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「……と、言うことがあったんだ。盆休み中に」
「へぇ。それは大変でしたね」
職場の昼休みは、専ら千里と食事を共にするようになった。
俺は毎朝必ず弁当を作るようになったので、ランチに出るのではなく、社内のランチルームを利用する。千里は大体、惣菜パンを持参した。
「そんなに美人な野良くんのご尊顔、いつになったら拝ませて貰えるんですか?」
「んー……」
「こんなに話し聞いてあげてるのに? 感謝の気持ちとか、感じられないんですけど?」
「そこは感謝してる。ありがとう」
「…………いや、素直ですか」
千里はすっかり俺の相談役になっていた。
例え他愛ない出来事でさえ、俺と野良の話は軽率に他言してはいけない。関係の説明が難しい。それに、やはりこれは犯罪になるのだろうかという不安もある。
だから、正直に千里の存在は有り難かった。
「でもまあ、野良くんは不安だったでしょうね。課長も居ない中、変なヤツに声をかけられるわ、売春のお誘いだわで」
「いや、売春だったのかはわかんないけど……。でも、確かに嫌な感じだよな。いい大人がイタイケな子供に、何言い出したんだか……。俺は野良に、もっと安全で平和な世界を見て欲しいし、そんな世界の中で生きて欲しい。クソみたいな大人とか皆、●ねばいいのに」
「あ、課長。口悪ぅ」
「しょーがねぇだろ。胸糞だったんだから。汚い世界で生きるのは、大人だけでいいんだよ」
「課長ってこの数ヵ月で、とんでもない親バカになりましたよね」
親バカ?
突っ込んで聞きたかったが、もうすぐ昼休みが終わる時間だった。飲みかけていた缶コーヒーを飲みきり、席を立つ。
「本当に感謝してるんだったら、近い未来に、課長の家で一緒に晩御飯させて下さいよ。課長と野良くんのホームで」
同時に席を立った千里が、いつもの上目遣いじゃなくて、真っ正面に言ってきた。
「…………。まぁ、お前は胸糞[[rb:大人>ヤロウ]]じゃねぇし、いっか」
「なんですか、それ。喜んで良いヤツか微妙過ぎません?」
「認めてるってこと」
「素直にそう言って下さいよぉ」
缶ゴミをダストボックスに放り込み、談笑は終了だ。
しかし昼休み明け、和やかだった午前中の空気は一転した。
事務員が取った電話を、困惑気味に回されたのが始まりだ。
「数ヵ月前に当社を介して納入したもので、品質異常が出ているとのクレームが……お客様がメーカーへ損害賠償を請求したいと言っているんですが……」
「……わかった。一回繋いで」
それから、お客様の対応とメーカーへの問い合わせ。
客は口調こそは丁寧だがしっかりと立腹している様子で、メーカーはメーカーで「規格品だからこちらのミスはない」の一点張り。
メーカーは古くからの付き合いのある大切な会社で、千里に任せていた取引だった。二人で対応について話し合いっている内にも、痺れを切らした客から催促の電話が掛かる。
それだけに集中出来ればいいが、別件の対応などもちょこちょこと挟まり、それらにも対応していく内に、時間だけが過ぎていく。
半日がかりでもメーカーからの回答では不十分で、なんとか一緒に現地へ赴く段取りになった時には、もうすっかり夜だった。
(千里とメーカーとで一緒に調査に行って貰って、もし客の言うようにメーカーの品質に問題があった場合は……)
流石にもうこちらでは出来ることが無くなって退勤したものの、帰宅の道中でも今日のことで頭が一杯だった。
揺られる電車の中は人もまばらだが、落ち着いて席に座る気にもならず、吊革に体重を委ねて揺れる。
(損害賠償の請求かぁ……)
昔から取引のあるメーカーで、出来ればそういった事態を避けたい気持ちはある。しかし、もし本当に客の言うような品質の異常が出ているのなら、そこはきっちりと対処しなければならない。
「…………はぁ……」
明日からも気が重くて、溜息が出た。
そのタイミングで、ポケットに入れたスマホが震える。千里だ。
『今日、お疲れ様でしたぁ。明日からも頑張りましょうかぁ~』
緩いスタンプ付きのメッセージに、少し笑った。アイツの方がしんどいだろうから、俺がしっかりしないとな。
俺も「お疲れ」と一言だけ返す。
仕事のことで一杯いっぱいで、野良が家で俺の帰りを待っているということを、忘れていた……というのは変だが、いつもより帰宅が遅くなってしまったことに対して、特にこれと言う危惧を抱いていなかった。
家に帰ると、家の中は真っ暗だった。
「……野良?」
そこで、やっと俺は思い至る。
野良は、俺がいつもの時間に帰らないことに怯える。だから、遅くなりそうな日は予め告げておくようにしていた。
玄関の電気を点ける。野良の靴はそこに無い。靴箱を開けて、野良の靴があるのを確認する。―――野良は、あっくんの教育で、靴を脱いだら靴箱に仕舞う。あのアパートの玄関の狭さを考えると理にかなった行動のように思う。
「野良、ごめん。遅くなった」
リビングの方へ声をかけながら向かうが、返答がない。恐らく、リビングか寝室の部屋の端っこで膝を抱えてまるまっているのだと思う。
スマホを買い与えようか。
今日ほど本気にそう思ったことはない。
リビングの電気を点けた。
それらしい人影は無い。エアコンも点いていない。寝室へ向かう。こちらもエアコンが点いておらず、ムッと熱気が立ち込めている。エアコンの電源も点けておく。
寝室の電気を点けると、そんな部屋の端っこに、野良は居た。
「遅くなってごめん……」
蹲って丸くなった背中に手を当てる。びくりと跳び跳ねない様子を見るに、声は聞こえているらしい。背中はうっすらと汗で濡れている。
ぎゅっと抱き締めてやる。
「不安にさせて、ごめん。……なんか食べた?」
昼は弁当を渡しているが、小腹がすいた時用に、惣菜パンや冷凍食品、インスタント食品をストックしていた。
野良は首を振る。
「じゃ、お腹空いたよな。直ぐ用意するから、一緒に食べよう」
野良はまだ自分の膝を抱える腕をほどかないが、頷く気配があったのでその場を離れた。
確か、レンジでチンするだけの冷凍うどんがあったはず。冷凍庫に小間切れ肉も。肉うどんにしようか。直ぐ出来る。
寝室の扉は開けたままにして、エアコンの冷気がそちらにも流れるようにした。熱中症も不安だ。日中はエアコンを点けていいと言うのに、野良はそうしなかった。申し訳無いと思うのだろうか、単に、あっくんの家がそうだったのか。
わからない。
未だに、野良の対応がわからないことが沢山ある。
きっと、だから、未だに本名を教えて貰えていない。
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