(上)事実

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 「つまり、ミステリっていうのは伏線に特化したジャンルなわけさ。わかるかい?」  ゲラルドゥス翁は艶のある金髪を肩まで流した、いわゆるナルシシストだった。しかしながら、僕が初め彼と会ったときは、切れ長の目や、裂けた口から覗く尖った犬歯という姿からまるで吸血鬼のようだと感じたのを覚えている。  「はい、ええと」僕は頭の中で、ゲラの言いたいことを咀嚼する。「つまりは、伏線はどの小説にもある、と。そしてミステリではあえてその伏線に重点を置いていて、〝伏線〟を〝謎〟へ変換させることによって、伏線を論理的に帰結させているわけですね」  「そういうことだ」僕が適当な単語を並べると、彼は大きく頷いた。「ミステリは、根菜類のようなものだ」  「こ、根菜類?」  あまりに珍奇なたとえに、僕は聞き返した。彼は髪を華麗にはらって、キザなポーズを取ると口を開く。  「根菜類は、根を膨らますんだ。伏線という名の、根をね。そして、その肥大化した部分を、我々が頂くんだ。分かるかい?」  「ああ‥‥‥」十秒ほど、天井を眺める。「いや、分からないです」  「‥‥‥」僕の返事に、ゲラは笑顔のまましばらく固まった。「まあ、いいだろう。ミステリの定義についての話は終わりだ。次に、何について知りたいかい?」  正直、彼よりも僕の方がミステリには詳しい気がする。つまるところ、ミステリで彼から教えてもらいたいことなど、残念ながら全くない。  「あのー、ゲラさん。話題変えましょうよ」  話の面白くなさに耐えられなくなり、やがて僕はそう口にした。  「わ、話題を変える? ミステリの話からかい?」ゲラは突如鬼の形相へと顔を変え、さらに僕を心配そうにのぞき込んだ。「具合が悪いのかい? それなら‥‥‥」  「‥‥‥」そうなってくると、彼が可哀想に見えてくる。「分かりましたよ。じゃあ、続けましょう。それなら、ミステリの定番の、密室殺人とかどうです?」  彼は人を変えたように満面の笑みに変わった。まったく、単純な男だ。  また、僕は彼を『案外面白い』と前述したが、それは決して会話の内容が、というわけではなく、この馬鹿を絵に描いたような彼の存在自体が面白い、ということだ。例えば、このように笑ってしまうほど単純なところだ。  「密室殺人、か。この喫茶店の名前にぴったりの内容だね。まず、密室殺人はエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』が起源だ」  「はい」  「さらにすごいところはだね、勝吉くん。ミステリの起源もまったく同じなことなんだ。つまり、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』っていうのは、世界初のミステリ小説であり、世界初の密室殺人を扱った小説なのさ。ということはだね、そもそもミステリという概念が存在しない状態で、ポーはさらに密室殺人という一つのジャンルを作り上げたというわけだ。これって、すごいことだと思わないかい?」  「そう考えたら、そうですね」  確かに彼の言う通り、ミステリすら存在しないにもかかわらず、さらにその存在を超越して密室殺人を扱うというのは、かなり凄いことなのだろう。  これは確かに面白い事実だが、しかしながら彼が話すとどうしても面白さが劣化してしまう気がした。  「つまりは‥‥‥」  まだ続けるのか、と僕は呆れて、彼の顔から窓の外の光景に視線を変えた。  今朝の通勤ラッシュから明けて、ちょうど人通りも少なくなってきたころである。確かに五分ほど見ていても、窓の前を通る人はせいぜい二、三人程度だ。  彼の退屈な話を聞いているくらいなら、こうして外を眺めている方がよっぽど興味深い情報が手に入るだろう。なんならこのD坂で、密室事件でも起きてしまえばいいのに。  そう思ったときだった。  窓の外を、とてつもなく素早い何かが走り去った。  「ん?」  思わず声を上げる。  「どうしたんだい?」  「あ、いや、なんでも」  ゲラが話を続けようとするが、その窓を通り過ぎたものが気になって仕方がなく、僕の興味はさらに外に向かっていった。  あの一瞬の光景が、何回も脳裏をよぎる。あれはおそらく、自転車か何かだ。かなりのスピードがあった。あんなものが偶々通行人などに衝突してしまえば、ひとたまりもないだろう。  「‥‥‥というわけだ。さらに江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』も有名な密室モノの一つだね。D坂と言えば、文京区にある団子坂だが、実はそこに一度行ったことがあってね。知りたいかい?」  というように、何も知らぬ彼はその後も二、三分密室談義を呑気にし続けた。やがて、僕は山場のない単調な話に耐えられなくなり珈琲を一気に飲み干すと、勢いよく立ちあがった。  「知りたかあないですよ、ゲラさん」  「‥‥‥ん?」  呆然としているゲラを置いて、僕はさっさと会計を済ませ、手動のドアから外に飛び出た。  その瞬間、もわっとした熱気が体を包み一瞬にして体中から発汗する。今まで冷房の効いた場所にいたので、今が夏真っただ中であるということをてっきり忘れていた。  「ええと」  僕は額の汗を拭うと、あの影が走り去っていった方向をたどって、左に視線を向ける。こちらは下り坂になっている側だ。 そこで背後で扉が開き、ゲラも姿を現した。  「どうしたのさ?」  「‥‥‥あ!」  坂の麓では、鉄製の壁と屋根で囲まれた建物が、トンネルのようにぽっかりと口を開けていた。さらに奥にある賃貸マンションの住人が利用している、駐輪場である。 そしてその数メートル手前に、二つの影がアスファルトの上で伸びていた。  人が倒れている。  そう思った僕はすぐさま倒れた二人のもとに駆けた。そこへたどり着くと、僕は思わず膝に手をつく。これくらいの運動で疲れるとは、だいぶ運動不足だ。  倒れた人の正体は、一人が学生くらいの若者で、もう一人が白髪で頭を覆った老女であった。  「あ、髪が!」 あとから走ってきたゲラは、そこまで乱れてもいない前髪を慌てて整えている。  「大丈夫ですか?」  「いってぇ‥‥‥」  僕が声をかけると、若者が足を抑えながら、苦しそうに喘いだ。白のTシャツにかかったウェストバッグがボロボロになっていたが、彼は一応意識があるようだ。  次に老女の様子も伺う。薄手の服に身を包んだ彼女も、意識はあるようだった。  「何があったんだい?」  今までまるで興味がなかったゲラが、若者の傍にかがみこむ。  周りを見渡してみると通行人は一人もおらず、D坂に立っているのは僕らだけのようである。そんな中彼らは、今までずっとここでうずくまっていたのだろうか。  「‥‥‥歩いてたら、いきなり目の前から‥‥‥」若者は声を枯らしながら、懸命に喋ろうとする。「自転車だった。自転車が俺たちを轢いたんだ」  「自転車?」僕に思い当たる節があった。「あ! ゲラさん、あれですよ。窓をいきなり何かが通り過ぎたじゃないですか!」  やはり、あの猛スピードで走っていた自転車は偶然居合わせた通行人と衝突してしまったのだ。  「君、ぼくがミステリ愛を語っている間、窓の外を眺めてたのかい? けしからんね」  「いやそんなこと言っている場合じゃないでしょ!」僕はすかさずそう言う。「とにかく、救急車、呼ばないと。ゲラさん、携帯‥‥‥」  「今はマイハウスにある」  「何やってるんですか!」僕は仕方なく自分のポケットをまさぐる。空っぽだった。「あ、僕もだ」  そう言いながら、ゆっくりと倒れ込む二人に視線を向けた。それに気づいた若者は、「いや、持ってない」と首を横に振る。  「はぁ?」  一瞬、携帯の未所持率に、平成にタイムスリップしてしまったのかと不安になったが、当然そんなことあり得ない。  「あの、おばあさん?」  「‥‥‥はい?」  僕が言うと、老人がゆっくりと顔をこちらに向けた。そこには微かに苦痛の表情が浮かんでいるようだった。  「携帯、持っていますか?」  「そこのバッグから‥‥‥取ってくれ」  「ありがとうございます!」  僕は老女の傍らに転がっていたバッグからガラパゴス携帯を取り出し、通報した。  「さあ、諸君。もう安心したまえ。彼が通報してくれたようだ」ゲラがいきなりそんなことを言う。「さて、まずは名前を伺おうか」  「島本(しまもと)‥‥‥伊知郎(いちろう)だ」   「光山(みつやま)和代(かずよ)」  それぞれ、ゆっくりと答える。当然だが、青年の方が島本伊知郎であり、老女の方が光山和代である。  「自転車に轢かれたと言っていたね。それは、確かかい?」  「ああ、ホントだ」  「そうよ。いきなり飛び出してきて、私たちを容赦なく轢いて去っていったのよ! うっ‥‥‥!」  そう呻き声を上げると、光山さんは頭を押さえてうずくまった。ふと彼女の頭を見てみると、微かに血が滲んでいるようだった。  「と、とりあえずお二人は休んでいてください」    僕が焦って言い放ち、ゲラに顔を向ける。  「ゲラさん‥‥‥」  ゲラの顔からはいつもの笑みが消えていた。目を細め、坂の麓をじっと眺めているようである。まるで見えない敵を見ようとしているかのように。  あまりにキザな態度に、虫唾が走った。  「これは‥‥‥事件だ」  「‥‥‥知ってます」  「犯人は‥‥‥必ずいる!」  「‥‥‥分かってます」  至極当然のことを宣言してから、ゲラは坂下に向かって歩き出す。そのたびに無駄に艶のある彼の髪が後ろになびくのが癇に障った。  僕はそんなゲラの後ろ姿に冷ややかな視線を浴びせたあと、辺りを見回してみる。そこでとある重要なことに気づいた。倒れた二人の奥にあるのは、他でもない駐輪場である。  僕が目撃したのは、素早い何かが駐輪場の方向へ横切った瞬間だ。それが二人を轢いたひき逃げ犯だとするならば、その人物は二人を轢いたあと、どこに逃げたのだろう。  すぐに逃げられる場所とすれば、当然正面に見える駐輪場だろう。  そもそも、D坂であるものとすれば江戸川喫茶くらいで、それ以外の左右は生垣で塞がれている。  そこをよじ登って逃げること自体至難の業だが、仮にそこから逃げたとしてもその痕跡が残るはずだ。しかし見たところ左右の生垣には人がよじ登ったような痕跡がない。  だとすれば、犯人が逃げられる場所は正面に口を開けた駐輪場くらいしかない。犯人の確保もそこまで困難ではないはずだ。  僕はひとまず安心して、ほっと胸をなでおろした。  まさかこの事件が、あれほどまでに不可解な事件に発展するとは、思いもせずに。
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