(上)事実

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 「やあ、伊知郎くん、調子はどうだい?」  二人の入院している病院にて。  ゲラは島本さんの病室に入ると、開口一番そんな馴れ馴れしい言葉を吐いた。  それに対して漫画本を読んでいた島本さんは、冷めた目でゲラを見つめる。やがて、大きなため息を吐くと、言った。  「背中の骨にヒビ。両足の骨折。最悪ですよ‥‥‥」  「なるほど。それは災難だったねー。ところで、さっきから何を読んで——」  「あっ、ちょっと!」  そこで僕は素っ頓狂な声を上げた。  ゲラがいきなり島本さんの読んでいる漫画につかみかかったのである。それに対して島本さんの方は見事な反射神経でそれを華麗に往なしたかと思うと、きっとゲラを睨みつけた。  「触らないでください!」  「あ、ごめん」  ゲラは驚いたように目を見開いてから、惨めに頭を下げた。いつも飄飄としている彼の浅ましい姿を見て、僕は思わず吹き出しそうになる。  「ったく‥‥‥で、なんの用ですか?」  島本さんはそう言いながら勢いよく本を閉じると、それを傍らのテーブルに置いた。そこで、彼が読んでいた本の表紙が露わになる。彼が読んでいたのは、『名探偵コナン』であった。彼も意外とミステリ好きか。  「具体的に事件についてお話を伺いたくて‥‥‥」  僕が答えると、彼は僕を一瞥してから、「へえ‥‥‥」と呟く。  「なんでそんなことをしているんですか。警察でもないのに」  いかにも興味がなさそうに言いながら、島本さんはスマホをいじり始めた。  「それは、こちらの彼がわあわあ騒ぐもので‥‥‥」  「ちょっと勝吉くん、ぼくを子ども扱いしないでくれよ」  実質、彼の考えることは幼稚である。しかし僕はあえてそのことは指摘せずに、「すみません」とおざなりに謝罪しておいた。  「それで、自転車に轢かれたとのことですが、具体的に犯人の特徴などは‥‥‥」  「子供でしたよ」  「子供?」  「ええ。あまり覚えてないけど、自転車に乗った少年が、俺たちを轢いて逃げていきやがった。あの背の高さからして、小学生くらいのガキでしたよ」  「なるほど」  僕はそう言いながら、小説のアイディア集めに使っているメモ帳に情報を書き留めた。もし本当に犯人が子供ならば、下り坂ではしゃいでいたときにバランスを崩して、誤って彼らを轢いてしまったのだろうか。しかしながら、どんな理由であろうと、普通謝罪くらいはするものである。  僕はそんな臆病な犯人に、無性に腹を立てた。  「いい情報をありがとう」  そんな中、ゲラは下手な作り笑顔で島本さんにそう言い残すと、そのまま病室を去っていこうとする。  「あ、島本さん、ありがとうございました。お大事に!」  「あ、はい」  僕は島本さんに一礼をしてから、ゲラを追いかけた。  「次はあのおばあさんの病室だ。勝吉くん、これは面白くなってきたぞ。そう思わないかい?」  「ずっと思っていたんですけど、これっていわゆる——」  「密室だよ! 現実ではありえないようなことが実際に起こったんだよ! この気持ちが分かるかい?」  「ええ、もちろん、分かりますとも」  僕も確かに興奮はしていたが、ゲラの興奮しようは、僕をはるかに凌駕しているようだった。顔を紅潮させ、これ以上開かんばかりに瞳孔を見開いているのである。それには、彼の果てしないミステリへの愛が感じられた。  「いやぁ、本当にこれは現実なのかな」  そんなことをぼやきながら頬をつねるゲラをよそに、僕は目の前の扉をノックした。  「ほら、光山さんの病室に着きましたよ」  光山さんのことは年齢のこともあり僕もそれなりに憂慮していたが、怪我は頭の軽い出血だけで大事には至らなかったようだ。  「あら、わざわざ来てくれたのね」  彼女も、そう笑顔で受け入れてくれた。  「具合はどうです?」  「この通りピンピンよ。あれ? そういえばあなた、どこかで見かけたことがあるわね」  すると光山さんは、僕をまじまじと見ながらそんなことを言い始めた。  「え、僕?」  「そうよ。あ、さては江戸川喫茶の常連さんでしょう?」  「もしかして光山さんも?」  「どおりで見覚えのある顔だと思ったわ」  江戸川喫茶の常連なんて僕程度だと思っていたが、まさかこんなところで出会うことができるとは思ってもいなかった。彼女の顔を見てみると、確かにこの皺くちゃな顔にはどこか既視感があった。  そこでゲラが割って入る。  「ところで光山さんは、あのD坂で何をしていらしたのですかい?」  「ちょっと近所の友人のところへお茶しに行ってね。その帰りだったのよ。いやー、災難だったわ」  「ところで、あなたを自転車で轢いた犯人の特徴は覚えていらっしゃいますかい?」  「うーん、ちょっと待ってね」光山さんはそう言って目を瞑る。そして閃いたように見開いた。「確か、男の人だったわ」  「やはり」  証言の一致に、僕は頷く。彼女は続けた。  「曖昧だけど、確か背が高くて、立ちあがれば百八十センチはありそうだったわ」  「え?」  僕が声を上げるも、  「続けてください」  と、面白がるようにゲラが言う。  「それで、口ひげを生やしていたかしら。年齢は‥‥‥六十歳くらいね。もしかしたらもっといっていたかも。とにかく、ダンディな老人だったことは覚えているわ」  「ろ、ろろ、老人‥‥‥」  島本さんの真逆の発言に、僕は言葉を失った。  島本さんは犯人が少年だったと証言した。一方、彼女の方は犯人は老人だったと証言したわけだ。しかも背の高さもまるで違うようである。  「光山さん、それは確かですかい」  「ええ。私、視力だけはいいんだから」  その台詞に既視感を覚えつつ、納得のいかないまま僕らは病室を暇することとなった。  「ゲラさん」  「どういうことだろう?」  「だってあり得ないですよ。島本さんは、犯人は子供だって言ってたのに‥‥‥」  「まあまあ。しかし、まるで『D坂の殺人事件』の世界に入ったみたいだとは思わないかい? 密室に加えて、証言の食い違いさ」  「そういえば、そうですね」  よく考えてみれば、舞台設定といい、密室といい、とにかくあの名作にシチュエーションが酷似しているではないか。  「明智小五郎(あけちこごろう)なら、どう答えるか‥‥‥。あ」   そこでゲラが声を上げる。  「なんですか?」  「どうやら、島本さんの家族が来たようだよ。行ってみよう」  「はい?」  ゲラは目の前の病室に屯する数人に向かって走る。そこは確か、島本さんの病室だ。つまり、あそこにいるのは島本さんの家族、か。  「すみません。島本さんのご家族ですかい」  「はい、そうですけど‥‥‥」  答えたのは島本さんの母と見られる人だった。  「息子さんは、自転車をお持ちですか?」  「‥‥‥そりゃあ、持ってますけど。何が言いたいんです? というか、誰なんです?」  「分かりました。失礼」  「ゲラさん、あれはさすがにまずいですよ」  「何がだい?」  「まあ、いいです。だんだんゲラさんの意図が見えてきましたよ。あなたは、口裏合わせを疑っているんですね? つまり、島本さんと光山さんが、共謀している」  「そんなこと疑ってはいないさ。現に、彼らはまったく口裏を合わせていないじゃないか。彼らは共謀なんてしていないさ」  「まあ、そうですね」  確かに二人が共謀しているなら、あんなあり得ない証言の食い違いが起こるはずがない。僕は彼の推理に納得した。  「僕が考えたのは、もっと別の可能性だよ」  「別の可能性?」  「ああ。光山さんのところへ戻ろうか」  「また、ですか?」  「確認を取るだけさ」  結局、僕らはまた光山さんの元へ戻り、ゲラは島本さんの家族にした質問とまったく同じ質問を光山さんに問いかけた。結果、光山さんは自転車を持っていないし、そもそも漕げないということが判明した。  そしてそれを聞いたゲラは、勝ち誇ったような笑みを浮かべるのだった。  「どうしました?」  「Mysteries are solved(謎が解けた)」  そして彼は、無駄に流ちょうな英語でそう吐くのだった。
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