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翌日、研究授業を終えて、覚悟を決めて旦那はやって来た。顔が青い。治療ユニットのイスに座ると、両の手を握りしめていた。先生が麻酔注射器を持つ。旦那の肩に力が入っているのが分かった。
あたしは、旦那の拳に手を添えた。あのとき、大丈夫ですよ、とか言ったかもしれない。
先生は、親知らずにしては簡単に抜けたよ、と喜んでいた。この先生、子どもっぽいところがある。
あたしは、治療ユニットの片付けをして、受付に行った。この歯科の先生、ケチというわけではないが、極力人員は少なくしている。よって、あたしは、受付業務も担当していた。
「ありがとうございました。いい年乞いて、歯医者は苦手で……。あの、春日さんの声かけで勇気づけられました」
「え、それはよかったです」
「あの……。もしよければ今度、お食事でもいかがですか?」
いきなりのお誘いに、あたしは絶句。そりゃあこの年だし、両親が黙っていないから、お見合いも何回かした。でも、オーソドックスだけど、このような誘われ方をしたのは初めてだったのだ。
今までのあたしなら警戒して、忙しいとか、いきなり言われても、とか言って、丁重にお断りをしただろう。でも、あのときのあたしは、軽い躁状態だったのだろう。
「はい。いいですよ」
と、返事をした。我ながら自分の行動が信じられなかった。
「じゃあ、また、このクリニックに電話します。お昼休みとかがいいですよね」
「はい。昼休みは、私はここで、お弁当を食べているので」
「分かりました。何か食べたいものがあったら、考えておいてください」
「はい」
あたしは、ときめいた。あのときのあたしは、確かに軽い躁状態だった。
翌日。
昼休み、先生や歯科衛生士は、外食をする。
だから、この時間、ここにはあたし1人。
電話が鳴った。
「はい、ニコニコ歯科クリニックです」
「あの、そちらに歯科助手の春日さんは、いらっしゃいますでしょうか?」
「あ、私です」
「春日さん、よかった。森田です。今、お話してもいいですか」
「はい。昼休みで私1人なので」
「昨日お誘いした、食事の件ですが」
「はい!」
こんなに早く連絡が来るとは思わなかったので、あたしはうれしかった。今ならスマホで連絡を取り合うところだが、あの頃はまだガラケーも普及していない時代だった。
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