(上)事実

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 「これは、実に簡単なトリックだよ」  「それで?」  再び江戸川喫茶の店内。僕らはともに窓の外を眺め、語り合う。  「駐輪場に逃げたひき逃げ犯。しかし出口にいた北条くんは、誰も見ていないという。この推理のポイントは、北条君は、あくまで駐輪場の出口にいたということだ。駐輪場はⅬ字型になっている。つまり、出口から入り口は見えないんだ」  「何が言いたいんです?」  僕が迫ると、ゲラは実に高揚した様子でコーヒーを啜り、口を開く。  「つまりは、駐輪場に誰も入っていない、とは言い切れないのだよ」  「しかし、駐輪場に入ったとしても、出口を通らなくては逃げられないじゃありませんか」  「それが、犯人はどこにも逃げていないのだよ、勝吉くん」  「え?」  「犯人はずっと、我々の目の前にいたんだ。ひき逃げ犯は、島本くんだよ」  「‥‥‥へえ」  核心に迫った表情で言うので、てっきり『犯人は君だ!』などと言い出すのかと思ったが、割と平凡である。  「‥‥‥え? 驚かないのか?」  一方ゲラは、まったく驚かない僕に驚いたようである。  「いえ、予想の範疇だったので。ただ、もし彼が犯人なら、いろいろと矛盾が生じますが?」  「例えば?」  「まず、もし島本さんが犯人なら、当然光山さんと共謀しているということになるではないですか。しかしながら彼らに口裏を合わせている様子なんてありません。まるで互いに犯人を知らないかのように」  「あはは」  「それに、どうやって彼があの状況を作り上げたというんですか? 両足を骨折しているんですよ? それに自転車はどこに消えたんですか?」  「あははははははは!」そんな中、ゲラは狂ったような笑い声を上げる。「そんな反論、予想の範疇さ。一から説明しよう。  まず、彼らの証言の食い違いは、ただの偶然なのだよ」  「ぐ、偶然?」  ゲラが得意げに語るのを見て、どこか嫌な予感がした。  「君、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本を読んだことがあるかい?」  予想通りの展開になり、僕は思わず笑みを漏らした。  知る人ぞ知るミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』は、江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』で明智小五郎が引用している文献である。  ここで記述されていることをざっくり説明すると、事件に遭遇した関係者がその現場の状況や、犯人の特徴について、それぞれまったく別の証言をするということがあった、という内容である。これらの記録は、人間の観察力や記憶力など、実に頼りがないということを示しているという。  「つまり、ゲラさんは彼らの証言が食い違ったのは、ただの偶然で説明がつくと言いたいんですね」  「そういうことだ。話が早いね」  「『D坂の殺人事件』にまるまる載ってありましたからね」  「ああ‥‥‥そうか」少し恥ずかし気に顔を赤らめる。「まあ、いいだろう。しかし、これで一つ謎が解けただろう。二人の証言の食い違いなど、何ら不思議なことではないのさ。何せ、この世には不思議なことなど——」  「何もないのだよ。京極堂(きょうごくどう)の言葉ですね」   これは京極夏彦(きょうごくなつひこ)の百鬼夜行シリーズに登場する、京極堂の有名な台詞である。  「なんでそんなことも知っているんだい!」  「言っておきますが、僕はゲラさんよりもミステリに詳しいと思いますよ」  「何だと!」ゲラは怒りかけるが、我に返って咳払いをした。「失礼。まあまあ、推理力はぼくに劣るようだけどね。とにかく、続けよう。  現場は密室。犯人の逃げ道もないのだから、ぼくは真っ先にあの二人のどちらかが犯人だと確信したね。そして二人から一人に絞った根拠は、ただ島本くんしか自転車を持っていないからだよ。 さて、ここまで言ったところでトリックの説明をしようではないか。 普通に考えれば、島本くんは光山くんを轢き、気付かれないように自転車を戻し、自分も被害者を装って倒れた、という可能性が一番高い。しかしながら、そのときの島本くんに自転車を駐輪場まで運ぶことは不可能だった。なぜなら君の言う通り、彼は両足を骨折していたからね。しかし、問題なのは島本くんが骨折していたことだよ。なぜ人を轢いただけの彼が、両足を骨折し、背中の骨を損傷する怪我をしたのだろう」  「それは‥‥‥」  島本さんが一人の老人を轢く姿を想像する。自転車のブレーキが利かず、勢い余って人を轢いてしまう。そこでなぜ島本さんまで怪我をしたのか。  「落ちたのだよ。自転車から」  「あー!」捻った発想に、僕は唸る。「しかし、島本さんがバランスを崩して自転車から落っこちたとして、その自転車はどこに消えたんです?」  「もちろん、駐輪場さ。いいか、聞いて驚かないでくれよ。  ずばり、考えられるのは、」  「そ、そんな馬鹿な!」  奇想天外な推理に、僕は思わず叫んだ。 つまり、島本さんが落っこちた自転車がそのまま意思を持ったかのように自走し、仕舞いには偶然駐輪場に駐輪したというのか。  いくら事件現場が下り坂だったとしても、ゲラの奇抜な推理はとうてい受け入れられるものではない。  「ありえないことを除外した後に残ったものは、どんなに信じがたくても事実である」  「‥‥‥ホームズですか」  「分かったか。これが事件の真相だよ。  犯人は島本伊知郎。証言が食い違ったのは偶然。光山くんが、島本が犯人だと気づかなかったのは、状況からして十分考えられることだ。何せ、彼女を轢いた自転車は運転手不在のまま走っていったんだからね。駐輪場の出口付近にいた北条くんがその存在に気づけなかったのも当然だろうね」  「‥‥‥」  そんな‥‥‥あり得るはずがない。不可能だ。しかし、それはあくまで僕の直観の話であり、理論的には起こりうることなのだろう。  僕には、目の前の男の決め顔を黙って眺めることしかできなかった。  その後、ゲラことゲラルドゥス翁とは一度別れ、僕はもう一度駐輪場を見てみることにした。この推理の反証を探すためだ。  すると、面白いことが判明した。そう、この駐車場に停めてあった自転車すべてに鍵がかかっていたのである。まさか、自走して偶然駐輪できた自転車でも、自ら鍵を抜くことなどできないだろう。つまりは、このゲラの奇想天外な推理も、完全に破綻したのである。  こうして新たな答えを求めるため、僕はあの天才である、風神風吹のもとへ訪れることになったのだ。
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