第三話 落としたんじゃなくて、無くしてたのかもしれない。

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「あら、早速来てくれたの。鷹島さん」  品のよさそうなおばさんが、ひび割れたアスファルトの上の落ち葉を箒で掃いていた。こちらに気が付くと手を止めて、にこりと微笑む。思わず、「ただいま」と言いそうになってしまう。  古いし寂れているのに、温かな親しみを感じるアパート。コンクリートの割れ目から生える雑草は放置しているのに、落ち葉はしっかりと掃除をする大家さんに親しみが湧いているせいもあるのだろう。  一駅先のこの場所に久し振りに訪れたのは、水曜日の昼間だった。  火曜日の夜に「渡したいものがあるから、都合のいい日に寄ってくれ」という内容の電話を貰って、今日は昼から有休を貰った。どうせ、毎年消化しきれない有休だ。思い付いたように使っても、誰にも文句は言わせない。急ぎの案件も特に無かった。 「今月も家賃の振込み、ありがとう」 「いえ。こちらこそ、お心遣いを頂いてありがとうございます」  あっくんの部屋はすっかり片付いていたのに、俺はまだ、二階の角部屋の家賃を払い続けていた。うっかり渡しそびれないよう、支払方法を振込みに変えて貰った。  家賃についても、かなり安くして貰っていた。住まないのにキープさせて貰っていることに関しては、「どうせ新しい入居希望者なんて来ないわよ」と笑ってくれた。感謝しかない。 「今日、丁度美味しいお茶を頂いたのよ。中へどうぞ」  掃いて溜めた落ち葉をちりとりに回収することもなく、大家さんは俺を自宅へ案内する。  頬の筋肉が緩む。 「お仕事は?」なんて訊かないところも心地がいい。あっくんが住んでいただけある。  誰かが湯呑みに注いでくれたお茶を飲んだのは、かなり久し振りだった。  社内は来客時はペットへボトルのお茶を出すことでルールが統一されていた。お茶出しをするのが女性従業員だと言う考え方が古いと反発した女性社員が居たことと、コロナと、来客対応時のこちら側の負担軽減とで、そういうルールに変更になった。  家はまだ麦茶を冷やしていた。そろそろ冬に向けて緑茶を買おうかなと思いながら、麦茶のパックがまだ残っていたので先延ばしになっていた。今年なら、蒼志が俺の為に茶を煎れてくれる未来もあるような気がする。  兎に角、誰かの煎れてくれるお茶というものは、なんだか心臓の辺りを温かくするんだな、なんて思いながら、そのお茶を頂いた。確かに美味しい。 「“玉露”って言うの。私の一番好きなお茶なのよ」 「そうなんですね。丁度頂けるなんて、運がいいです」 「あら。『運も実力の内』って言うじゃない? 運がいいのは、貴方が日頃から頑張っているからよ」 「そうですかね」 「きっとそう。神様はちゃあんと、見てるのよ」  この大家さんにそういって微笑まれると、神様は本当に居るのだという気がしてくる。俺は少し戸惑って、誤魔化す為にもう一口、お茶を飲んだ。 「それで、『渡したいもの』というのは?」 「ああ、そうだった、そうだった」  一度椅子に腰掛けた大家さんは、また腰を浮かして部屋の奥へと姿を消した。それから直ぐに、紙切れを持って戻って来た。 「忘れないように神棚の上に置いてたのに、私ったら」  手渡された紙切れを受け取った。四つ折りにされた、本当に只の紙切れに見える。 「これは?」 「成田さんから生前、受け取っていたものなの」 「えっ!」  慌ててその紙を開く。真っ白な紙の切れ端の、ど真ん中に走り書いたような文字が並んでいた。    ナカメアツシ。  090―✕✕✕✕―✕✕✕✕。  名前と、電話番号だ。 「……ナカメ、アツシ……?」  あっくんの名字は「成田」だ。アツシはアツシでも、あっくんの名前と言うわけではないようだ。 「部屋を暫く空けるって言いに来てくれた日にね、そういえば、この紙を渡されたのよ。『もしも訪ねて来る人がいたら渡してくれ』って」 「誰なんです……?」 「さぁねぇ……。『借金取りなんていやよ』って冗談で言ったら笑ってたわ。『迷惑はかけないつもり』なんて、どっち付かずのことを言ってね」  困ったように、でも優しく微笑む大家さんから、あっくんのその時の様子。これまでの彼女と彼の関係性を想像した。あっくんは、見掛けによらず優しい人間なのだ。 「……大家さん」 「はい?」 「あっくん……成田は、部屋で野良を飼ってたんです……」 「あらまあ」  ペット禁止のアパートなのかそうではないのか。大家さんの「あらまあ」には、少しも怒った様子も咎める様子もなく、あくまでも、少しだけ驚いたような「あらまあ」だった。その様子はとても穏やかだった。 「……それで、今、その野良はウチへ居るんですけど……どうしたらいいと思いますか……?」 「どうしたらって?」 「野良と言っても、帰る家があるらしいんです。……帰してやった方がいいかとも思ったことがあるんです。でも、今は帰しがたくて……。ウチの子にしてやりたいとも思っているんですが……それは、良くない気もして。どうしていいのかもわからなくて。ずっと、ただ、この中途半端さに罪悪感みたいなものがあるんです」  口から出て初めて気が付く。「罪悪感」を感じていたのか、俺は。  誰の為に。何の為に。誰に対して。 「……そうねぇ」  大家さんは、「あらまぁ」と同じ穏やかさを持って、紡ぐ。 「『飼い主さんが心配してるんじゃないの? 返すべきよ』なんて、私は言わないわ。だってね、貴方みたいな人がそんなことを言い出すなんて……つまりはその子にとって、家に居るのが絶対的に安心で幸せとは限らないんでしょう?」  大家さんは玉露の入った湯呑みを口につける。ゆっくりとした所作で、湯呑みを口から遠ざけ、また口を開く。 「私ね、本当は、親とは上手くいかなかったの。お母さんなんて大嫌いだったわ。……それが、ずっと苦しかった」 「…………」 「つい最近のことよ。やっとその罪悪感から解放されたの。『産みの親だからって、愛する必要は無い』って言ってくれた人が居たの。成田さんよ」  そんな気がした。そんなことを、きっとあっくんは言う。  こうすべきだとか、こうであるのが当然だとか、あっくんは言わない。相手の心情に機敏に聡く、破天荒な様子でいて、相手を踏みにじらない。展開する持論は、愛に満ちている。 「いい歳のおばあちゃんがね、わんわん泣いてしまったわ。私はずっと、その事で自分を責めてきたんだって、改めて自覚したのよ。ほら、太宰治の『人間失格』にあるでしょう?『世間とは君じゃないか』」  大家さんはまた一口、静かに玉露を飲んだ。 「だぁれにも打ち明けられなかった。その癖、それを暴かれて、責め立てられるのが怖かったの。誰にも口にしないんだから、責められる事なんて無いし。もし仮に口にしたとしても、責められるなんて決まってなかったのに。私は、誰かという世間から責められることが怖かったのよ。想像の中の他人の言葉なんて、自分の思い込みでしかないなんて事、考えたことも無かったの」   俺も湯呑みを傾けた。口を潤すものが無くて、湯呑みの中が空っぽになっていたことに初めて気が付いた。 「……やだわ。いい歳して自分語りしちゃって、恥ずかしい。つまりね、世間一般的な意見の方が正しいとは限らないのよ。貴方が、見て、感じで、知ったことが真実であって、そこから貴方が、貴方自身の決定をすることを誰も責めたりしない。いいえ、責める人が居たってそれは、ただのノイズよ。周波数の合ってない雑音に耳を貸さなくてもいいの」 「……でもそれは、独りよがりとはどう違いますか? 間違って突き進んでいることに気が付かなくて、……俺だけならまだしも、野良の人生を間違えてしまったら責任が取れない」 「あらあら。その野良ちゃんは、幸せね」 「…………」 「間違うことはあるかもしれない。でも、間違う可能性を考えている貴方は盲進していないから、きっと大丈夫。私に相談することも出来たから。迷ったその時々で、ノイズじゃない言葉に耳を澄ませたらいいのよ。貴方の背中を押してくれる言葉じゃなくても、貴方の大切な人の言葉だったら、そこで沢山、意見交換をすればいい。孤独のまま突き進むことは無いわ」  俺は、大家さんの言葉にとても胸を打たれた。  何処か地に足がつかないようでありながら、一歩ずつしっかりと踏み固めるような気持ちで、彼女のアパートを後にした。  生きとし生ける全てのモノがあっくんのようであれば、きっと世界から戦争や虐待なんて悲しい事件は無くなるだろうと思った。 “死んだ人間は、生きている人の心の中でしか生きていくことが出来ない。”  聞いたことのある言葉。本の中だったか、漫画だったのか。つけっぱなしのテレビの中で聞いた、誰かの言葉だったのか。  本当にそうだと思った。  俺は、死後の世界も、お星様も、お墓も、何も信じて無いけれど。その言葉は“真”だと思った。  あっくんは、皆の心の中で息をしている。―――なんて、カッコいいんだろうか。  死を美談にするつもりはない。彼はきっと、若くこの世を去ることを悔やんだはずだ。そんな様子を他人には微塵にも見せず、一人で恐怖と不安と孤独の中にいたはずだ。痛みとか、苦しみとか、それ以外の何もかもを、俺では上手に想像出来ない。  ごめんね、あっくん。  また思った。 『貴方に出会えて良かった』と思って貰える、『貴方』に、俺は、なれていただろうか。  死んでもずっと、俺はあっくんに助けられている。  一方通行でごめんね、あっくん。
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