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千里が帰る時間になると、驚くことが起きた。
野良が、部屋から出て来たのだ。
目を見張っている俺を尻目に、野良は靴を履く千里へと近付いていく。
「あ、野良くん。見送りありがとー! またね!」
「…………うん」
コクリと頷く野良の様子に、更に頭が混乱した。
「え? いつの間に……」
「ふふ。ほら、野良くん。課長が驚いてるから、僕達が友達になったって、しっかり伝えておいてね?」
「…………」
こちらを振り向かない野良が今、どんな表情をしているのかはわからない。首を縦にも横にも振らない様子に、千里はまた「ふふ」と笑う。
どうやら、俺がシャワーを浴びている数十分の間に、千里は俺の予想より遥かに上回る程、野良の心の内側に入り込んだらしい。
人たらしさで言うと、あっくんとどちらが上なのだろうかと、素直に脱帽した。俺は普通の会話のキャッチボールをするのでさえ、結構かかったのに。
「それじゃ課長、御馳走様でしたー! おやすみなさーい!」
賑やかな空気が、扉が閉まる音で一転した。
パタリ。
野良の心もそんな風に音を立てて、一緒に閉ざされたように思う。
「……野良、」
でも、何とか喉の奥へと唾を飲み込んで、口を開く。
野良は玄関の扉を見たまま、動かない。
「……えーと、」
訊かなければいけないことがある。言わなければいけないことがある。本当の親なら、言えるのだろうか。なんて言うんだろう。怒る? 咎める? 泣く? 責める?
それとも、謝るのだろうか。
「…………」
「…………」
「…………、ごめん」
結局、本当の親でも叔父でも無い俺は、謝罪の言葉が口から出た。
「こんな時、なんて言ってやったらいいのかわかんない。でも、きっと、俺が寂しい思いをさせたせいだ……。すまなかった」
「…………違う、」
深々と頭を下げた。
思いがけずに降って来た声に顔を上げると、野良はこちらを向いてくれていた。
(「成人男性とホテルって、何?」「本当は、お前が被害者なんだろ?」「本当に、今回が初めて?」「未遂なんだよな?」「どういうことなんだ」)
顔を見ると、言いたいことが脳内を押し寄せて来る。
「…………違うって、何が?」
「たかあづは、悪くない」
「いや、でも……」
「たかあづのせいじゃない………………ごめんなさい、」
「…………お前が誘ったって言うのは、本当?」
「…………」
頷く野良。
なんで? と言う言葉を、頑張って飲み込んだ。動揺して、地面がぐにゃぐにゃと揺れる。
「……どうやって、」
「アプリで知り合ったんだ……。そういう人を、探した……」
「……『そういう人』?」
「……やらしいことする代わりに、お金払ってくれる人……」
「なんで………………」
結局、訊いてしまう。
「…………」
男が好きなのだろうか。
本当はずっと、そんな欲望を持っていたのだろうか。
唇が震えるだけで、俺達はどちらも言葉を発せないでいた。
「…………」
「…………」
「…………たかあづの、負担になりたくなかったから……」
やっと紡いだのは野良の方だった。
「どういうこと?」
俺にはその回答がピンと来ない。
「…………お金が、欲しかった」
「……体が、お金になるって知った、から……」
「オレ、"オレ"以外に、他に何も持ってなくて……」
「お金の稼ぎ方もわかんないし……たかあづに何も返せなくて…………」
野良はポツリポツリと、紡ぎ出す。
パズルのピースが合うようだった。
きっかけはそう、お盆に行った海でのナンパ事件。それから、スマホ。俺が買い与えて来た沢山の物たち、それらが、全て結びつき合って今回の事件が起きたのだ。
俺は、野良のプレッシャーになっていたのだろうか。
「……お金なんか、……気にしなくていいって……いつも、言ってるだろ……」
堪らず、抱き締めた。腕が震える。言葉が喉をつっかえる。
毎晩同じベッドで眠っていたはずの、久し振りの野良の身体は、記憶より細くて小さかった。すっぽりと俺の腕に収まる。
野良の身体も震えている。押し殺した息の音がする。泣いているのかもしれない。
「お金なんかいらない。そんな金なら、尚更だ。自分を大事にしろ。……俺の行動がお前を申し訳無いと思わせてるんだったら、俺の力不足だから。だから、お前は気にしなくていい」
ぐっと、野良の体が強張った。
「でも! オレも、たかあづに何かしたい……!」
野良の、ハッキリとした物言いに驚いた。
野良の声が廊下を反響する。
「じゃあ……」
本当の父親なら、なんて言っただろう。叔父なら、なんて言っただろう。
俺は俺でしかないから、俺言葉でいいのかな……。
躊躇った。
でも、伝えたかった。
「じゃあ、料理。俺が帰って来たら、『おかえり』って言って。暗くなったら、電気を点けて待ってて。暑い日はクーラーも点けて。寒い日が来たら、暖房点けて。そんで、退屈な時でいいから、晩飯作って、俺の帰りを待っててよ。作り方、教えるから。これから沢山、一緒に台所に立って、覚えて」
全部俺の欲しいものだけど、野良に望んでもいいのかな。
『ただいま』と言って、『おかえり』と返してくれる人がいる。
電気の点いている家に帰って、玄関まで晩御飯の香りがする。
そういう幸せが、幼少期の俺には無かったから。
本当は野良に与えてやりたかった。けど、俺が貰っても、いいのかな。
「わかった。…………たかあづが、オレを大事にしてくれるのは、『エゴ』なの?」
見抜かれたようだった。
「エゴ」、ちゃんと調べたんだな、と場違いに感心してしまって、笑った。
「そうだよ。汚い人間だろ、俺」
「たかあづは、優しい人間だよ」
「そんなことない」
「オレが死んでも、死体を掬い取って、手を合わせてくれる?」
「やだな。俺より先に死なないで」
腕の力を強めると、腕の中で身動ぐ気配があった。離して欲しがっていると思って、力を緩め、その身体を解放する。
暫し、見つめ合う。
純粋で混じりっけのない綺麗な瞳が、艶々と光っている。強い意志を灯して、俺を見ている。
引き込まれそうだ。
俺の方は、すっかりその瞳から目を逸らせずにいた。
と、突然、下方向に腕を引かれて、バランスを崩した。傾いた左頬に、野良の唇が触れる。
「蒼志」
「え?」
「オレの名前。中目蒼志」
キスされた頬を抑えて、口をポカリと開くことしか出来ないでいた。俺は今、とんだ間抜け顔をしているに違いない。
野良は―――蒼志は、そんな俺を見て、にこりと笑った。
「蒼志って呼んでよ。たかあづ」
出会ってから今日までて、一番美しい笑顔だった。
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