8人が本棚に入れています
本棚に追加
窓の外で落ち葉が少しだけ渦巻いて踊っていた。
それに少し気を取られていたので、来客を知らせるベルの音を聞き逃していた。
「…………アンタが、たかあづ?」
未だに聞き慣れない低い声が降って来た。顔を上げると、見たことの無い青年が、訝しげにこちらを見下ろしていた。圧を感じる。彼は、人に圧を与えるのが得意な人間と見える。
「どうも、初めまして。今日は来てくれてありがとう。俺がたかあづです」
俺は立ち上がって、朗らかに笑って見せた。
座るように進めると、相手はソファーにドカッと音を立てて座り、背もたれに背中を預けきって、少し仰け反った姿勢で腕を組んだ。
俺も改めて腰を下ろす。相手は、そんな俺の所作を無遠慮にじろじろと品定めした。
「急に呼び立ててすまなかった。改めて、今日は来てくれてありがとう。何か頼んでくれ」
メニュー表を渡すと、相手はそれを引ったくるように奪い取る。パラパラと眺めて、俺には何も言わずに呼びボタンを押す。
直ぐにやって来た店員さんに、「ホットコーヒーと明太子パスタとポテトとスペシャルパフェ。全部同じタイミングで」と伝えて、彼を早々にホールへ戻らせる。
俺は内心苦笑して、もう半分程になっていた水を一口だけ飲んだ。
「そんで、何?」
「改めて、君が『ナカメアツシ』君だよね?」
「そうに決まってんだろ? そんなつまんねぇ事確認する為に呼んだのかよ?」
相手は不快に眉を寄せた。よくその顔をするのだろう。眉間には深いシワが刻まれている。
俺は水の入ったグラスの水滴を無意識に親指でなぞった。それに気が付いて、両手を膝の上で拳にする。
「違うよ。念の為の確認。気を悪くさせたのなら、すまなかった。でも、人違いだったら、お笑いだろ?」
「ふん」
相手は鼻を鳴らしたが、今度は俺の反応に不快に思ったわけでは無いようだった。
「じゃあ、オレからも訊くけど。おっさん、本当は『ナリタアツシ』って名前なんじゃないの?」
「えっ?」
「あ、ビンゴ?」
思わぬ名前が彼の口から出て来て、俺は思わず取り繕うのを忘れた。素の俺の驚いた表情を見て、アツシ君は愉快げだった。
「お待たせ致しました」
そこで、ウエイターが俺達の間に割って入る。
「ホットコーヒーと明太子パスタ、ポテトになります」
「あ、オレ。この席の注文は全部オレだから。てか、パフェは?」
「残りのご注文のスペシャルパフェについては、もう少々お待ち下さい」
「全部同じタイミングって言ったんだけど?」
「申し訳御座いません」
「それ、本当に申し訳無いと思って言ってんの?」
「……申し訳御座いません。直ぐにお持ち致します」
「ま、良いけどね。直ぐ持って来てね」
「……はい。只今」
ウエイターが会釈して席を離れると、アツシ君はしたり顔をこちらに向けて、背もたれから背を浮かした。
「聞いた? 少し待てっつってたのに、『只今』お持ち出来るんだって。ムジュンしてね?」
俺は彼の機嫌を損ねることを気にして、なんとも紡げなかった。アツシ君は、さっと表情を消し、目の前のパスタを食べ始める。
パスタ、ポテト、コーヒーと、一口ずつローテーションしながら口に運んで、二週目くらいでスペシャルパフェが来た。スペシャルと言うだけあって、器も普通よりも大きく、リンゴ、桃、マスカット、オレンジ、サクランボと、沢山のフルーツが乗っている。
「アンタの言う『只今』って、ケッコー遅いのな」
アツシ君の毒づきに、ウエイターは変わらぬ表情で軽く会釈をしてその場を去った。こういう客も、少なくはないのだろう。
「見た? 今度はお得意の『申し訳御座いません』も無いよ。カンジワルイ店だね」
「礼を尽くさない人間に、尽くす礼はないよ」
「は?」
「あっ」
ついうっかり、本心が口から出てしまった。
アツシ君は眉間に深くシワを刻み、半眼で俺を睨み付けた。明らかな怒気を含んでいる。
蛇に睨まれた蛙……と言う気持ちにはならない。本来、このような子供に恐怖心なんてものは抱かない。
失敗した、と思うのは、これからの事を思ってのことだ。冷や汗がこめかみを伝う。
それでも、睨み付ける彼の視線から逃れることはせず、真正面に見詰め返した。
「……まっいいや」
すると彼の方も興味を無くしたように言って、また食事を再開した。今度は先程のローテーション食べに、パフェも加わった。パスタ、ポテト、パフェ、コーヒーの順だ。
食事の間、彼はこちらを見なかった。会話もない。
俺の方も食事の邪魔はしないように、再び窓の外に目をやった。
時折吹く強い風に肩を竦めて、足早に歩く人達。もう直ぐコートを出す必要がありそうだ。
「そんで、何?」
すっかり食事を終えた彼は、コーヒーのおかわりを頼んで、ソファーの上で胡座をかいた。
「御馳走様」を聞いてないことに気が付いて、そう言えば「頂きます」も言わなかったな、と気が付いた。
「……俺はたかあづで、『ナリタアツシ』ではないよ」
途中になっていた話を、改めて再開する。
「別にどっちでもいいし。お前が『たかあづ』でも『ナリタアツシ』でも『田中太郎』でも、興味ねぇわ」
田中太郎、の名前に少し笑いそうになる。
アツシ君はすっかり背もたれに投げ出していた右腕をテーブルへ持って来て、コーヒーを一口飲んだ。
「君はブラックのコーヒーが飲めるんだね」
「何? おっさんは飲めねぇの? ガキだね」
「蒼志は未だに飲めないから。でも、『いただきます』と『御馳走様』は言える」
ピタ、と、空気が止まった。
暫し、店に静かに流れるBGMに耳を澄ませる。客同士の会話を邪魔しない程度に控えめで、だけど一人客に寄り添うようなジャズ。
薄暗い店内とは関係無しに雑談を興じる客や、明らかにビジネスに来ている客、趣味に没頭している一人客、様々な人間がこの空間に居た。そんな中で、打ち明けることにそれ程の抵抗はなくなっていた。
誰も彼も、俺達の話になんて興味ない。
「蒼志は、俺のところに居る」
真っ直ぐ、アツシ君の目を見て言い放つ。一握りの勇気くらいは必要だった。握った拳に汗をかいた。
けれど、彼は右側の口角を上げて、「ハッ」と笑った。
「何アイツ、生きてたの?」
そこに、わざわざ取り上げるような感情なんて一つも含んでいないようだった。
「つっても、アイツが家出してたとか知らなかったし。興味もねぇわ。飯食わせて貰ったところ悪いけど、見当違いだったな。実家とか全然帰ってねぇし、返品も受け付けてねぇよ」
「別に。取り次いで貰おうとか引き取って貰おうとか、思ってないよ」
「へぇ? じゃあ、何? 俺に何の用?」
「純粋に、君に会って見たかった」
「嘘だね」
「嘘じゃないよ」
半分嘘だ。本当は、蒼志の家の情報を少しでも聞き出せたら良いなと思った。彼の親は息子の失踪をどう思っているのか? そこで、今後の事を判断したかった。
でも、半分は本当だ。俺は、蒼志の兄がどんな人物なのか興味があった。
蒼志と同じ名字を持つ『ナカメアツシ』が、蒼志と血の繋がる誰かということは直ぐに予想出来た。親なのか兄弟なのか、はたまた親戚か。
電話をかけてみようと思った日から、実際にかけるまで、少しの時間が必要だった。
見ず知らずの番号を訝しんで、それでも応答した彼は、本当はどんな人物なのだろうか。
喋り方も、声も、言葉選びも、実際に会ってみて、その顔も、何を取っても蒼志とは似ても似つかない。
けれど、彼は、蒼志と同じ家に生まれた兄弟なのだ。
「嘘だよ。人間なんてのは、皆一緒。損得勘定でしか行動出来ないんだよ。オレに会うことで、何かおっさんは利益を見込んだはずだ。こんな小洒落た喫茶店に呼び出して、好きなもんを食べさせて腹を満たして、切り出す。何か、機嫌を取ってオネガイしたいことがあるんだろ? 違う?」
「…………」
「知ってる? 無言って肯定ってことなんだぜ?」
「……聡明なんだな。半分正解。でも、半分は本当だよ。君に会ってみたかった」
フン、とアツシ君は鼻を鳴らした。少し得意気だ。
「そんで、半分の目的はなんなわけ?」
「不躾なお願いだと重々承知してるんだが……」
「そういうのいいから」
「……君の家のことが知りたい」
「家? 住所とか?」
「…………それも勿論知りたいことだけど……。家族構成とか……親御さんの事とか……」
「ふぅん? まあ、別にいいけど?」
アツシ君は案外素直に、家族構成や住所、親のこと……俺の訊いたことを全て話してくれた。俺は慌ててメモを取った。
アツシ君は長男で、蒼志は次男。他に、まだ幼い妹がいること。
アツシ君と蒼志の実の父親は随分昔に家を出たこと。幼い妹は誰との子供か知らないこと。新しい父親が居るらしいこと。
住所は予想通りと言うか、あっくんの家からそんなに離れてはいなかった。
「あの人、新しいカゾクごっこが楽しんじゃないの? だから、オレや蒼志が出てって、ラッキーくらいに思ってるんだろ、絶対」
『あの人』は、母親の事だ。
蒼志がいつか口にしていた『あの人』もきっと母親のことで、コーヒーを好んで飲むのだろう。
蒼志はコーヒーを飲みたがった。
ブラックコーヒーを二杯飲んだ目の前の彼。
「…………」
差し出がましいことを思ったが、口にはしない。彼らだけの事実を、俺の憶測で踏みにじることを躊躇わない人間になりたくない。
改めて、目の前の彼を見た。
背もたれにもたれ掛かって、腕を広げ、体を大きく見せているが、巨漢というわけではない。気迫だけで、どんなに眉根を寄せようとも、テーブルを叩いたりして威嚇することも、怒鳴り付けることも無かった。そんなに気が強いわけでも、悪い奴と言うわけでも無いのだろう。
「……君は、今、何処に住んでるの?」
「別に。知り合いの家とか女の家とか適当に。なに? オレにも同情してくれるの?」
同情、と言う言葉が刺さった。
「オレ、嫌いなんだよね。おっさんみたいなニンゲン。搾取したくなる。オレらのこと、不幸だと思ってカワイソウとか言うんだろ? そんで、搾取すんだよ。無自覚に。腹が立つ。実際、なんも助けてくんないくせに、自己満足に酔うんだ。良かったな、おっさん。底辺の人間に出会えて。さぞ、気分がいいんだろうよ」
「そんなつもりはないよ」
「どうだか」
「信用出来なくても仕方がない。君と俺は今日会ったばかりだから。だから、時々こうして会えないかな?」
「なんで? おっさんになんかメリットある?」
「君と友達になりたいから」
あほくさ、とアツシ君は鼻で笑う。完全に信用しきっていない、小馬鹿にしたような笑い方だった。
けれど、彼をそうしてしまったのはこれまで彼に関わりを持った人間で、月日だった。彼は悪いニンゲンではない。それが知れて俺は、ホッとした。それから少し、嬉しかった。
「嘘じゃ無いけど、信じれなくていい。搾取してくれていい。会う度、好きなメニューを頼むといい。君の言うように、損得勘定がなければ胡散臭いなら、あるよ。俺は友達がいないから、友人と呼べる人間が欲しい」
「ハッ」
また笑う。
「オレとおっさんが友達になれると思う? つか、そんな言葉信じられると思う?」
「信じてくれなくてもいいよ。でも、また呼び出すから、気が向いたら来てよ」
「気が向いたらな」
先程までよりは少し面白そうに笑って、アツシ君は顔を歪めた。
話しは終わりと判断したのだろう、彼の方から席を立つ。俺も一拍遅れて立ち上がった。
「それから」
「何?」
「産みの親だからって、愛さなくてもいいんだって」
「何それ。別に、愛してねぇけど」
「いや、ナリタアツシの言葉。急に思い出して」
「……結局、ナリタアツシって誰?」
「俺の親友」
「……いんじゃん、トモダチ」
「死んじゃった」
「………………ふうん?」
アツシ君はなんとも言えない表情をした。
「……………今日の話、蒼志に黙って来たんだろ。おっさん、そうゆうとこがダメなんじゃない?」
「……なるほどな。確かに、良くないことだろうなと思ってた」
「良くないと思ってもしちゃうんだ」
「ダメな大人だなと思う」
「あっそ」
その後はお互いに続く言葉もなく、彼は店を出た。
俺はそれを目線だけで見送って、再び席に座り、メニュー表を開いた。
昼下がり。
まだ、水しか飲んでいなかった。
最初のコメントを投稿しよう!