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三
都の遊君は、立君と図子君に大別される。
立君とは夜鷹のように往来で客を引く遊女である。対して図子君は、局と呼ばれる家屋で、客と遊ぶ女をいう。
五条東洞院は、一帯が図子君の傾城町である。辺りは夜に入ってからの方が、人の往来が多くなる。
藤四郎が着いたときは、まだ日の入り前で、街の往来はそれほど多くなかった。編み笠で顔を隠した武士がまばらにいるだけである。
一軒の傾城屋の近くまで来たが、経験のない藤四郎が入るには、さすがに敷居が高すぎた。
首を捻って思案しつつ、店の前に佇んだが、中に入る名案は浮かんでこなかった。
店は二階立てで、大きな造りである。奥行きもあるようだ。店の構えからして間違いなく懐にある銭では足りないだろう。
「何をお悩みなんです?」
不意に藤四郎は声をかけられた。
声のした方を振り向くと、明らかに四十を過ぎたと覚しき女が、笑みを湛えながら藤四郎を見つめていた。垂髪に白い布を桂巻にしている。
「旦那さまは、入ろうかどうしようか迷っていらっしゃる」
いや、と藤四郎は慌てて否定した。
「率爾ながら、傾城屋は、旦那さまの入るところではござりませぬ。どうです、わたしどものところで遊んでは」
どうやら別な傾城屋の遣り手婆と思われたが、藤四郎の歯切れは悪い。遊びに来たわけではなく、綾絹に会いにきたのである。
「はっきりしないお侍だねえ。遊びに来たんだろう」
藤四郎が困って、返答に窮していると、
「なら、ここに何を求めて来たんだえ」
遣り手婆は、見下したように言った。
「人を訪ねている」
ようやく藤四郎は言った。遣り手婆に押されてしゃべれなかったのだ。
「ひと? 遊君かえ」
遣り手婆の疑問に、藤四郎は覚悟を決めた。
「遊君ではないと思うが、綾絹という女性なのだ」
「あやぎぬ……さま」
遣り手婆は吃驚したように叫んだ。
「お侍さんは、綾絹さまがどのようなお方かご存じなのかえ」
「いや。知らぬ」
藤四郎はあっさりと答えた。
「東洞院の長者で、この地の遊君を統べるお方だよ」
「なに、統べるお方!」
今度は藤四郎が吃驚する番だった。そのときである。
「綾絹を出せ」
叫び声が聞こえた。しかも若い女の声である。
「やれやれ。また来てるよ。あの娘」
遣り手婆が呆れたような声を出した。
見れば十五、六ほどの気の強そうな女が、傾城屋の店先で店の者と覚しき男たちと揉めていた。女は白い水干姿で太刀を佩いた男姿だった。
「何者ですか?」
藤四郎が遣り手婆に問うと、
「長者さまを仇と狙う命知らずな娘さ」
遣り手婆には、やや見下す風な言葉つきだった。
「仇ですか。あのような娘が……」
「ああ。何でも母親の仇らしいというのだがね」
娘の方を見ていると、やがて、店の者たちだろう屈強な男達がぞろぞろと出てきて、娘を取り囲んだ。
その者達に、帰れ、帰れと口々に言われて、娘がついに太刀を抜いた。
「太刀を抜いたが、大丈夫なのか」
藤四郎は見ていてそわそわしてきた。娘一人に屈強な男たちが数人がかりである。
「心配はいらないよ。ああ見えて、娘は兵法を使うからね」
「兵法を。それゆえ水干姿なのか」
藤四郎は、妙な感心をした。水干は男の着る衣装である。同時に、白の水干、緋の袴に立烏帽子は、白拍子という女性の芸能者の姿でもあったが。
「畠山古泉さまの孫娘なのさ」
藤四郎は、畠山という名字に引っかかりを覚えて、
「その畠山古泉どのと畠山駿河守どのとの関係を知らぬか」
「さあ、知らないねえ。ああ、そう言えば、古泉さまと名乗る前が、駿河守さまだったような」
遣り手婆の記憶は曖昧なようだ。
もし、畠山古泉と駿河守が同一人物ならば、娘の使う兵法は念流かもしれない。となれば、娘とは従兄弟弟子ということになる。
藤四郎は、にわかに他人のような気がしなくなってきた。
「でもねえ。勝ちはしないんだが、負けもしないんだよ」
藤四郎は遣り手婆の言う意味がよく分からなかった。
娘は抜いた太刀で店の者たちと渡り合っていたが、よく見ると男たちは、手に手に棒を持っている。
いかに兵法人とはいえ、十五、六の娘に棒を手にした屈強な男が、四、五人がかりである。勝負の帰趨は明らかだった。
やがて男たちに追い立てられて娘は太刀を取り落とし、そのまま棒で殴られている。
「いかん。娘一人に男が大勢とは……」
助けに出ていこうとする藤四郎の背に、
「おやめよ旦那。そうやって殴られて、娘は泣く泣く家に帰るんだから。いつも命までは取られやしないんだよ」
遣り手婆の声が聞こえたが、すでに藤四郎は男たちと娘の間に割って入っていた。
娘を打擲しようとする男の棒を横合いからぐっと掴むと、
「よさぬか。娘一人に手荒な真似は」
男の目を見てはっきりと言った。
「何者だ!」
男たちに動揺の声が走った。だが一瞬の後に、
「この娘の味方だな。容赦するな」
男たちの一人が叫んだときには、藤四郎は男たちを相手に派手な大太刀回りを演じていたのである。
藤四郎が大きな拍手に気づいた時、周りには男たちが伸びていた。傾城町はときならぬ演武に、往来の者たちが、足を止めて眺めていたようだ。
「これはいかん」
藤四郎は慌てて、大丈夫か、と娘に声をかけると、肩を貸して早々に傾城町を後にした。
その一部始終を見ていた者が二人いた。
一人は隣の傾城屋の二階の端から見ていた綾絹である。目に愁いがあった。
そしてもう一人は柳の木に隠れるように見ていた楠木正勝である。こちらは意外な成り行きに戸惑っているように見えた。
傾城屋から遠ざかると、
「離せ。お節介はいらぬ」
娘は邪険に藤四郎を突き放して自ら離れた。
水干は汚れ、手足には痣になっているところもある。だが、さすがに女と言うべきか、顔には大きな傷はなかった。男たちに打擲されつつも顔は守ったのであろう。
「たいした傷はなさそうだな」
「うるさい。黙れ」
「母の仇と言うていたが」
「余計なお節介だ」
娘は藤四郎を警戒しているようである。
藤四郎が改めて娘を見ると、全体丸顔だが、両頬が下に垂れ気味で下唇が突き出ている。何かに強い不満を持っているかのような顔つきだった。まだ幼さを残している。長い髪を後ろで束ねてあった。
「ぬしは何者だ? なぜ余計なことをする」
「もしや畠山古泉どのは、昔、駿河守と言わなんだか。もし、駿河守どのであれば、我が師と相弟子の間柄ということになる。同門とあっては放ってもおけまい」
藤四郎は自らの名を名乗った後でからりと言った。
「では、念流か?」
藤四郎が肯くと、娘はにわかに親しさを見せ始めた。
「わたしの名は千里。駿河守とは、お祖父さまが、昔奉公衆をしていたときの官名に間違いない。こなたのことを知っておいでか」
「分からぬ。たぶん知らぬと思うが」
藤四郎は二月ほど前に鎌倉から京に上ってきたばかりだと告げた。
「ならば、わたしの家に来い。お祖父さまも喜ぶであろう。わたしに兵法も教えて欲しい」
千里の申し出に藤四郎はしばらく逡巡した後、
「駿河守どのにご挨拶申し上げよう。案内してくれ」
千里に兵法を教えるかどうかは別にして、いつかは訪ねようと思っていたところである。ここで千里に会ったのも何かの縁だろう、と藤四郎は思った。
よし、と小さく肯いた時には、もう千里は先に立って歩き出していた。
(続く)
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