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第一話 雨の日の、拾いもの。
親友が癌で死んだ。肺癌だった。
だから煙草は止めろとあれほど言ったのに。そう思ってももう、仕方のないことだった。
右の尻ポケットに入れた合金の塊を握る。今時珍しいように思う。ドアノブに指して回すタイプの鍵だ。
生前に教えて貰っていた住所を検索し、スマホのナビ頼りに歩き始めてそろそろ三十分になる。ナビを信じるなら、もう少し直進した先の右手側に彼がかつて暮らしていたアパートがある。
やっぱりと言うか、彼と俺の住んでいる場所はそれほど離れていなかったし、近所と言うには生活圏が異なる場所にあるようだった。電車で一駅は離れていた。
(……最初から電車で来れば良かったな)
踏切を渡ってスーパーを越え、もう暫く南に進むと、二階建ての古びたアパートが見えてきた。如何にも年季の入ったアパートだ。遠目でも外階段は赤錆だらけなのが窺えるし、コンクリート舗装されているはずの駐車場には割れ目が複数あるのだろう、雑草がちらほらと生えているのが目立つ。
如何にも彼が暮らしていそうなアパートだ、と思った。
最後に彼と会ったのは、病室の中だった。
癌だとは聞いていたが、癌っていうのは治る病気なのだと、なんとなく思い込んでいた。勿論、それで亡くなる芸能人もいたが、病で亡くなるなんていうことが自分の身近で起こるなんてことは、微塵にも考えていなかったのだ。
『うい。お疲れ。調子どう?』
酒場で会った時みたいな軽いノリで話しかけたのは、俺の入室にも気が付かずに外を眺める彼に、なんと声をかけていいかわからなかったからだ。いつものノリだけど、声のボリュームは少し落とした。彼は大部屋の一番窓際のベッドに座っていた。
『おっ。たかあづじゃん。来てくれたの?』
俺の声に振り返った彼は、確かに記憶より少し痩せていたような気もしたが、いつもの笑顔で俺を迎えた。
『そりゃね。お前、俺以外に見舞いに来てくれるような友達居ないっしょ?』
『うっせーな。つか、手ぶらじゃねぇか。マスクメロンくらい持ってこいよ。最悪、酒とかよ』
『病人に酒とか持って来るわけねぇだろ。トドメじゃん』
『勝手に殺すな、ばぁーか』
いつもの軽口を叩きながら、窓際に置かれた椅子に腰掛けた。
いつもと変わらぬ会話のテンポに安心しつつ、いつもと違う様子はいくつかある。彼は冬でもないのにニット帽を被っていたし、いつもの、顔に似合わないド派手なシャツじゃなくて、なんの個性もない素朴で真っ白な病衣を着ていた。項垂れるようにベッド脇に置かれた腕には点滴の針。彼はリクライニングのベッドで身を起こしているだけで、体はベッドにすっかり預けている。
そんな様子でも俺は、まさか新年を迎えずに彼が死んでしまうなんて想像もつかなかった。
もしくは、考えないようにしていたのか。
普段と変わらない、五分後には忘れてしまうような取り留めもない会話。談笑も束の間。
『あー……わりぃけど、オレ、そろそろ昼寝の時間だわ』
なんかの話の途中だった。
彼は不自然なタイミングでそんなことを言い出した。俺はまたお得意の冗談だと思って、続く軽口を紡ごうとしたが、彼が口元だけ笑わせた見たことのない顔で俺をじっと見つめるので、咄嗟に軽口を飲み込んでしまった。
『あとさ、悪いけど。後でオレん家の住所、メッセージで送っとくから、アパートの掃除とか……頼まれてくんない? 暇な時でいーから』
差し出された右拳を見る。何か握っていた。俺の視線の先を追ってから、彼はゆっくりとその右手を開いた。
彼は飲み仲間はいたが、皆それだけの付き合いだった。何気なく交わした会話の中から、家族とは疎遠だと言うことは察しがついていた。昼間から飲み屋に居る。だらしもなくて、録でもない大人。無精髭を生やして、ボサボサの頭。浮浪者と言われてもきっと否定出来ない。そんな様子で、スカジャンだとか虎だとか龍だとか鷹だとかを好んだ。人の目なんて気にしない。社会府適合者。――――だけど、そんな彼の様子を、俺は好ましく思っていた。
『俺は、お前の彼女かよ』
彼の右手から差し出された鍵を受け取る。彼はニヤリと笑った。
『んな可愛いもんかよ。オカンだよ、オカン』
『あー。オカンだったかぁ~。生んだ覚えねぇけどな』
はは、短く笑った彼が、『あとさ、』と妙にとぼけた声で言い出したのを覚えている。
『野良が居るかもしんないから。適当に世話……腹減ってたら、飯とかやっといて。後どうするかは、お前に託すわ』
――――――……野良、ね。
メッセージに記された住所の、205号室は一番端の部屋だった。
鍵を開け、ドアノブを回しながら想像した。少しカビ臭いアパートに獣の匂い。所々にエサ皿が置いてあって、そこら中に猫がいる光景。彼は、友達がいなかったから。野良猫を見付けてはアパートに連れ込んで一緒に暮らしてたのではないか?
多頭買い。飼い主は長らく不在していた。本当に、きっと、さぞや凄惨なことになっているのだろう……。
けれど想像するのは、生前、彼が沢山の猫の世話をしながら、表情を綻ばせる姿だった。酒の飲み方は決して上品とは言えなかったが、彼にそんな可愛らしい一面があるのだとしたら、微笑ましい。
ふ、と知らずに笑いが零れたが、次の瞬間にその表情は固まってしまう。
「敦士!」
「えっ!?」
見知らぬ少年が、飛び出して来た。
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