第二話 あの日、落としたもの。

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 無事に交番を後にすることになったが、野良はずっと口を真一文字に結んだまま、何も告げない。 「…………」 「…………」 「課長、いつぞやの約束ですけど、今日にしません?」  空気を読んでいるのかいないのか、帰り道が違うはずの千里も、俺達の帰る方向に着いて歩く。  確かに、今、野良と二人きりにされるのは気まずい。 「どうして」とか「なんで」とか、訊きたいことはあったけど、いざとなると訊けないでいた。野良もきっと触れて欲しくないだろう。でも、そういうわけにもいかない。  戸惑う俺に、千里の、いつもと変わらない能天気そうな声音は有り難かった。 「約束って、なんだっけ?」  俺も努めていつも通りの様子で返した。けれど、少し声が震えてしまう。 「えっ、ひっどーい! 忘れてたんですかぁ?! 課長の家で晩御飯を一緒に食べる約束ですよぉ~」 「あれ、本気だったのか?」 「僕はいつだって本気ですよっ★」  気安く肩を組んでくる千里の様子も、普段なら蒸し暑くて直ぐに取っ払うのだが、今は有り難さでそのままにしておいた。 「特に何も振る舞えないぞ? 冷蔵庫もなんもないだろうし」 「それって、OKって判断していいんですか?」 「……まぁ。お前にはいつも助けられてるからな……」 「やったー!」  正直もう、くたくただった。  帰ってスーツケースを投げ出して、風呂にも入らずにベッドへダイブしたい。  でも、そういうわけにもいかない。  俺には野良がいて、今回の件を触れずに寝ることは許されない。俺はきっと野良と、きちんと会話をしなければならない。  俺達はスーパーで簡単な買い物をして、アパートへ帰った。  野良は結局、アパートまでの道のりで一切口を開かず、俺達の三歩ほど後ろを静かに着いて来ていた。  家に帰り、荷物をリビングに置くなり、千里は野良を振り返った。 「初めまして、野良くん。改めまして、濱崎千里です」 「…………」  千里の満面の笑みに、野良は戸惑っていた。 「……千里。こいつが、『野良』。今日はお前のお陰で助かった。ありがとう」  野良がいつまでも口を開きそうになかったので、俺が割って入る。その隙に、野良は自分の部屋へ逃げてしまった。 「あらあら」 「…………悪い。けど、今は一人にしてやろう」 「おやおや」  何か言いたそうだったが、千里は何も言わなかった。 「晩飯作るから。良かったら、シャワー使ってくれ」 「え? いいんですか?」  出張の片付けなんてそっちのけで、俺は台所へ立った。  クレーム対応出張帰りの、只でさえどんよりとしているこんな夏場に、全力疾走させてしまったのだ。汗でびちょびちょになったスーツを脱ぎたいだろうし、少しは疲れが取れたらいいだろうと思った。 「ついでにその間に洗濯物回すわ。飯食ってる間に乾燥も回すから」 「ええー? やだー、課長、スパダリが過ぎるぅ~。結婚してぇ」 「仮の服は悪いけど、俺のシャツ用意させて貰うぞ。下着は多分、新しいやつがあるはず」 「華麗に無視されても好きぃ」  きゃっきゃと楽しそうな千里をさっさと風呂に追いやって、調理を始める。  時々野良の部屋へ目を向けるが、人のいる気配もない。  シャワーを終えた千里がソファーに座って、バラエティー番組で爆笑しても、疲れていたにしては上出来なクリームパスタが出来ても、何度ノックしても、野良は部屋から出て来ない。 「まぁまぁまぁ、お父さん。鳴かぬなら、ってやつですよ」  客であるはずの千里の方が遠慮の無い様子で笑う。 「『鳴かせてみせよう』?」 「『鳴くまで待とう』。野良くん、お先にいただきまぁーす!」  千里はクリームパスタを一口食べて、「うっまぁ!」とやたら大きな声で喜んだ。 「えぇー? 課長、料理上手過ぎません? プロ目指してるんですか?? やっば、お店の味!」 「黙って食え」 「ええー? 感謝の気持ちが見えませんね」 「千里、今日は本当にありがとう。沢山食べてくれ」  苦笑してしまう。 「分かれば宜しい!」と笑う千里に、ほっとする。  本当は多分、ホッとしなきゃいけないのは、野良の方。きっとまだ、負の感情の渦中に居るんだろう。  問題の先送りをしているだけ。俺だけ、助かったような心で居ちゃダメなんだ。本当は。  自分で作ったはずのクリームパスタが重く、なかなか喉を通らない。 『売春』?  その衝撃をまた、思い出す。 (……野良が、売春?……本当に、初めてなのか……)  戸惑いを思い出す。心臓が苦しくなって来た。用意していた水で喉のパスタを流し込む。 「サラダとスープまである。ますます嫁に欲しいです、課長!」 「……そりゃどーも」  こっちの気を知ってか知らずか……なんて、きっと千里なりに気を遣って彼は此処にいて、いつもの様子で会話をしている。  千里はそれはそれは美味しそうに、サラダもスープも口に運ぶ。そしてまたパスタ。落ち着かない食べっぷりである。 「いいなぁ、野良くん。いつもこんな美味しい料理食べてるんだぁ。幸せですね」 「……さぁ、どうかな……」  本音が零れた。  あ、と思った時には遅い。  折角千里がいつも通りに話してくれているのに、俺は、暗い口調で返してしまった。 「幸せですよ」  しかし、千里は変わらない様子で笑う。 「衣食住以外に悩みがあるなら、幸せなんじゃないですか」 「…………」 「課長に出会えて、幸せですよ」  千里は珍しく、真面目に言う。かと思うと、またへらりと笑った。 「課長、全然食べて無いじゃないですか。食べさせてあげましょうか? はい、あーん!」 「いらん」 「なら、シャワーでもしてきますか? 僕、食べ終わったら洗い物くらいしますよ」  じっと千里を見つめてやる。千里は首を傾げて、「あ、その隙に金品奪ったりなんてしませんよ?」とお得意の冗談を重ねる。  野良はこの会話を聞いているのだろうか。  部屋から出て来た時、千里しかリビングに居なかったら戸惑うのではないだろうか。  と、思ったが、相手が千里なら寧ろ安心感しか無かった。 「……お言葉に甘えようかな」  戸惑う野良に、千里なら上手く距離を詰めるのでは無いだろうか。  そう思えて、立ち上がる。野良のと自分の食器を台所へ下げて、ラップをし、風呂場へ向かった。
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