第一章 祇園の長者

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   五  二人の感じた怪しい気配は確かだった。 「昼間、襲われた人数よりも多くて候」  剣阿弥がぽつりと言った。とは言いながらも、恐れている風には見えない。  いや、単に酔ってしまって身体が億劫になってしまったのだろうか。 「出ろ」  短いがはっきりとした声が、外から聞こえた。  声音に覚えはなかった。昼間対した隻眼の男ではないようで、ということは、別の集団ということだろうか。 「出ぬと火矢を射るぞ」  脅しだけとは、思われぬ非情な声だった。 「やむを得ぬか」  藤四郎は酒の回った気だるい身体を起こすようにして、剣阿弥を見た。  酔剣を使うと言っていたが、単なる大口だったようだ。かなり酔っているように見える。  藤四郎に手を差し出してきたのは、助け起こしてくれ、という意であろう。 (やはり酒など飲むのではなかった)  舌打ちしたくなるのを堪えながら、剣阿弥を助け起こすと、社から外に出た。とはいえ、剣阿弥も手に太刀は持っている。やはり兵法人であるということだろう。  外は夜中のはずだが、昼間のように明るかった。それが社を囲んだ者どもの松明の灯りだと気づくまでに、やや間があった。それほどに酔っていたということだろう。 「ふっ。酔っているか。兵法人にもあるまじき振る舞いよな」  声をかけた男は、見下したように言った。  松明の灯りに照らされたその男は、頭巾は着けていなかった。  歳は三十くらいであろうか。目鼻立ちは整っていたが、顎が細く、全体に顔が長い。馬面というべきだろう。柿色の筒袖に袴、黒の脛巾、手に太刀を持っている。 「我が名は四宮弾正左衛門。剣阿弥と連れの者の命を貰い受けよう」  男は名乗った。その名を聞いて、 「四宮弾正左衛門!」  藤四郎は山彦に返していた。声が甲高くなったのは、酔いのためばかりではなかったろう。  四宮弾正左衛門は、師伯にあたる人物で、先来藤四郎が探していた人物である。だが、年齢が合わない。師念道の話では、六十を越えた老人のはずである。  そのことを話そうとしたとき、遠く藤四郎を見つめている視線に気づいた。藤四郎が、こっそりとそちらを見る。  頭巾は着けていない。藤四郎たちを冷たく見つめているその人物は、まごうことなく楠木正勝であった。 (なぜ楠木正勝が、この場に……)  深く考える前に、四宮弾正左衛門と名乗った人物の下知のもと、社を囲んだ者どもが、一斉に襲ってきた。昼間と違い、人数は三十人以上になるだろう。ちょっとした合戦の体である。  以外だったのは剣阿弥である。敵が襲ってくると、藤四郎の身体を突き放すように身を離して、そのまま太刀を抜いて襲ってきた一人を斬り下げていた。  自ら酔剣と自慢した腕に間違いはなかったようだ。酔って身体の動きはぎこちないように見えるが、昼間に劣らず剣先は鋭い。  藤四郎が酔った己の身体に苛立ちながら、敵を避けているのに、剣阿弥はすでに二人目を斬り捨てていた。 「ぬしは、稲田三郎!」  鋭い殺気を感じて藤四郎が振り返ったとき、隻眼の男の剣が真正面にあった。酔いだけではない。剣阿弥の動きに気を取られすぎたのだ。 「昼間はようも邪魔をしおって。死ね」 「不覚……」  藤四郎が、もうだめだと諦めかけたときである。がっ、という音がして隻眼の男の剣が逸れたのである。  その気を藤四郎は逃さなかった。散漫になる気を集中して剣を抜くと、隻眼の男の胴を薙いだ。 「ぐあっ……」  断末魔の声を残して稲田三郎が倒れる。  その近くに短剣が落ちていた。何者かがそれを投げて、あわやという藤四郎を救ってくれたようだ。  稲田三郎は、昼間の襲撃失敗で、助勢を頼んだものだろう。だが、そのことと四宮弾正左衛門と名乗った者との関係がわからない。一阿派の者ではないだろう。とすると、浄阿弥との関係だろうか。  だが、酔いの回った藤四郎には、それ以上のことは考えられなかった。敵の攻撃を防ぐので手一杯である。  気がつけば、襲った男たちにざわめきがある。はっ、として藤四郎が顔を上げて振り向くと、男たちを取り囲むように新たな集団が現れていた。  その者達は、細身の身体に黒っぽい小袖と袴を着していた。脛巾に黒塗りの笠を被っている。やはり黒い布で鼻から下を隠していた。  藤四郎が驚いたのは、少なくとも目に入った者たちが、全て女であったことである。  おそらく全員女であろうと思われた。五十人はいるだろうか、すでに男達は切りたてられ、追い立てられ、なかには逃げをうっている者もいる。  藤四郎が楠木正勝を見かけた辺りに目を向けると、すでにその姿はなかった。  やがて弾正左衛門の合図で、男たちは散り散りに退いていった。 「申し訳ござらぬ」  剣阿弥が、女たちの頭とおぼしき人物にしきりに頭を下げている。こちらも女である。  襲った男たちを追った女たちも、頭らしき女のもとに参集しつつあった。 「油断するでない」  剣阿弥に頭の女が言った言葉だったが、藤四郎はその声に聞き覚えがあるような気がした。 「我が酔剣は、無敵にてござ候」 「その強がりが、命取りになろうぞ」  剣阿弥は、腕は確かだが、どうも酒好きで、そのうえ自信過剰のようだ。  やがて女は右手を挙げて、短く命じた。 「散!」  その声に応じて、女たちが散っていく。二、三人で倒した男の死骸を運ぶ姿があった。 「何者ですか?」  今は酔いも吹き飛んだ藤四郎が、剣阿弥に近づいて訊ねると、 「師姐(ししゃ)師姐にて候」  剣阿弥が、右手で右に傾けた頭の後ろに手をやって答えた。 「同門ということにござりますか」  藤四郎が問うと、 「今の師姐が、二代目の吉祥女にて候」  と、剣阿弥が答えた。  吉祥女とは、如何なる存在か、そのことを藤四郎が改めて問うと、 「ほう。知らずに候や」  剣阿弥はやや驚いたように、 「まあよいか。逢坂の関が、開くには間がある。続きは社の中で話し候よ」  と言って、また社の中に入っていった。  再び襲われないか、と思ったが、東の空が白み始めるのは、もう少し先のようだ。  まだ逢坂の関も開いていないだろう。やむなく藤四郎も社の中に入った。  剣阿弥の話によると、吉祥女は畿内に知られた女兵法者だという。 「では、初代は高橋どのということになりますが?」 「さ候。やつがれとは、相弟子に候よ」  足利義満の側室に上がる前のことで、高橋どのは国阿派に学び、後に吉祥派という一派を立てたらしい。  女しか弟子に取らない変わった一派だが、その武芸の腕も買われて義満の側室に上がることとなったという。  そのとき綾絹に二代目を譲ったということだった。 「国阿派が廃るのはやむを得ぬ事に候」  と、剣阿弥は言ったが、藤四郎にはやや弁解めいて聞こえた。 「どこかで聞いたような声音でした。もしやそれがしの存知よりの者でござろうか?」 「そのお方にてござ候」  藤四郎が聞き覚えのある声と思ったのは、祇園の長者、すなわち綾絹の声であった。剣阿弥の答えはそれを肯定している。 「我らを襲ったのは、一阿派の者ども。助けてくれたのは、国阿派の吉祥門。どうやら二派は、抜き差しならぬところに入りつつあるのではありませぬか」 「我が不明を恥じ入るばかりにて候」  おそらく剣阿弥を仇と狙った稲田三郎が、一阿派に頼んだ時点では、いかに人数が多いとはいえ、単に仇討ちの助勢であったかもしれない。  だが、吉祥女が剣阿弥を助けたということは、仇討ちを越えて、流派と流派の争いになったということになる。  祇園の長者はそうなることを危惧して、両派に無関係な藤四郎を剣阿弥の護衛につけたものと思われた。その気配りもいまは無駄になってしまったようだ。 (世話になっておきながら)  藤四郎もまた己の無力さを悔いることとなった。と同時に、 (何故に師伯が……?)  すなわち四宮弾正左衛門が、現れたのか。しかも今の話からすると、弾正左衛門が一阿派を率いていたことになる。  それに、年齢の違いはどうしたことか。今度のことに楠木正勝はどう関わっているのだろうか。藤四郎には考えても分からないことばかりであった。  ようよう外は白み始めていたが、それにつれて気温の方もさらに下がりつつあった。  今朝は真っ白な霜が降りるのは間違いなさそうだ。 (続く)
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