならない。Ωは小柄かつ童顔であることが多い。
俺は男性の平均身長はあるし、そこまで童顔ではないので、これでもマシなほうなんだが……。
年相応な彼女を眺めながら「なんだかなぁ」と、俺はため息を漏らした。
◆
自分のデスクで昼食代わりのプロテインをちびちび飲んでいると、藤間に声を掛けられた。相変わらず笑顔だった。真新しいものみたいにぴかぴかしている。
「昼、それだけですか?」
「今日は、あまり食欲がないんだ」
食欲がないのは本当。でも「今日は」というのは嘘だ。俺はいつも昼食を軽くしか食べない。食べることが出来ないと言ったほうが正しい。
Ωは、体質的に一度の食事で少量しか腹に入れることが出来ないのだ。
「本当に大丈夫ですか? 午後からしんどくないですか? チキン南蛮で良ければありますけど」
心配そうな顔で、オフィスカフェで購入したらしいチキン南蛮弁当(しかも大盛)を見せてくる。チキン。胸肉。油。さらにタルタルたっぷり。そして白飯が溢れんばかりにぎゅうぎゅうに収まって……。
おえ。見ただけで胃がせり上がってくる。すぐにそのハイカロリーな暴力を仕舞って欲しい。子宮がある分、俺の胃は狭い場所に追いやられているのだ。
「い、いらない……」
固形物を口にしていないのに、想像しただけで胃もたれを起こしかけている。俺は力なく首を横に振った。
「食べたくなったら、いつでも言ってくださいね。香椎さんになら、どんな好物でも分けてあげますから!」
藤間はそう言って、元気に飲食スペースへ向かって行く。
最近、藤間は毎日のよう俺にメシを与えようとしてくる。昨日は濃厚デミグラスソースのハンバーグ弁当をすすめてきた。一昨日は黒酢肉団子が山積みになった中華弁当だった。その前はステーキがてんこ盛りになったワイルド弁当。
若さゆえの食欲が恐ろしい。チョイスがΩの俺にとっては暴力的過ぎて怖い。せめてスープとかサラダとか、そういう類なら良いんだけど……。
いや、ダメだ。仕事以外で他の社員と関わりを持つのは危険だ。何より、藤間はぜったいにダメだ……!
俺の予想では、藤間はαだ。
かなりの長身だし、筋肉質だし(羨ましい)。何より、ハンバーグや肉団子、ステーキというチョイスから漂うα的嗜好。彼らはとにかく肉が好きなのだ。αである特徴と合致する。
そして何より。藤間が入社して間もない頃、俺は暴走しかけたことがある。それまでは、誰の匂いにも反応しなかったのに。というか、匂いに気づいたことすらなかった。それくらい俺は抑制剤との相性が良かった。
ヒートが近かったせいもあったのだろう。甘くて、少しスパイシーで。濃密で心地よい香りが藤間から放たれていると気づいたとき。体が熱くなった。頭がぼうっとして、幸せな気持ちになった。
息苦しいくらい呼吸が荒れているのに、もっと苦しくても良いと思えるくらいに匂いを嗅いでいたかった。かろうじて残っていた理性を総動員してトイレに駆け込み薬を飲んだ。
なんとか症状は収まったけれど、そのとき鏡にうつった自分の顔が今でも忘れられない。頬を赤く染めて、目がとろんとろんに潤んでいた。こんなはしたない顔をするんだと、これが自分の顔なんだと、俺は静かに衝撃を受けた。
なんだか自分じゃないみたいで、ひどく狼狽したことを覚えている。
◆
今日も仕事に打ち込む。バチバチとキーボードを叩く。集中していると、上司である菱川から声を掛けられた。
「今日もノー残業で頼むよ」
気の弱そうな顔で、まるで懇願するような口ぶりだった。働き方の改革が云々の世の中だ。上からの圧力なのだろう。
「分かっています」
そのために、俺は毎日死ぬ気でキーボードを叩きまくっているのだ。一瞥しただけで書類の不備を見抜くという技能も身に付けた。
「香椎くんの場合は、特にハラスメントにも十分気を配って。とにかく穏便にね。怒らないで、急かすのもダメだよ」
「……俺がパワハラをしてるっていうことですか?」
思わず冷たい声が出る。キッと眉根も寄る。
「そういう類の報告があったわけじゃないけど。パワハラだって言われる前にね、気を付けないと」
「はい」
不本意極まりないので、抑揚のない声で返事をする。
「香椎くん、部下から何て呼ばれてるか知ってる?」
「存じませんが」
社員とは一定の距離を取っている。たぶん、無意識のうちに。知られたくないことがあると、人間はそうなるのだと思う。防御本能のようなものだろう。
「香椎くんはね、鬼上司って呼ばれてるんだよ」
菱川はいたって真剣な顔をしている。冗談ではないらしい。
「……それは、心外ですね」
鬼上司ってなんだよ。完全な悪口じゃないか。それこそ何がしかのハラスメントじゃないか?
「熱血だからね、香椎くんは。クライアントのためには死んでも品質向上に努めるし、納期を守るために鬼気迫る感じになるし。何ていうか、その姿が鬼に見えるみたい。鬼はさすがに皆が怖がっちゃうから。ね? もうちょっと仕事に対しての熱意は冷ましていいから」
なーーーにが「ね?」だよ。めちゃくちゃ仕事をがんばっているだけなのに、鬼に例えられるとは。俺のほうこそ泣きたい。
「あと、もうちょっと愛想良くして。雰囲気というか、物言いが冷たい感じがするんだよ。まぁ、外見が氷の王子様みたいだから、仕方がないのかもしれないけどさ」
ははは、という笑いながら菱川が去っていく。何が面白いのか分からない。一ミリも笑う要素は無かったはずだが。
イライラが募り過ぎて、ますます顔が能面のようになる。
そもそも、俺は自分のことを熱血だとは思っていない。まぁ、めちゃくちゃ努力した自覚はあるけれども。菱川の言う通り、差し迫った納期は根性でやり切った。睡魔に襲われても忍耐で乗り越えた。
努力、根性、忍耐で……!
そして今の地位がある。同期で課長まで上り詰めたのは俺だけだ。一般的にΩは季節の変わり目に体調を崩しやすいといわれる。感染症にもかかりやすい。ヒートは薬で抑えられるが、副作用の倦怠感や頭痛に悩まされることがある。
はっきり言って不利なのだ。αやβと比べると、Ωは圧倒的に不利な立場。その逆アドバンテージをひっくり返すためには、努力して、耐えて、根性で頑張るしかなかった。
その結果、まさか部下に鬼上司と言われることになるなんて。
「はぁ……」
ため息が止まらない。それでも、上司から注意されたことは改善しなければ。
俺はそれ以降、努めてやさーーーしく、部下に対応することにした。怒られることに慣れていない、甘やかされたボンボンたちに合わせてやるしかない。
俺が勤める企業は業界最大手で、縁故採用が多い。毎年、育ちの良さそうなボンボンたちが大勢入社してくる。大学までエスカレーター式で、特にアルバイトをした経験もない。平凡なサラリーマン家庭で育った自分とは大違いの人々。
彼らは、良く言えば余裕があっておおらかだ。仕事は出来ないけど。
ぺらりと差し出された書類を見た瞬間、センサーが反応するみたいに眼球が誤字を捉えた。しかし、怒ってはいけない。冷たく指摘してもいけない。優しく。あくまでも優しく。
「……もう一度、やり直してもらえるかな?」
自分史上最大の穏やかな口調で資料を返す。
次に手元に来た資料は、途中から見覚えのあるPOPフォントが変わっていた。またか、こいつ。もう完全にふざけているとしか思えない。キレそうになったけど、全力で我慢する。
「……か、かわいい文字だね?」
ほとんど笑うことがないから、今自分がちゃんと笑えているかも怪しいが、精一杯の笑顔を作る。若干、顔が引きつっている感じが否めない。
部下はそれぞれ首を捻りながら自分の席に戻って行った。俺の態度が急に変わったことを訝しんでいるのだろう。その気持ちは分からなくもないが、とにかくキチンとした書類を俺に回して欲しい。
そうすれば、俺だって慣れない猫撫で声を出したり引きつった笑顔を見せたりしないで済むのに。
無事にノー残業で退勤することに成功し、駅へと向かう。
駅構内を歩いていると、おにぎり専門店が目に入った。いつもは素通りする……というか気にも留めていなかったのに、今日はやたら美味しそうに見えた。
ぐるぐるとお腹が鳴って驚く。小食の自分にはめずらしい。
「笑ったりして、余分なカロリーを消費したせいだ」
ふらふらと足がおにぎりのほうに向かう。ショーケースに具材が並べられていた。大きなつぶのいくら、ふっくらと焼かれた塩鮭、ぎゅっと味がしみていそうな味玉。どれもこれも美味しそうだ。
「うーーん、でもやっぱり。昆布、おかか、大葉味噌のうちのどれかだな……」
できれば三つ食べたい。お腹が減っていても一個がせいぜいな自分の小さな胃が恨めしい。真剣に具材を選んでいると、背後から声がした。
「香椎さん?」
びくりと肩がふるえる。振り返らなくても、声で分かる。
藤間だ。
「夕飯、おにぎりですか?」
仕事終わりなのに、寸分のくたびれ感もない。圧倒的「陽」なオーラに気圧される。
「……これは、買い食い。帰ったらスープを作るから、それが夕飯だ」
材料は切ってある。ほぼみじん切りの状態なので、さっと煮込むだけで良い。
「え? スープって、それだけじゃないですよね?」
藤間が、ぎょっとした顔をする。
「肉と野菜が入ってるから。スープ単体でも問題はない」
「そんなのダメです。健康に悪いですよ」
いや、まったく問題はないんだが。ちゃんと健康管理はしている。俺にはちょうど良い量なのだ。
「……平気だ」
じりじりと後ずさる。藤間は、お構いなしにぐいぐい迫って来る。
「俺、料理は得意なんです!」
「そ、それが?」
一体どうしたというのだ。
「俺の部屋、来ませんか?」
へ?
「い、いや……」
おかしい。めちゃくちゃ藤間との距離が近い。なぜだと内心焦っていたら、背中が壁にぴたりとくっついていた。
「背中、汚れます」
そう言って、俺の肩に触れる。まるで胸の中に仕舞い込むみたいに俺を抱き寄せる。頬がカッと熱くなったのが分かった。
「ふ、藤間……」
すっぽりと腕の中におさまっている。急に、自分が頼りないものになった気がした。
「行きましょうか」
そう言って腕を引かれた。頭がぼうっとする。心臓が今までにないくらいドクドクと主張していた。
藤間の自宅は、閑静な住宅地にあった。外観からすでに高級マンションのオーラを放っている。
「……ひとり暮らしか?」
「そうですよ」
こいつも筋金入りのボンボンだな。給与だけでは絶対に、この部屋は借りられない。おそらく親の持ち物なんだろう。
部屋に入ると、完璧にコーディネートされたラグやらソファやらが鎮座していた。ソファに座るよう促されたが、どうにも落ち着かない。
ぎこちなく上着を脱いでいると、藤間の視線を感じた。
「なに」
駄々っ子みたいな声が出た。
「香椎さん、細身なのにぺらぺらってわけではないんだなって。鍛えてます? あ、だからプロテイン飲んでるのか」
ひとりで納得したように頷いている。
「……お前に言われたくない」
すでに上着を脱いで、シャツの袖をまくっている。むっちりした腕の筋肉が見えて、心臓がドクンと跳ねた。慌てて視線を外す。
「なんか、勝手に筋肉がついちゃうんですよ」
やっぱりαだな。羨ましいというより、何だか圧倒的な敗北感を感じた。
藤間はキッチンでてきぱきと料理を始めた。得意だと言ったのは嘘ではないようで、包丁を握る手は安定しているし、動きに迷いがない。
「香椎さん、今日どうして皆に優しかったんですか?」
ちょっと拗ねたみたいな声で藤間が言う。
「……業務命令だ。部署内でのパワハラを恐れる菱川部長からの」
上からの指示には従わねばならない。会社員とはそういうものだ。
「業務命令だとしても。笑顔を見せないでください」
「は?」
意味が分からない。いや、でも。俺はちゃんと笑えていたのか。表情筋が固まっている自覚しかなかったから、ちゃんと笑顔と認識されていた事実に安堵する。
「まさか、あんなに可愛いとは思わなかったです」
「何が」
「笑顔が」
そんなわけあるかよ。可愛いとか馬鹿じゃねーの。
「……っ」
心の中では悪態をつけても、照れてしまって言葉は発せない。顔が赤くなっていること、ぜったいに藤間にバレている。俺の「氷」の部分が行方不明だ。こんなときこそ仕事をしろよ。
「鬼上司っていうのは、さすがにヤバいから……」
「菱川部長に言われたんですか?」
小さく頷く。
「俺は、香椎さんのこと鬼だなんて思ったことありませんよ? ときどき、内心は怒ってるんだろうなって思うことはありましたけど。青筋がぴきぴきしてるなーーって。でも、我慢してるんだろうなって。怒ってないふりして、しらーーっとした顔で部下に対応してる香椎さん、すごく可愛かったです」
甘ったるい声で藤間が言う。
な、なななんだそれ。ぜったいに馬鹿にしてる。上司という現代では不利な立場である俺をおちょくってる……!
俺がソファの上であわあわしている間に、藤間が料理を運んでくる。さすがに手慣れているだけあって早い。
「ス、スペアリブ……」
照り照りした骨付き肉が、どどーーんと大皿に盛られている。こってりとした下味が付いているであろうことを察する。
「お待たせしました。香椎さん、白飯どれくらい食べます?」
味噌汁が入った椀を俺の前に置きながら、藤間が問う。
「あ、えっと。お茶碗の半分くらい……」
「え? お腹空いてるんですよね? 遠慮しなくても大丈夫ですよ。三合は炊きましたから」
さ、さささ三合……?
驚き過ぎて目の前が真っ白になった。藤間からお茶碗を受け取る。どう見ても半分の域を大幅に逸脱した量が盛られていた。
「い、いただきます」
「はい! どうぞ」
藤間は満面の笑みだ。
俺は、静かに味噌汁をすすった。豆腐とワカメで良かった。味噌汁にまで肉をぶち込まれていたらと心配していたのだ。
「美味しい……」
ちゃんと出汁の風味がする。じんわりと沁みる味だ。
「本当ですか? 良かった」
俺はごはんと味噌汁、交互に箸をつけた。お腹が減っていたのは事実なので、どんどん口に運ぶ。ぜったいにこの米、良いやつだよな。つやつやしているし。ふっくらで美味しい。あ、炊飯器か? めちゃくちゃ高価な炊飯器で炊いてるとか。
そんなことを考えながら無心で食べていると、藤間の視線に気づいた。
「な、なに……?」
すごく微妙な顔をしている。
「おかず、食べないんですか?」
藤間の言葉にぎくりとする。
「肉、食べられない。Ωだから……」
意を決して、そう口にした。
バース性を他人に明かしたのは初めてだった。誤魔化すことは出来たかもしれないけど、そうしなかった。
「Ωだと、肉を食べられないんですか?」
藤間は、特に驚いた様子はなかった。引っ掛かっているのは俺がΩだということではなく、肉を食せないという点のようで。
「個人差はあるけど。俺はヒートが軽くて、抑制剤とか薬の相性も良くて。でも、肉類を腹に入れると気持ち悪くなる……」
ヒート。抑制剤。その単語を口にするだけで、少し震えた。
顔を上げると、藤間は難しい顔をして黙っていた。目の前には、大量の肉料理。
「ごめん。せっかく作ってくれたのに。美味しく食べることが、できなくて……」
自分で言ってから、もの凄く悲しくなった。そうか、俺は。藤間と同じ美味しいを共有することが出来ない。
食べるものが違う。同じ人間なのに。
「何か、俺たち別の生き物みたいだな」
泣く寸前みたいな声だった。
視線を落とすと、自分の左右の手が目に入った。ひどく緊張しているときみたいに、ぎゅっと固く両手を握りしめている。
それを、大きな手が包む。
「そんなことないです」
「いや、やっぱり違う。だって、こんなにも手の大きさが違う。藤間の手、大きいなぁ……」
ずっと、見ていた手。長くてきれいな指。自分とは体温さえも違った。温かい。とても。
「肉以外なら、食べられますか……?」
俯いた俺と目線を合わせるように、藤間が小さく屈む。
「魚とか、いや、今うちに魚はないな……。卵とかどうです?」
「うん、大丈夫」
俺が頷くと、藤間はにこっと笑って立ち上がった。
小さめのフライパンに油を垂らし、藤間が卵を割り入れる。
長い指先が器用に卵を割る瞬間を、俺はじっと見ていた。
「香椎さんは、目玉焼きどうやって食べますか。塩? 醤油? ソースもありますけど」
「醤油」
きれいに焼けた目玉焼きと醤油の入った小瓶がテーブルに並ぶ。
「どーぞ」
「あ、ありがとう」
箸の先で、黄身の部分をトントンと叩くように確認する。あ、半熟だ。慎重に黄身に箸を入れ、その部分に醤油を垂らす。
ふいに、向かいに座る藤間がくすくすと笑っていることに気づいた。
「な、なに……?」
「いや、嬉しそうに黄身を見てるので」
「……ちょうど、好きな黄身の状態だったから」
とろっとした黄身と醤油。それをごはんと一緒に食べるのが好きだ。
「醤油を慎重に垂らしてる姿でさえ、可愛いです」
「可愛くない。万が一、俺が可愛かったとしても上司だから。上司にそんなこと言うなよ」
目玉焼きとごはんを口に運びながら、藤間に文句を言う。
「香椎さんは世界で一番可愛い人ですし。それに、今は上司とか部下とか関係ないです。関係ないつもりで部屋に呼びました」
いつもより若干、声が低くて腹の奥がじんと重くなる。なんだこれ。というか、藤間って真顔になると迫力あるな。
「香椎さんは、部下の部屋に来たんですか?」
人懐っこい笑顔が消えた藤間の表情は、怖いくらいに真剣だった。
「わ、分からない。他人の家とか、初めてだし……。でも、俺はΩで。αの家に来たっていうことだけは分かってる」
一ミリも恐怖がないと言ったら嘘だ。
「お、俺は、お前じゃなかったら、ついて行ってない……」
意識すると、余計に怖くなった。
「震えないでください。取って食ったりしません」
藤間に言われて、箸を持つ自分の手が小刻みに震えていることが分かった。
「目玉焼き、冷めちゃいますよ」
促されて、残りを平らげた。美味しかったはずなのに、もう味が分からなかった。ドキドキとビクビクで。藤間には、たぶんこの感覚は分からないと思う。
藤間は、捕食者の側だから。
「俺がαだってこと、知ってたんですね」
「……なんとなく。藤間もだろ? 俺がΩだって打ち明けたとき、驚いてなかった」
「初めて会った時、とても良い匂いがしました。理性を保てないほどじゃなかったけど、なんていうか。ちょっと、抗い難い欲求が沸き上がりました」
「……匂いとか、初めて言われた。俺、抑制剤との相性がすごく良いから」
どんな匂いなんだろう。自分の匂い。なんか、すごく恥ずかしい。
「香椎さんに気に入られたくて、仕事だってすごく頑張ったのに。それなのに、俺以外のヤツに笑いかけちゃうし」
藤間が拗ねた表情を見せる。
「すごく悔しかったから、俺にも笑って欲しくて。どんな手を使おうかなって思案してたら、お腹を空かせた香椎さんがおにぎりを物色してたんですよ。もう、これは連れて帰って美味しいものを食べさせるしかないなって」
そんなことを考えていたのか。
「それなのに、空回りました。俺、香椎さんのこと何も知らなかったんですね。肉がダメとか、想像もしてなかった。毎日、テイクアウトのおすそ分けをしようとしてたのも無駄な努力でしたね……」
そう言えば、暴力的なほど肉々しい弁当を俺にすすめていたっけ。
「何で、俺にくれようとしてたの?」
「笑った顔が見たかったから」
「……うん?」
意味が分からない。
「だって、美味しいもの食べたら誰だって笑顔になるじゃないですか」
むすっとしながら、藤間が言う。
「美味しいもの食べたら笑顔って……俺は、そんなに単純じゃない」
子供じゃあるまいし。
「でも、さっき目玉焼き食べてたとき、にこって笑いましたよ」
「え?」
「幸せそうな顔して、もぐもぐしてました。すっごく可愛かったです」
カッと頬が熱くなる。恥ずかしい。けど、めちゃくちゃ美味しくいただいたのは間違いなかった。
「……藤間も食べろよ」
「香椎さんといると、胸がいっぱいで食べられないです」
なに言ってんの。乙女かよ。
「俺にも食べるところ、見せろ」
そう言って圧をかけると、藤間は小さく「はい」と頷いてから、スペアリブに手を伸ばした。
豪快にかぶりつく姿に見惚れる。ぐっと歯を立てて、骨から身を剥ぐようにして食べる藤間を見にゾクリとし悪寒のようなものを感じた。不快じゃない。ゾクゾクして、ドキドキする感じ。
藤間の犬歯は、もの凄く発達していた。αの特徴で、藤間は特にそれが顕著らしい。
「……凄く美味そうに食べるな」
咀嚼して、ごくりと肉を飲み込んでから、真剣な顔で藤間が俺を見据える。
「肉がダメなのって、腹に入れなきゃ問題ないですか? 少しでも……たとえば、肉を触った手で触れるのとかもNGだったりします?」
「そういうのは、ない。平気だけど?」
質問の真意がよく分からない。けど、藤間は明らかにホッとし顔をしていた。
「良かった。じゃあ、たとえば今。肉を食った口でキスとかしても問題ないってことですよね」
へ? き、きききす?
呆然としている俺を見て、藤間が楽しそうにくすりと笑う。怖いくらいに魅力的だ。俺が知ってる天真爛漫な笑顔じゃない。まるで、獲物に標準を合わせているみたいな目で俺を捉える。
「俺と付き合ってください」
「つ、付き合うって……! 俺とお前は、ぜんぜん違うし……!」
「人間、皆それぞれ違いますよ」
「年、けっこう離れてる……」
「気にならないです。香椎さんは年下の男は嫌ですか?」
「ど、どうだろう……? 考えたことないから、よく分からないかも」
圧倒的に押されている感が自分でも分かる。
「お、俺。藤間と同じもの食べられないよ。同じものを、美味しいって思えない……」
それって、凄く悲しいことだと思う。
「俺も、目玉焼きが好きです」
「うん?」
「塩でも胡椒でもソースでもなく、醤油で食べるのが好き。香椎さんと同じ」
距離を詰められ、肩を抱かれる。
「誰にだって、好き嫌いあるじゃないですか。違うところを探して悲しくなるより、同じ好きを 数えていったほうがいいと思うんです。これから、俺に、あなたの好きなものを数えてくれますか」
小さな子供を諭すみたいに、優しく甘い声で囁く。
「う、うん……」
俺は、肩を抱かれながら小さく頷くことしか出来なかった。これじゃ、どちらが年上か分からない。
「大事にします」
「お、俺だって。大事にする」
一方的に守られるのは違う気がする。俺は、俺の意志で藤間と付き合う。付き合う相手は、大事にするものだ。……と思う。付き合った経験がないから、分からないけど。
「俺、誰かと付き合うとか初めてだから。いろいろ面倒かけるかも……。呆れたりとかしないでもらえると嬉しい」
初めに自己申告をしておく。そのほうが良い気がする。
俺の肩を抱く藤間の手に力が入った。もう片方の手で顔を覆っている。めちゃくちゃ息が荒い。どうかしたんだろうか。
「藤間……?」
「いえ、ちょっと。落ち着こうと思って。深呼吸をしてます」
「そうか」
両手でぎゅっと抱き締められる。むちっとした筋肉に包まれて「おぉ」と感動する。抱き締められると、こんなに心地良いのか。
「筋肉、育ってていいな。俺は頑張ってもこれが限界みたいで……。な、俺のはだか見てもがっかりするなよ? めちゃ細いから。細マッチョの域を出ないとか言われてるから」
「……誰に言われたんです?」
地を這うような低い声。
「ジム仲間の女の子」
「俺もそのジムに入会します」
え? 何で?
「もうこんなに筋肉ついてんのに? 必要あるか?」
俺は抱きすくめられながら、藤間の背中と脇腹をさわさわと撫でる。
「ちょっと、勝手に触らないで。いろいろ、初めてだとアレだし、あぁ、もう……!」
藤間は、半泣きになってしまった。どうしてだろう。なんだか、肉食獣というより大型犬みたいだ。飼い主には逆らわないとても良い子。後頭部を撫で撫でしながら、この子が俺の恋人なのか……とまたしても感動してしまった。胸がじーんとする。
怖かったはずなのに、怖くない。大事な子を、これからいっしょうけんめい大事にしようと、俺はぎゅっと藤間の体を抱き締め返しながら思った。
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