第二話 あの日、落としたもの。

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第二話 あの日、落としたもの。

 気が付けば夏が訪れていた。  社会人になってから、月日の流れの早さには本当に驚かされる。  人事の発表があって新年度になって、五月に野良がウチへやって来て。雨の多い六月。やっと晴れの日が続いたかと思ったら「もう夏みたいだな」なんて溢すような日が続き……いつの間にやら、本当に、夏がやって来ていた。  厳密には八月。  学生ならば夏休み真っ只中。  社会人の連休は、盆しかない。社会人になってもう十年経つと言うのに、未だに夏休みが恋しい。この時期になると働くのがいつもより少し億劫になる。 「たかあづ、今日は仕事…………?」 「なんと、休みでーす!」 「やったぁ!」  更に今年はこの可愛い生き物がいるというわけで、尚更に盆休みが恋しかった。 「だから今日は、海に行ってみよう!」 「海?!」  野良が目をキラキラさせる。この瞬間が好きだ。  一つ一つ、教え与えているような気分になる。俺にとっては些細なことを、野良はとても喜ぶ。驚く。楽しむ。 「水着と昼飯買いに行ってから、海へ行くぞ!」 「……あ、オレ、水着……」  野良の一人称はいつの間にか「オレ」になっていた。俺のそれが移ったのでは? と思うと、内心にやにやしてしまう。  急に陰った野良の瞳を覗き込み、「大丈夫だ」と告げる。 「お金のことなんて心配するなよ? どうせ独り身で持て余していたくらいなんだから、使い道が出来て、金も俺も嬉しい」  正直、俺にはあっくん以外にプライベートで会うような友人もいない。唯一の趣味であった居酒屋巡りも辞めて、ますます貯金が増えていたところだった。  野良は俺のこの台詞にも、顔を明るくさせたりしない。複雑そうな、曖昧な表情をする。  もっと手放しに、子供らしく、嬉しそうに笑って欲しいのになぁと思う。難しいことなんて、大人が代わりに考えてやればいいのだ。  口の中の米を味噌汁で流し込みながら、そう思った。  車で一時間四十分。  海水浴が出来る海にやって来るのは、もう何十年ぶりの話だった。未だに、二十差し引いても十代と言う年齢に慣れきっていない。  自分はもう誰かに甘えられるような子供ではない。しっかりした大人であらなければ。……と思いながら、まだ若い気でいたことに驚かされる。ほっとけば積み重なる贅肉が恥ずかしくて、野良に見せられないなと筋トレに励んだ日々もあった。  野良の海パン姿をみながら、父親のそれのような……とはいっても、俺は誰かの親になったことはないので実際のものとは相違があるかもしれないが、兎に角、何かジーンと、しみじみと感動するものがあった。  やっぱりもう、しっかり歳を取っているのだろう。幼児ではない程の大きさの子供に、ここまで親心を抱く。  ラッシュガードを着せてやったのも、未だに浮かぶあばら骨や細過ぎる腕を、野良が気にしたら嫌だと思ったからだ。それに他人に不躾な目線でじろじろと見られたくない。  お盆の海水浴と言うのは、敬遠されがちなイメージがあったが、ちらほらと人の影が見える。元より、かなり田舎の方の海なので、海開きの時期でさえもそれほど人がいないのではないかと思う。  海の家すらなく、シャワーも仮設の個室が五つほど並んでいる。  ザザーン、とその特有の音が、耳に心地よい。 「行こうか」  とても簡易的なテントを張り終えた俺は、野良に声をかけた。野良は遠目で海を眺めている。いつの間にやらラッシュガードを脱いでいた。  改めて、野良の身体を見る。  海パン一枚になっている野良の体はまだガリガリで、食べさせても食べさせても、なかなか肉をつけない。  百五十センチ程しかない身長に、平均よりも遥かに軽い体重。これを平均まで増やしていくのが、ここ数ヵ月の俺の専らの目標になっていた。  波の満ち引きを少し怖がっている様子の野良の手を引いて、海へ入る。まだまだ本格的に照り付ける太陽の下、海は温水プールのような温度で、丁度良かった。 「盆の海にはクラゲが多くなるから入るなって聞くけど、そんなこと無いな」 「クラゲ?」 「なんか透明の、ふよふよしてるヤツ」 「透明なのに見えるの?」 「確かに。半透明? かな。兎に角、ふよふよしてるヤツ。紫の線が引かれてるふよふよには気を付けろよ。毒があるから」  入ってしまえばすっかり恐怖なんて無くなった様子の野良を見て、掴んでいた手首を離した。  俺は肩まで海水に浸かり、スイスイともう少し深みへと泳いでみる。うん十年ぶりでも、意外と身体は泳ぎ方を忘れていないことに感心する。すっかり乗らなくなった自転車にも、跨がってみたら乗れるのだろうか。 「ちょっと待っ、うわっ、ぶ、」 「野良!」  野良は俺に着いて来ようとして、足の届かないところへはいってしまったらしい。  顔を半分沈めてバシャバシャと両腕をもがかせている野良の元へと急ぐ。その身体を抱き締めて、足がすんなりと届く浅瀬に引き返した。  「うえっ、ゲホ、しょっぱ……」  涙目になって、ゲホゲホと咳き込む野良の背中を擦ってやる。 「馬っ鹿! 泳げないのに追いかけて来るなよ」 「ごめん。……同じように出来ると思って。それに、」  寂しくて、と言う野良にハッとする。  野良は俺が背中を向けることを不安がる節があった。それに気が付いて、行き先を告げずに外出してはいけないというマイルールを作ったのだった。  野良は置いて行かれることに、酷く怯える。 「俺が悪かったよ。そうだよな、生まれて初めて海だったな。配慮が足りなかった」  砂浜に上がり、一緒に俺達の[[rb:拠点>テント]]へ戻る。レジャーシートへ座るよう誘導して、買っていたミネラルドリンクを野良へ渡した。 「落ち着いたら、足の届くとこまで行って浸かろう。怖くなかったら、泳ぎの練習してみようか」  それからは、お互いピタリと寄り添って、みっちり泳ぎの練習をした。 「トイレに行きたい……」  昼時を少し過ぎて、買っていた惣菜パンやらおにぎりを食べ終えた後、野良は少し恥ずかしそうに告げた。 「ん? ああ、トイレはあそこ。俺も行っとくかな」  仮設トイレを指差したが、立ち上がって一緒に歩くことにした。  今いる場所よりも多少人目が増えるので、念の為にラッシュガードを羽織らせ、チャックを鎖骨が隠れる程しっかりと閉めてやる。 (……あれで海パンじゃなかったら、本当に性別不明だな……)  別々の個室に入ってから、ひっそりとそんなことを考えてしまうのには、少しだけ罪悪感を抱いた。  用を足し、トイレから出ると、野良が知らない男と話していた。  あまりにも見慣れないその光景に目を丸めてしまい、直ぐには状況を飲み込めない。  男は「君ならお金を払ってもいいよ。ね?」と野良に告げると、その腕へと手を伸ばす。そこで漸く、俺の金縛りは溶けた。  男が野良の腕を掴むより早く、野良の手を引いた。 「セクハラで訴えるぞ!」  男を睨み、足早にその場を離れた。  ああいう輩がいるのなら、もう海はおしまいだ。  拠点に戻るなり、テントの中で服へ着替えさせ、早々に拠点を片付け、海から撤収する。 「…………」 「…………」  車に乗り込むまで、どちらも口を開かなかった。  帰りの道中で、隣に座る野良の横顔を盗み見る。  細い輪郭。白い肌に、瞳を覆う長い睫。生乾きの髪の毛が肌にまとわりついているところが、何と無く色気を出す。服を着ていたら、本当に性別不詳。小柄で細身なので、どちらかと言うと女の子と思うヤツも多いかもしれない。……でも、さっきは海パン姿だった。 (……男が男にナンパ……?)  俺のこれまでの人生に見たことのない光景だった。  LGBTという言葉は知っているが……さっきのアイツは、男が好きだったのか。それとも、興味本意で野良に声をかけたのか。  自分の大切なものが、穢されてしまったような不快感を覚えた。  その時の俺は、込み上げる怒りや不安を抑えることに必死で、野良に声をかける配慮を怠っていた。
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