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無事に交番を後にすることになったが、野良はずっと口を真一文字に結んだまま、何も告げない。
「…………」
「…………」
「課長、いつぞやの約束ですけど、今日にしません?」
空気を読んでいるのかいないのか、帰り道が違うはずの千里も、俺達の帰る方向に着いて歩く。
確かに、今、野良と二人きりにされるのは気まずい。
「どうして」とか「なんで」とか、訊きたいことはあったけど、いざとなると訊けないでいた。野良もきっと触れて欲しくないだろう。でも、そういうわけにもいかない。
戸惑う俺に、千里の、いつもと変わらない能天気そうな声音は有り難かった。
「約束って、なんだっけ?」
俺も努めていつも通りの様子で返した。けれど、少し声が震えてしまう。
「えっ、ひっどーい! 忘れてたんですかぁ?! 課長の家で晩御飯を一緒に食べる約束ですよぉ~」
「あれ、本気だったのか?」
「僕はいつだって本気ですよっ★」
気安く肩を組んでくる千里の様子も、普段なら蒸し暑くて直ぐに取っ払うのだが、今は有り難さでそのままにしておいた。
「特に何も振る舞えないぞ? 冷蔵庫もなんもないだろうし」
「それって、OKって判断していいんですか?」
「……まぁ。お前にはいつも助けられてるからな……」
「やったー!」
正直もう、くたくただった。
帰ってスーツケースを投げ出して、風呂にも入らずにベッドへダイブしたい。
でも、そういうわけにもいかない。
俺には野良がいて、今回の件を触れずに寝ることは許されない。俺はきっと野良と、きちんと会話をしなければならない。
俺達はスーパーで簡単な買い物をして、アパートへ帰った。
野良は結局、アパートまでの道のりで一切口を開かず、俺達の三歩ほど後ろを静かに着いて来ていた。
家に帰り、荷物をリビングに置くなり、千里は野良を振り返った。
「初めまして、野良くん。改めまして、濱崎千里です」
「…………」
千里の満面の笑みに、野良は戸惑っていた。
「……千里。こいつが、『野良』。今日はお前のお陰で助かった。ありがとう」
野良がいつまでも口を開きそうになかったので、俺が割って入る。その隙に、野良は自分の部屋へ逃げてしまった。
「あらあら」
「…………悪い。けど、今は一人にしてやろう」
「おやおや」
何か言いたそうだったが、千里は何も言わなかった。
「晩飯作るから。良かったら、シャワー使ってくれ」
「え? いいんですか?」
出張の片付けなんてそっちのけで、俺は台所へ立った。
クレーム対応出張帰りの、只でさえどんよりとしているこんな夏場に、全力疾走させてしまったのだ。汗でびちょびちょになったスーツを脱ぎたいだろうし、少しは疲れが取れたらいいだろうと思った。
「ついでにその間に洗濯物回すわ。飯食ってる間に乾燥も回すから」
「ええー? やだー、課長、スパダリが過ぎるぅ~。結婚してぇ」
「仮の服は悪いけど、俺のシャツ用意させて貰うぞ。下着は多分、新しいやつがあるはず」
「華麗に無視されても好きぃ」
きゃっきゃと楽しそうな千里をさっさと風呂に追いやって、調理を始める。
時々野良の部屋へ目を向けるが、人のいる気配もない。
シャワーを終えた千里がソファーに座って、バラエティー番組で爆笑しても、疲れていたにしては上出来なクリームパスタが出来ても、何度ノックしても、野良は部屋から出て来ない。
「まぁまぁまぁ、お父さん。鳴かぬなら、ってやつですよ」
客であるはずの千里の方が遠慮の無い様子で笑う。
「『鳴かせてみせよう』?」
「『鳴くまで待とう』。野良くん、お先にいただきまぁーす!」
千里はクリームパスタを一口食べて、「うっまぁ!」とやたら大きな声で喜んだ。
「えぇー? 課長、料理上手過ぎません? プロ目指してるんですか?? やっば、お店の味!」
「黙って食え」
「ええー? 感謝の気持ちが見えませんね」
「千里、今日は本当にありがとう。沢山食べてくれ」
苦笑してしまう。
「分かれば宜しい!」と笑う千里に、ほっとする。
本当は多分、ホッとしなきゃいけないのは、野良の方。きっとまだ、負の感情の渦中に居るんだろう。
問題の先送りをしているだけ。俺だけ、助かったような心で居ちゃダメなんだ。本当は。
自分で作ったはずのクリームパスタが重く、なかなか喉を通らない。
『売春』?
その衝撃をまた、思い出す。
(……野良が、売春?……本当に、初めてなのか……)
戸惑いを思い出す。心臓が苦しくなって来た。用意していた水で喉のパスタを流し込む。
「サラダとスープまである。ますます嫁に欲しいです、課長!」
「……そりゃどーも」
こっちの気を知ってか知らずか……なんて、きっと千里なりに気を遣って彼は此処にいて、いつもの様子で会話をしている。
千里はそれはそれは美味しそうに、サラダもスープも口に運ぶ。そしてまたパスタ。落ち着かない食べっぷりである。
「いいなぁ、野良くん。いつもこんな美味しい料理食べてるんだぁ。幸せですね」
「……さぁ、どうかな……」
本音が零れた。
あ、と思った時には遅い。
折角千里がいつも通りに話してくれているのに、俺は、暗い口調で返してしまった。
「幸せですよ」
しかし、千里は変わらない様子で笑う。
「衣食住以外に悩みがあるなら、幸せなんじゃないですか」
「…………」
「課長に出会えて、幸せですよ」
千里は珍しく、真面目に言う。かと思うと、またへらりと笑った。
「課長、全然食べて無いじゃないですか。食べさせてあげましょうか? はい、あーん!」
「いらん」
「なら、シャワーでもしてきますか? 僕、食べ終わったら洗い物くらいしますよ」
じっと千里を見つめてやる。千里は首を傾げて、「あ、その隙に金品奪ったりなんてしませんよ?」とお得意の冗談を重ねる。
野良はこの会話を聞いているのだろうか。
部屋から出て来た時、千里しかリビングに居なかったら戸惑うのではないだろうか。
と、思ったが、相手が千里なら寧ろ安心感しか無かった。
「……お言葉に甘えようかな」
戸惑う野良に、千里なら上手く距離を詰めるのでは無いだろうか。
そう思えて、立ち上がる。野良のと自分の食器を台所へ下げて、ラップをし、風呂場へ向かった。
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