第一話 雨の日の、拾いもの。

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 来る途中に通り過ぎたスーパーで適当な食料を買って戻ると、野良くんはまだ同じ場所で膝を抱えていた。さっきと違うのは、その顔が膝を抱える腕の中に隠れてしまっているということくらい。  玄関を開ける音で俺の帰宅には気が付いているはずだった。「ただいま」という言葉は適切ではない気がして、声こそは発することは無かったけれど、驚かせないように念の為、足音をわざと大きくさせて入室した。  まさか、寝ているということはないだろう。  少しの間だけ様子を見ていたが、その間にも「早く飯を寄越せ!」と言うような腹の音の催促が凄い。  俺は床に転がる障害物を足で退けながら彼の前に進み、その直ぐ横に座った。  息を飲む音が聞こえた。……気がした。  部屋は相変わらず薄暗い。野良くんは微動だにしない。異臭とまでは言わないが、埃っぽい臭いに混じって生乾き臭のような独特の臭いがする。それから、微かに煙草の匂い。あっくんの匂い。  息を吐く。  それから、ビニール袋の音をわざと大きめに立てながら、中の弁当を取り出す。 「唐揚げ弁当と親子丼、どっちがいい? あとさ、お茶は麦茶派? 緑茶派?」 「…………」 「電気とか通ってんのかね? あっためる?」 「…………」 「つーか、家賃の支払いとかどうなってんだ?」  一向に応答がないので、一人言を続けることにした。これからまた物理的に距離を開けるのは、ちょっと心が折れてしまいそうなので、電子レンジが使えるのかを調べることは断念した。野良くんの横でいそいそと弁当と丼に巻かれている透明なフィルムをそれぞれ剥がし、割り箸を一膳だけ割った。 「俺、唐揚げの気分だから。君は親子丼ね。あ、アレルギーとかある?」 「食べられないものだったら無理すんなよ。また買って来るし」 「唐揚げがしっかり油っこかったから、俺、緑茶ね」 「冷める前に食えよ。……って、まぁ、常温なんだけど」  一人言を言うのも辛くなって来て、あと一口で唐揚げ弁当も御馳走様だと言う時に、野良くんは隣でゆっくりと顔を上げた。 「…………」  足先に置かれた親子丼に視線が注がれている。 「食えって」 「…………」  野良くんは、割り箸と一緒にビニール袋の中に残っていたスプーンの方を手に取ると、親子丼に手を伸ばし、食べ始めた。 「ありがとうございます」も「いただきます」も無かったけど、野良くんがやっと俺の買って来たものを食べてくれたことを何よりと思える俺で、何よりだな、なんて思った。  野良くんはその後、ビニール袋の中のタマゴサンドも鮭や昆布のおにぎりもすっかり平らげた。ゴミを片付けると言う思考は存在しないらしく、彼の傍のあちこちに散らばるそれらのゴミを、せっせと集めて割り箸だけ残ったビニール袋に入れた。 「それで、君は誰?」  なるべく野良くんを刺激しないよう、彼の方に視線を向けずに訊く。向こう側の、少し捲れた壁紙の端を眺める。それから、去年の十二月から捲られていないカレンダー。年を越せなかった部屋。時の止まった空間。カーテンの隙間から微かに入り込んだ光が、部屋を舞う埃を照らす。家主を失った部屋。  急に、胸がつっかえた。 「……あっくんの、……あつしの、親戚か何か?」  多分違うのだろう。そう思いながら、訊いた。親戚なら親戚って言うだろう。「野良」なんて表現しない。そもそも、血縁者の話なんて聞いたことがない。 「…………敦士は、トモダチ」 「!」  初めて会話が成り立ったことに驚き、つい野良くんの方を見てしまった。そこで思いがけず、野良くんと目が合う。  真っ直ぐに向けられた目には暗い影が灯っていた。だけど、白い肌、線の細い輪郭に、くっきりとした黒目勝ちな瞳、それを隠すような長い睫には、性別を疑う程の美しさがあった。実際、短髪の女の子だったのではないかと、不躾ながらその胸元に視線をやってしまう。……平らだ。何とも判別し難く、またその顔へと視線を戻す。 「……あなたは、誰?」  痩せた唇から出てくる声は、高過ぎず低過ぎず。男キャラクターの幼少期を演じる女性声優のような声だった。  飯のお陰だろうか。影はあるものの、少なくとも先程よりもかなり警戒心を解いてくれたように見受けられる。 「確かに。突然知らないおっさんが来たら、ビビるよな」  俺は一人で頷いた。  彼……もしくは彼女、は、誰だろう? とか、警戒されてるなぁ、よりまず先に、自分の身分を明かすべきだった。それこそ、「あつし」の帰りを待っていたであろうこの部屋で、鍵を持った別の男が突然踏み込んで来たら、俺だってビビる。 「俺も、あつしの友達。たかあづ」 「……たかあづ……」  本名を言うべきか一瞬考えたが、この部屋の中では「たかあづ」で居たかった。何処であっくんが聞いているかもわからない。本名なんて知ってしまったら、なんとなく、白けてしまう気がする。 「……たかあづは、どうして敦士の家の鍵を持ってる? 敦士は、…………」 「いつ帰って来るの?」「どうしたの?」……続く言葉を想像したが、結局、野良はそのまま口を閉ざして、また膝を抱く腕の中に顔を突っ伏した。 「…………」 「…………」  再び降りた沈黙。 「……君の家は、此処?」  微かに首を降る。 「明日も居る?」  首は縦に振れた。  改めて、部屋の中を見回す。ゴミの散乱する部屋。幸いにも、匂いの出るものは転がっていないようだが、見た目は悪い。あちこちに落ちている週刊誌。端に避けられた黄ばんだ布団。部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の上にも、おにぎりの袋やら惣菜パンの袋やら空のペットボトルがいくつも転がって、場所を占領していた。 「……片付けしてもいい?」  はっとした様子で、野良は顔を上げた。 「僕も、するっ!」  僕っ娘。いや、本当に、どっちだろ。掴まれた左腕がじんと熱い。
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