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五
その夜、酒を飲みながら、
「こなたに勝つまでは、東洞院に行ってはならぬ。と千里に約束させるのじゃ。頼むぞ」
畠山古泉は頭を下げた。
千里は自分の部屋に去っている。あの後、古泉は酒肴の用意を調えてくれたのだった。雑仕女も下がらせて、部屋には二人きりだった。
「こなたのことも東洞院のことも知っておった」
古泉はにやりと笑って言った。驚く藤四郎に、
「フフ。種明かしは軒猿よ」
と聞いて、そうか、と合点がいった。
軒猿とは古泉、念道と相弟子の猿御前の弟子の名前である。
猿御前は女性である。齢八十を越した老婆と言われながら、矍鑠として江湖を渡っている。弟子は全て〈猿〉のつく名を名乗らせ、猿一族と称していた。弟子たちに接するには師のごとく慈母のごとくであるという。
猿一族の兵法は剣のみでなく、体術に優れているのが特徴であった。弟子中、特に軒猿は体術に秀でているが、さらに、走行、跳躍、穏形などの術にも通じていた。
「軒猿どのも京に居るのですか?」
藤四郎は軒猿と面識がない。
念道も詳しくは語らなかった。断片的な知識があるのみである。
「あやつは神出鬼没よ。もはや京にはおるまい」
軒猿は、各地の念流の兵法人との連絡役でもある。
「大師匠の三回忌では、楠木正勝から後南朝への助勢を頼まれたとか」
「念道どのから聞いたか」
「はい。ですが、詳しい事までは」
「確かに助勢を頼まれはしたが、皆の意見がまとまらず、一門としての行動は控えることとなった。ただし、それぞれの居る場所で、室町御所、朝廷、鎌倉御所、後南朝の動きに注視するとともに、特に猿御前は、後南朝の直系小倉宮を密かに守護することとなったのだ」
古泉は詳しく話してくれた。
藤四郎にとっては、初めて聞く話もある。
「万一のため、全国の念流一門の連絡を任されているのが、特に走行術に優れた軒猿なのじゃ」
藤四郎は肯いたが、京に行っても絶対に猿御前に近づいてはならぬ、と師念道から堅く戒められていた。
その理由がわかったような気がした。藤四郎が猿御前を訪ねると後南朝方の者と間違われかねないし、楠木正勝に乗じられかねない。
「軒猿から聞いたということは、われの今をご存じなのですか」
「知っておる。こなたが誰のところに食客しておるかもな」
藤四郎にみなまで言わせず、古泉は土器の酒をぐいと呷って言った。
「国阿派と一阿派の確執も存じておる。同門には一阿派に肩入れするものもいるが、わしと土岐どのは反対でな」
古泉はぽつりと言った。
土岐どのとは、土岐近江守のことである。古泉、念道と相弟子の関係にある。
「我らは互いに義満さまの奉公衆であった。高橋どのには恩義がある。いかに一阿派の浄阿弥が相弟子とはいえ、一方的に一阿派に肩入れするわけには参らぬのだ」
だが、藤四郎には解せないところがある。
「千里どのの仇は、高橋どのではありませぬか? 何故綾絹どのを仇と狙うのです」
「知らないのだ」
と、古泉は言った。
「真実を伝えた方が、よろしくありませぬか。仇呼ばわりされる綾絹どのも迷惑と存じますが」
「確かにその通りなのだが、実はわれの依頼なのだ」
古泉は困ったように言った。
「高橋どのは高齢で、すでに武林を引退している。われらは高橋どのに大恩のある身。ゆえにわれから頼んだのだ。それを承知で、綾絹どのも師のため一肌脱いでいるのだ」
駿河守は苦い物を飲み下したような表情を浮かべていた。
「このことは、千里には内緒にしておいてくれ。元々が兵法人として互いに納得の勝負。それに負けたからといって、仇呼ばわりは迷惑な話なのだが、千里はいっかな聞き分けぬのだ」
古泉もほとほと困り果てているようだ。
「しばらくは祇園から通うてくれ。長者どのには、わしの方から話をしておこう」
藤四郎は承諾するしかなかったが、いつかは千里に真実を話さなければならないだろう。
そのとき千里は、祖父に裏切られたと感じるのではないだろうか。藤四郎は暗い気持ちになったが、畠山家のことである。それ以上の言は躊躇われた。
「それと、わしも歳じゃ。息子を失って我が兵法も尽きようとしておる。最後にこなたに伝授する腹づもりである。覚悟をしておけ」
それは願ってもないことである。
「よろしくお願いいたします」
藤四郎は改まって頭を下げた。
「念道どのは、良い弟子をもたれた」
そう言って古泉は、呵々、と大笑したが、その声には力がなかった。顔も幾分寂しそうであった。
翌日から藤四郎は、畠山古泉の邸に通った。
午前中は古泉の教導を受け、午後は千里に稽古をつけた。だが藤四郎は、千里を弟子としなかった。
古泉への遠慮もむろんあったが、それ以上に、まだ弟子をとる技前ではないと思ったのである。従って、同門の兄弟子という形になった。
藤四郎の方が、歳が上なので、千里は藤四郎を〈師兄〉と呼び、藤四郎は千里を普段は名前で、兵法の改まった場では〈師妹〉と呼ぶことにした。だが千里は、
「師兄なんて堅苦しい呼び方は嫌。お兄さまでよろしいでしょう」
と言って聞かなかった。
終いには、藤四郎が根負けして、改まった場では、師兄と呼ぶことで妥協せざるを得なかった。
千里は藤四郎との修行を喜んでいるようだ。歳の近いせいもあろうし、それ以上に藤四郎の強さを認めたからだろう。約束通り、千里は五条東洞院へ行って、騒ぎを起こすことはなくなった。
藤四郎は剣に集中する日々を送った。古泉の修行は厳しかったが、充実に満ちたものとなった。
藤四郎の剣はさらに鋭く、速くなった。技も増え、気力もいっそう充実してきた。
千里も成長しているのは間違いない。剣先に鋭さが増して、ちょっとした武者では叶わないほどの技量は身につけたようだ。
だが同時に藤四郎は、千里に戸惑いに似たものを覚えていた。千里の目に藤四郎を慕うものを発見したからだった。それは妹が兄を慕うそれではなかった。
考えてみれば、一日の午後をずっと年頃の男と女が二人で過ごすのである。そうならない方が、おかしいというべきなのかもしれない。
藤四郎が畠山古泉の邸に通うようになって一月が過ぎた。だんだん千里の行動は、大胆になってきて、近頃は夕餉を共にしていけと言ったり、自分の部屋で二人きりになろうとする。
たまに二人きりになると、茶を飲もう、美味しい菓子が手に入った、となかなか離してくれない。
そんなときの千里はしおらしく年齢相応の娘だった。だが、通常の暮らしの中では、相変わらず気が強く、男勝りでもある。藤四郎は、その落差に驚きもするのだった。
修行の際も藤四郎が型を披露すると、木太刀の動きではなく、じっと藤四郎を見ていることがある。そのときの目は、あきらかにたおやかな乙女の目だった。
少しずつあからさまになっていく千里の行動に、藤四郎は複雑な思いを抱いていた。慕われていると分かっていて、悪い気はしないが、千里の想いを受け止めるわけにはいかないのである。鎌倉に想いを交わし合った女がいる。名を利恵といい、藤四郎の帰りを待っているはずであった。
藤四郎は、千里の想いを絶対に受け止めてはならない、と思うのだった。
その気持ちが千里に対して、つい邪険な態度になって出てしまうのだが、そのことが逆に千里の想いに火をつけているようでもあった。意地になっているのかもしれない。
(今頃、利恵どのはどうしていることだろうか)
千里とのことは、皮肉にも藤四郎に鎌倉の利恵のことを思い出させていた。
ある日、庭の枯れた木々を見ながら、濡れ縁に佇んで、利恵どのに会いたい、と藤四郎が強く思ったときだった。懐かしい女の声が聞こえてきたのは――。
「人を探しているのです」
それは懐かしさとともに恋しい女の声でもあった。
藤四郎は声のする方へ走っていった。
「利恵どの!」
恋しい女の姿を認めて、藤四郎は思わず叫んでいた。
「藤四郎さま」
返ってきた声、視線の合った顔、まさしくそれは上杉利恵のものだった。
白の水干、袴姿に侍烏帽子、姿は男装束だが、それは紛れもなくついさっきまで会いたいと願っていた女性に間違いない。
利恵姫の隣には、慈愛に満ちた古泉と訝しそうに、それでいて探るような感じの千里が並んでいた。後ろには従者であろうか、一人の若い侍が従っている。
痛いような千里の視線を感じたが、それ以上に藤四郎には、懐かしさが一気にこみ上げてきた。
「いつ、都へ?」
藤四郎は利恵のもとへ歩み寄った。
「たった今でございます。真っ直ぐ畠山さまのお屋敷に参ったのです。まさか、すぐに藤四郎さまにお会いできようとは」
利恵姫も久しぶりに会えた喜びで満ちている。
「はっはっは。立ち話もなるまい。まずは、邸に入られよ」
古泉が明るく言うと、はい、と二人は同時に返事をして、そのことに気恥ずかしさを感じつつも、互いに目を見合って、頬を染めた。
「良きかな。若さとは」
古泉は一人悦に入ったような言葉を発して邸に入った。
続いて利恵姫と藤四郎が中に入ったが、ふん、と露骨に鼻を鳴らして千里は、利恵姫の従者とともにそのまま去ってしまった。その背に、
「これ。利恵どのは、関東管領上杉安房守どのの妹御であるぞ。こなたも参れ」
古泉が呼びかけたが、千里は一顧だにしなかった。
藤四郎はその遣り取りに気づかないほど、利恵姫と会えた喜びに満たされている。
翌日から午後の稽古は、利恵姫を含めて三人で行うことになった。
三人で稽古するようになって、藤四郎は利恵姫と千里が似たような性格であることに気づいた。
むろん面立ちは異なるが、互いに武家では高貴な生まれである。そのうえ、兵法好きで、男装束を好むほど男勝りであった。当然のことながら二人とも気が強い。
歳は利恵姫の方が一つ上で、姉さん、千里さん、と呼び合ってはいるが、千里は利恵姫に対して遠慮がない。思ったことをずけずけと言ってくる。
それに対して利恵姫は、
「まだ、子供だから」
と、年上の余裕を持って接している。もしかしたら、食客の身であることも自覚しているのだろう。
磁石は同じ極同士であれば、互いに反発して容易にくっつかない。例えていえば、利恵と千里もそう言うことであろう。
今のところ年上の利恵姫の方が、我慢をすることが多いようだ。が、二人の間に漂う微妙な気の動きに、藤四郎はどうしたものかと、一人気を揉む日が多くなった。あまり激しくなると稽古に支障がでるのではないかと思う。
藤四郎がやきもきしている内に、早くも応永三十四年が暮れようとしていた。
古泉の屋敷に通うようになってから、藤四郎は祇園の長者への興味を急速に失っていった。
あれから長者もまた藤四郎を部屋に呼ぶこともない。古泉が話をしてくれたのだろうか。
そう言えば、心なしか、三郎四郎も以前のようには近づいてこない気がしている。藤四郎が必要としないからかもしれないのだが。
「年が明けたら我が屋敷へ越してきたらどうだ」
古泉から切り出されたのは、応永三十四年の暮れも押し迫った頃立った。
「そうなさいましよ。お兄さまがいっしょだと嬉しい」
屋敷に通うようになってから、千里もしきりに奨めていた。
藤四郎も越しても良いとは思うのだが、世話になった祇園の長者のことを思うとすぐに決心がつかなかった。
「その気になったら、わしから長者どのにはちゃんと話をしよう」
古泉からそこまで言われては、藤四郎とて断る理由はない。それに、始めの頃と違って、今は古泉の屋敷に利恵も寄食している。
「年が明けたら、長者どのに話してみましょう」
藤四郎もその気になっていた。
(続く)
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