(上)事実

11/18
前へ
/19ページ
次へ
 「怪しい人? いや、見てないけど‥‥‥」  白いワンピース姿の少女は、自転車の空気を入れながらにべもなく答えた。名前は北条美沙都(ほうじょうみさと)といった。  「あれ? それは、おかしいな‥‥‥」  彼女に聞こえない程度に、僕は呟く。そして助けを求めるようにゲラを見た。  あれからまもなく救急車が到着し、彼らは病院へ搬送されていった。そして現場に取り残された僕らは、本格的にこの事件の捜査を始めることとなったのである。正直言えば、あとのことは事情を聞いた警察官たちがやってくれると思うのだが、ゲラが目を輝かせて辺りを物色し始めるものだから、仕方なく僕も捜査に参加することになったのである。  しかし、それがこの体たらくだ。  「誰も‥‥‥ここを通ってない?」  ゲラが目を見開いて訊き返すと、彼女は当然のように頷いた。彼女にとっては何の疑いようもない事実なのだろうが、こちらにとってはとうてい受け止められない事態であった。  何せ、ひき逃げ犯の唯一の逃走経路であるはずの駐輪場を、誰も通っていないと言うのだから。それも駐輪場の出口に長らく滞在していた人物が、である。  「ゲラさん、これ、どうなってるんですかね?」  「あ、言っておくけど」北条さんが口を挟む。「あたし、視力だけは確かだから。絶対に、あたしがいる間、駐輪場から出て行った人はいないよ」  「ははーん」  そこでゲラがそんな変な声を発した。見ると、彼は顎に手を当て、自慢げな表情である。まさか、今の台詞がかっこいいとでも思っているのだろうか。  「なんですか?」  「北条くん、君が犯人だね?」  「は?」  「は? ‥‥‥え、何の?」  北条さんの戸惑いようで彼女の潔白は明らかだったにもかかわらず、ゲラは続ける。  「そりゃあ、君以外に犯人がいないからさ。今、君はここを誰も通っていない、と言った。墓穴を掘ったな」ゲラは北条さんの周りを歩き出す。「君は自転車を修理しているようだが、なぜそんなことをしているのか、ずっと気になっていたのさ。そこで、ひとつの真相にたどり着いた。そう、あの二人を轢いて逃走したのは、君だったのさ。そしてそのときに壊れた自転車を——」  「げ、ゲラさん。彼女、引いてます」  あまりに支離滅裂な推理に、思わず僕が止めに入った。犯人に仕立て上げられた北条さんは、ぽかんと口を開けて、呆然としているようだった。  まったく、恥ずかしいところを見せてしまった。  「あはははは。勝吉くん、残念ながら現実はこんな物なのだよ。ミステリの見すぎで、名探偵を憧れすぎるのは——」  「それはあなたの方ですって!」まあ、否定はできないが。「まあ、それはともかく、その推理は矛盾しています。そもそも北条さんが犯人なら、自分に不利になるような発言をするわけないじゃないですか」  僕も僕なりの推理を披露し、少しばかり快感を覚えた。  「そうか‥‥‥」ゲラはふっと笑った。「ぼくとしたことが。少し早とちりしてしまったようだ。北条くん、すまなかった」  「あ、うん。で、犯人ってなんの——」  「勝吉くん、行くぞ」  「行くって、どこにですか?」  「もちろん、彼らのいる病院に決まっているじゃないか。連絡は取ってある」  「はあ‥‥‥」  なおも訝し気に僕らを眺める北条さんを置いて、ゲラが歩き出す。  そのタイミングで、僕の頭の中にとある考えが浮かんだ。  この駐輪場はL字型になっていて、入り口からは出口が見えないし、出口からも入り口が見えない構造になっている。つまり、出口側にいた北条さんが誰も目撃していないからと言って、犯人がこの駐輪場に足を踏み入れていない、とは言い切れないわけだ。  つまるところ、例えば犯人が駐輪場の壁をよじ登って逃走した可能性も十分に考えられるわけである。  「どうしたんだい、勝吉くん」  「ゲラさん、ちょっと聞いてもらいたいんですが」  僕が先程思いついた推理を告げると、彼は「面白い発想だ」と気持ち悪い笑みを浮かべた。  「じゃあ、壁の外を確かめてみようか」  「はい」  僕は適当に目に入ったところの壁を、何とかよじ登ってみた。  「どうだい?」  しばらく景色を眺める。そこで目に入ったのは、一面に生えたヒイラギの葉だった。ヒイラギは葉の周りが鋭くとがっているのが特徴である。  こんなとげとげしい場所を、とても通ろうとは思えない。 「駄目です。ヒイラギの葉が生い茂っていて、もしここを通ろうとするならば血だらけになるのを覚悟しないと」 一応調べてみたところ、駐輪場の周りは出入り口以外、すべてがヒイラギの葉に囲まれていた。念のため注意深く観察してみても、人が通った跡もないようであった。  犯人は壁をよじ登って逃げていない。僕の推理は見事に打ち消された。  これで、現場は完全なる密室となった。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加