空に舞い戻る雪

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空に舞い戻る雪

 窓の外に広がっていたのは、それはあまりにも異様な光景で、僕は思わず外へと飛び出した。空から降るはずの雪が、あろうことか、地上から空へと舞い戻っている。一面の銀世界が空に吸い込まれていく。  まだ子供だった僕は、眼前の奇妙なシチュエーションに大はしゃぎ。甲高い声をあげて走り回っていると、隣家の前に立つ人影を見た。 「誰?」  睨むようにして僕は人影に尋ねた。  そこに立っていたのは可憐な少女で、僕のことを気にするでもなく空を見つめていた。何かを乞うようにして空を仰ぐ少女。僕は彼女に駆け寄り、真似るようにして空を眺めた。  無言のまま彼女の気配を感じ、立っている。なぜだかその時間が、形容しがたいほど心地よかったことを、今でもはっきりと覚えている。 「隣の女の子? あぁ、あんた知らなかったっけか? かわいそうにねぇ。あの子、重い病気を患ってるのよ。雪が天敵だそうで。肺に(こた)えちゃうんだって。どうして年中、雪が降るこんな町に生まれてきちゃったんだろうねぇ」 「ふ~ん」 「隣の子がどうかしたのかい?」 「べつに――」  思春期に差し掛かったばかりの僕は、彼女に興味を持っているのを悟られたくなくて、ぶっきらぼうに答えてみせた。  地元の高校を卒業したあと、僕は上京した。東京の会社に就職が決まったからだ。  都会に出れば何かを手にできると思っていた。まだ見ぬ夢に出会えると信じていた。ところが、田舎しか知らない未熟な僕に、東京という存在はあまりにも異世界すぎた。人の多さ、時の流れ、空虚な空。やがてそれらは疎外感として僕を襲い、東京で生きる目的を奪い去っていった。 「おつかれさま!」 「お前がいないと寂しくなるよ」 「これからも活躍を期待してるよ!」  形式だけの送別会。こんな瞬間だけは、みんな上っ面の感情を披露し合いたいらしい。会が終わればまた、表情をなくし、無機質な歯車へと迎合していくくせに。  ただただ働くだけの毎日に疲れた僕は、少しばかり人生の休息をしようと考えた。会社を辞め、しばらく故郷に帰ってみよう。そう決心し、数年ぶりに実家へと戻った。 「すぐには東京に帰らんのでしょ?」 「まぁ、一、二週間くらいかな?」 「なにもそんな急かなくても――」 「そう言いながら、このままずっとここに居座ったりして」  苦笑いする僕を見て、「まぁ、ゆっくりしていきなさい」と、母が気遣った。  実家のぬるま湯に浸かりきった僕は、何をするでもなく、ぼうっと窓から外の景色を眺めていた。ただ、身を粉にするばかりで、生きた心地さえしなかった東京の日々に比べると、それは満ち足りた毎日だった。 「あっ!」  昨日と何ひとつ変わらない銀世界を眺めているときだった。目の前の雪景色が一変した。まるであの日のように。  気づくと僕は家から飛び出していた。粉雪も粗目(ざらめ)雪も、根雪でさえもが、解き放たれたように空へと舞い戻っていく。そして、心の奥底で待ち焦がれていた人が、視界の先には立っていた。 「ひさしぶり――――元気だった?」  彼女にそう言った僕は、思わず口をつぐんだ。彼女は病気を患っているんだ。元気なはずがない。  無神経な僕の質問とは裏腹に、彼女は優しく微笑んでくれた。 「一緒に東京に行こう」 「えっ?」 「雪のない場所で、僕と一緒に暮らそう」  僕は彼女の隣に立ち、あの日と同じように空を仰いだ。  あまりにも大胆な告白。奥手の性分からは似つかない暴挙に出たものだ。しかし臆するまい。答えを求めるようにして、僕は彼女の手を握った。するとそれに応えるように、彼女もその手を握り返してくれた。それは、はっきりと生きる目的が見えた瞬間だった。 『観測史上、最大級の寒波が明日、東京を襲います。不要な外出は控えるよう――』  東京では味わったことのない連日の寒さ。凍てついた空気が街を静まり返らせる。自然の猛威を知らせる警告が、ひっきりなしにテレビから流れていた。 「大丈夫! 天気予報は嘘ばっかりつくから」  彼女を安心させたくて、僕はおどけてみせた。  彼女に告白した次の日、僕は東京に戻ることを母に告げ、彼女と二人、東京へと向かった。彼女は両親をどう説得したのだろうか? 尋ねても答えてくれないので、特に触れないでいた。現にこうして彼女が隣にいる。細かいことはもはや気に病むまい。  彼女と共に時間を過ごせることが嬉しくてたまらなかった。活力を取り戻した僕は、新たな職場を見つけ、まるで別人のように精力的に働いた。  家に帰れば彼女が待っていてくれる。食卓に並ぶ料理は幸せの味がした。眠る瞬間も起きる瞬間もどれもが特別で。時間が過ぎることがこれほどまでに惜しいものかと、すべての刹那を貪った。 「眠れないの?」 「うん」 「大丈夫だよ。僕らはずっとうまくいく」 「雪、降らない……?」 「降らないよ。だってここは東京だよ」 「……そうだね。あの町とは違うよね」  ベッドの中、僕は彼女の身体をきつく抱きしめた。僕の体温で彼女の存在を守ってあげる。そう強く誓いながら僕は、彼女の髪から漂う甘い匂いにつられ、眠りに落ちていった。  目が覚める。  眠い目をこすりながら窓を一瞥する。  背筋に突き刺さるような痛み。  部屋を眺める。  もう一度、窓に目をやる。  信じられないほどの豪雪。  うそだろ? ここは東京だぞ?!  部屋へと視線を戻す。  掛け布団を引き剥がす。  ベッドから飛び出し、乱暴に視線をぶん回す。  トイレも、洗面所も、風呂場も、玄関も、クローゼットの中も、引き出しの中も、テレビの裏も、ベッドの下も、カバンの中も、靴の中も、全部、全部、全部。  彼女が消えた……。  雪のせいだ。  そんなはずがない。信じられるわけがない。彼女を見つけ出す使命感に突き動かされるまま、僕は部屋中をかき乱した。家にあるものすべてが放り出され、足の踏み場を失った床。積雪をかき分けるように、散乱した物たちを蹴り上げていった。  僕はベッドに潜り込むと、何度も彼女の名前を呼んだ。忘れたくても二度と忘れられないほど強く、何度も何度も。顔を埋める枕には、まだ昨夜の彼女の髪の残香(ざんこう)があった。 「異常気象ってやつかしらねぇ」 「そうかもね」  母が僕の部屋に越してきた。  悪魔のような雪はその後も降り続け、東京を真っ白に染めていった。やがて寒波は日本全土へと広がり、雪国の地域は生活ができないほどの大雪に見舞われた。積雪の重みは田舎の家屋を次々と押しつぶし、そこに住まう人たちは避難を余儀なくされた。もはや生きてはゆけぬ雪国から救い出すべく、僕は母を東京の部屋に呼んだ。 「実家、つぶれちゃうかな?」 「あんな狂った雪に耐えられるほど、丈夫じゃないからねぇ」 「隣の家は?」 「隣?」 「女の子が住んでた家」 「あぁ、あの子、亡くなっちゃったからねぇ。やっぱり雪国じゃ生きられんかったんやろうねぇ」 「え?! 亡くなった? いつ?」 「あんたが最初に上京したすぐ後くらいじゃなかったかねぇ。亡くなる寸前、『友達に会いたい……』って言ってたらしいわ。家の外になんか出たことがないから、友達なんているはずないのに――だって。不思議な話よねぇ」  地球温暖化による異常気象。雪が空に舞い戻るなんて、文字通りの異常事態だ。この天変地異は、僕らの行いを戒めるものなのかもしれない。空いっぱいに雪を吸い込み、それを大量に吐き出すことで、人類の歴史を白紙にでもするつもりか。  だとしたら、なぜ彼女は僕の前に姿を現したのだろう? いったい僕は誰を愛し、誰と時を過ごしていたのか? 幸せに満ち溢れたあの日々は、雪が見せてくれた幻影だったのか? いや、違う。紛れもなく彼女は僕が愛した人だった。温もりが、匂いが、手の感触がそれを証明している。彼女の存在すべてを。  雪の思い出になんかしてたまるか。  これからずっと僕は、窓から外を眺め、空を仰いで生きていくのだろう。この雪が、再び空へと舞い戻る日を夢見て。
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