第一話 雨の日の、拾いもの。

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 次の日は日曜日で、俺はまたあっくんのアパートを訪ねた。  ドアノブを捻ると鍵がかかっていたので、野良はまだ来ていないのだろうと鍵を捻って開けると、中から走ってくる者がいた。野良だ。  期待に輝いていた目が、俺の姿を認めるとサッと陰を落とし、踵を返してしまう。昨日と同じ隅っこまで行くと、そこで膝を抱えて蹲る。 「………」  俺は少しだけ眩暈を感じた。  少しだったけど、昨日、話をした。一緒に片付けをした。証拠だってある。この部屋だ。昨日は足の踏み場も無かったのに、今日は綺麗に片付いている。纏めたゴミだって、昨日の内に市役所に持って行って捨てていた。  全て確かについ昨日の記憶なのに、野良との関係はまるでリセットされたようだった。 「……元気?」  会話が浮かばず、我ながら冴えない声掛けをしてしまった。見るからに、野良は元気な様子とは程遠い。  野良は何の反応も見せずに、膝を抱える腕の中で相変わらず顔を伏せている。  静かで、気まずい沈黙だった。まさか、さっきの今で寝ているわけでも無いだろう。 「……お腹、すいてない?」  ピクリ、と野良の肩が揺れた気がした。  腕時計を見る。朝、十時二十三分。朝御飯を食べられていないのか、少量だったのか。野良には『常に空腹』みたいなイメージが既に出来ていた。昨日の、がっつくような食べっぷりのせいだけではない。服から覗く腕や足首が、あまりにも細いのだ。あっくんが野良の飯の心配をしていたこともあって、ますます野良には飯が必要なのだと言う裏付けにもなった。 「俺も朝飯、まだなんだよね」  嘘だった。  毎朝、ご飯と味噌汁を食べなければすまないタチである。卵焼きも自分で焼く。一日のエネルギーになるよう、砂糖を多めに入れてかなり甘く仕上げる。牛乳とマヨネーズを少しばかり入れることで、俺好みの卵焼きになる。一人で卵二つ分の卵焼きを毎朝食べている。  朝食は八時半に済ませた。まだ、腹は減っていない。 「なんか買ってくるけど、何かいる?」 「…………」  野良は返事をしなかった。想定済みだった俺は、心の中で小さく息を吐く。 「適当に買ってくるから、一緒に食べよ」  俺は先程入って来た玄関から、また直ぐに外へ出た。  のり弁。親子丼。タマゴのサンドイッチ。レタスとハムのサンドイッチ。鮭のおむすび。そぼろのおむすび。プリン。ヨーグルト。麦茶。ブラックコーヒー。  買ったものを野良の足元に並べると、買い過ぎたなと少し反省した。  野良が何を好きかわからないので、昨日と重複するものも買った。一方で、ひょっとしたらあったら喜ぶのではないかと、デザートも買ってしまっていた。 「好きなの選んでいいから。どれがいい?」  野良はやっと顔を上げた。  じっと、足元に並べられた品々を眺める。 「…………親子丼」 「!」  昨日も食べたものだ。どうやら、気に入ったらしい。やっと声を聞けたことも合間って、不覚にも嬉しい気持ちになった。昨日の反省を生かして、スーパーで既にレンチンしておいた自分、グッジョブ! と心の中でガッツポーズまでした。 「サンドイッチは? おにぎりも、二つずつ買ったけど、一つずつ選ばなくていいよ。食べたいの食べて」  飲み物は? と重ねて聞いてしまって、流石に過保護な親のようだったかな、と反省した。  野良はそれには特に何も指摘せず、タマゴサンドとおむすびを二つ、自分により近いところへ移動させた。デザートはプリン。飲み物は、意外にもコーヒーを選んだ。  ブラックコーヒー、好きなの?  完全に自分用のつもりで買っていたのでつい、そんなことをいいそうになった。深読みされて、お茶と交換させてしまってはいけないと思って、直前でその台詞を飲み込む。 「食べようか」  代わりに口から出した言葉に、野良は小さく頷いた。  割り箸を割って、「いただきます」をすると、野良も思い出したように俺の所作を真似た。  野良は相変わらずスプーンで親子丼をがっついた。  少し間を空けて腰を下ろしていた俺は、野良の邪魔にならない程度にその様子を眺める。……というより、改めて、野良のことを観察した。  目が隠れるくらいの長い前髪。後ろ髪は短いが、揃えているようではない。ボサボサと表現するのが相応しい様子で、所々絡んでいるのが見てわかる。  服から覗く細い腕や足には、アザのような傷は見受けられない。暴力は受けていないようだ。 (…………ネグレクト)  それも立派な虐待だ。  俺は早々に、野良の置かれている境遇にあたりをつける。片付けられた部屋は、それでも壁や畳に臭いを残していた。けれど、全てが部屋の臭いと言うわけでは無さそうだった。  野良は黄ばんだ、七部袖を着ていたが、実際にはそれは長袖だったのではないかと思う。サイズアウトした古着をいつまでも着ているような印象を受ける。あまり違和感がないのは、野良が過剰に細いせいだろう。履いているズボンだって、ダメージジーンズでも無いのに、破けている箇所を継ぎ接ぎすらしていない。足は裸足だ。そう言えば、玄関に俺以外の靴がない。まさか、裸足で出歩いているのだろうか……? 「ンンッ……?!」  その時、野良がいきなり噎せた。口にしていたブラックコーヒーが手から落ちてしまい、畳の上に盛大に零れた。 「わっ、大丈夫っ?!」  慌てて缶を起こし、背中を数回叩いた。暫く咳が落ち着かず、時々「おえっ」と言う音が混ざる。ヒヤヒヤとする。 「…………に、(にが)っ……」 「『苦い』?」  咳がやっと治まった頃、野良は小さく呟いた。思案は零コンマほどで、直ぐにハッと思い当たる。元凶は既に畳に染み込み、黒い池を作っていた。 「コーヒー、好きじゃなかった……? え、初めて飲んだの?」 「あ、が飲んでたものだったから……」  小さな声が告げる。恐らくは先程の咳のせいでかすれ気味だった。  あっくんのことなら、『敦士』と言うだろう。「あの人」は俺達の間に初めて登場した第三者だった。 「飲んでみたかったんだ?」  咳が落ち着いた様子だったので、そこら辺で見たタオルを手に取り、零れたコーヒーを拭いた。その様子に何故だか、野良は怯えた様子で身を固くした。 「ご、ごめんなさい……」  消え入るような声だった。  改めて、野良の顔を見る。顔面蒼白と表現するのが相応しい様子で、微かに震えていた。 「…………。零れたものは拭けば済むし、無くなったコーヒーがまた飲みたかったら、また買い足せばいいだろ? 汚れた畳は……この部屋にとっては今更だし」 「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」 「だから、『怒ってないよ』ってこと」  自分の体を抱き締める野良の腕を、トントンと優しく叩いてみた。そんなことで野良の防御は解かれなかったが、どういう行動が逆効果になるかわからなかったので、それ以上の過度な介入は避けることにした。  台所へ行き、コーヒー色に染まったタオルを洗って、洗い場の縁に干す。  先程の場所に腰を下ろして、お茶の蓋を開けた。 「こっち飲んでいいから。残されると困るし、食べちゃお」  言うなり、飯を食べる手を進めると、数十秒遅れて、野良も黙々と残りの飯を食べ始めた。
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