第二話 あの日、落としたもの。

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 千里が帰る時間になると、驚くことが起きた。  野良が、部屋から出て来たのだ。  目を見張っている俺を尻目に、野良は靴を履く千里へと近付いていく。 「あ、野良くん。見送りありがとー! またね!」 「…………うん」  コクリと頷く野良の様子に、更に頭が混乱した。 「え? いつの間に……」 「ふふ。ほら、野良くん。課長が驚いてるから、僕達が友達になったって、しっかり伝えておいてね?」 「…………」  こちらを振り向かない野良が今、どんな表情をしているのかはわからない。首を縦にも横にも振らない様子に、千里はまた「ふふ」と笑う。  どうやら、俺がシャワーを浴びている数十分の間に、千里は俺の予想より遥かに上回る程、野良の心の内側に入り込んだらしい。  人たらしさで言うと、あっくんとどちらが上なのだろうかと、素直に脱帽した。俺は普通の会話のキャッチボールをするのでさえ、結構かかったのに。 「それじゃ課長、御馳走様でしたー! おやすみなさーい!」  賑やかな空気が、扉が閉まる音で一転した。  パタリ。  野良の心もそんな風に音を立てて、一緒に閉ざされたように思う。 「……野良、」  でも、何とか喉の奥へと唾を飲み込んで、口を開く。 野良は玄関の扉を見たまま、動かない。 「……えーと、」  訊かなければいけないことがある。言わなければいけないことがある。本当の親なら、言えるのだろうか。なんて言うんだろう。怒る? 咎める? 泣く? 責める?   それとも、謝るのだろうか。 「…………」 「…………」 「…………、ごめん」  結局、本当の親でも叔父でも無い俺は、謝罪の言葉が口から出た。 「こんな時、なんて言ってやったらいいのかわかんない。でも、きっと、俺が寂しい思いをさせたせいだ……。すまなかった」 「…………違う、」  深々と頭を下げた。  思いがけずに降って来た声に顔を上げると、野良はこちらを向いてくれていた。 (「成人男性とホテルって、何?」「本当は、お前が被害者なんだろ?」「本当に、今回が初めて?」「未遂なんだよな?」「どういうことなんだ」)  顔を見ると、言いたいことが脳内を押し寄せて来る。 「…………違うって、何が?」 「たかあづは、悪くない」 「いや、でも……」 「たかあづのせいじゃない………………ごめんなさい、」 「…………お前が誘ったって言うのは、本当?」 「…………」  頷く野良。  なんで? と言う言葉を、頑張って飲み込んだ。動揺して、地面がぐにゃぐにゃと揺れる。 「……どうやって、」 「アプリで知り合ったんだ……。を、探した……」  「……『そういう人』?」 「……やらしいことする代わりに、お金払ってくれる人……」 「なんで………………」  結局、訊いてしまう。 「…………」  男が好きなのだろうか。  本当はずっと、そんな欲望を持っていたのだろうか。  唇が震えるだけで、俺達はどちらも言葉を発せないでいた。 「…………」 「…………」 「…………たかあづの、負担になりたくなかったから……」  やっと紡いだのは野良の方だった。 「どういうこと?」  俺にはその回答がピンと来ない。 「…………お金が、欲しかった」 「……体が、お金になるって知った、から……」 「オレ、"オレ"以外に、他に何も持ってなくて……」 「お金の稼ぎ方もわかんないし……たかあづに何も返せなくて…………」  野良はポツリポツリと、紡ぎ出す。  パズルのピースが合うようだった。  きっかけはそう、お盆に行った海でのナンパ事件。それから、スマホ。俺が買い与えて来た沢山の物たち、それらが、全て結びつき合って今回の事件が起きたのだ。  俺は、野良のプレッシャーになっていたのだろうか。 「……お金なんか、……気にしなくていいって……いつも、言ってるだろ……」  堪らず、抱き締めた。腕が震える。言葉が喉をつっかえる。  毎晩同じベッドで眠っていたはずの、久し振りの野良の身体は、記憶より細くて小さかった。すっぽりと俺の腕に収まる。  野良の身体も震えている。押し殺した息の音がする。泣いているのかもしれない。 「お金なんかいらない。そんな金なら、尚更だ。自分を大事にしろ。……俺の行動がお前を申し訳無いと思わせてるんだったら、俺の力不足だから。だから、お前は気にしなくていい」  ぐっと、野良の体が強張った。 「でも! オレも、たかあづに何かしたい……!」  野良の、ハッキリとした物言いに驚いた。  野良の声が廊下を反響する。 「じゃあ……」  本当の父親なら、なんて言っただろう。叔父なら、なんて言っただろう。  俺は俺でしかないから、俺言葉でいいのかな……。  躊躇った。  でも、伝えたかった。 「じゃあ、料理。俺が帰って来たら、『おかえり』って言って。暗くなったら、電気を点けて待ってて。暑い日はクーラーも点けて。寒い日が来たら、暖房点けて。そんで、退屈な時でいいから、晩飯作って、俺の帰りを待っててよ。作り方、教えるから。これから沢山、一緒に台所に立って、覚えて」  全部俺の欲しいものだけど、野良に望んでもいいのかな。 『ただいま』と言って、『おかえり』と返してくれる人がいる。  電気の点いている家に帰って、玄関まで晩御飯の香りがする。  そういう幸せが、幼少期の俺には無かったから。  本当は野良に与えてやりたかった。けど、俺が貰っても、いいのかな。 「わかった。…………たかあづが、オレを大事にしてくれるのは、『エゴ』なの?」  見抜かれたようだった。 「エゴ」、ちゃんと調べたんだな、と場違いに感心してしまって、笑った。 「そうだよ。汚い人間だろ、俺」 「たかあづは、優しい人間だよ」 「そんなことない」 「オレが死んでも、死体を掬い取って、手を合わせてくれる?」 「やだな。俺より先に死なないで」  腕の力を強めると、腕の中で身動ぐ気配があった。離して欲しがっていると思って、力を緩め、その身体を解放する。  暫し、見つめ合う。  純粋で混じりっけのない綺麗な瞳が、艶々と光っている。強い意志を灯して、俺を見ている。  引き込まれそうだ。  俺の方は、すっかりその瞳から目を逸らせずにいた。  と、突然、下方向に腕を引かれて、バランスを崩した。傾いた左頬に、野良の唇が触れる。 「蒼志(そうし)」 「え?」 「オレの名前。中目(なかめ)蒼志」  キスされた頬を抑えて、口をポカリと開くことしか出来ないでいた。俺は今、とんだ間抜け顔をしているに違いない。  野良は―――蒼志は、そんな俺を見て、にこりと笑った。 「蒼志って呼んでよ。たかあづ」  出会ってから今日までて、一番美しい笑顔だった。  
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