第一話 雨の日の、拾いもの。

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 月曜日。  は、流石に仕事だ。  朝から雨が降っていた。少なからず憂鬱な気持ちを味噌汁で流し込み、食器を洗ってからスーツに腕を通した。  都会のそれほどではないのだろうが、十分に混み合っている電車に揺られながら、会社の最寄り駅で降り、傘を広げる。 (流石に今日は居ないだろ……)  会社までの道のりで考えることは、野良のことだった。 (飯食えてるかな……。あ、学校で給食があるのか……、いや、あいつ、学校に通えているのか……?)  身なりを思い出す。学校に行けていたとして、友人は居ないのではないだろうかと思った。孤立している野良の、丸めた背中が浮かぶ。集団の中の独りほど、孤独なものは無いだろう。教師はどうだろうか。児童相談所にでも連絡しないものなのだろうか。 (……俺も、してないしな……)  それが実際にネグレクトなのか、確証があるわけではない。 「か、ちょ、おっ!」 「ぅわ!」  オフィスがある階のエレベータを降りて直ぐ。横から場違いな明るい声がした。背の高い観葉植物に身を潜めていた部下が、ばあ! とばかりに飛び出して来た。 「そんなところで何やってるんだ、お前」 「えっへへ! 課長が来るの、待ってました」  語尾にハートが付きそうなものの言い方に、口元に手をやって腰をくねらせる所作を合わせる。上目遣いまで完璧に決めている。 「そんなことしても全然可愛くない」 「ええー? ひっどーい」  と言いつつ、冗談のスキンシップはここまでと、肩を並べて歩き出す。 「先週相談させて頂いた資料、出来たんでまたご確認して頂きたいんですが、いいですか?」  先程の裏声とは違い、落ち着いたトーンでしれっと日常会話に切り替える。彼は先程までの奇行とは異なり、仕事面に於いてはなかなか優秀で、気にかけている部下の一人だった。 「朝一は会議が入ってるから。昼からならいいぞ」 「やった! じゃ、昼一で席にお持ちしますね! 因みに、お昼にランチ行きません?」 「弁当がある」 「じゃ、ランチルームで一緒に食べましょう」 「お前のは無いぞ?」 「買って来るので、数分だけ待ってて下さいね。あ、また眉間にシワが寄ってますよぉ?」  彼――濱崎千里(はまさきせんり)はこちらを覗き込みながら、自身の眉間を人差し指で押した。 「可愛くない」と言っておきながら、非常に可愛い顔立ちをした男である。華奢な体つきだが、野良のような異常な細さではない。小柄な印象を与えるだけで、背が極端に低いと言うわけではなく、百七十センチくらいはあるとみた。俺より少し低いくらい。  いつの間にか、近くに出来た新しいカフェの話になっていた千里の声は右から左へ。突き当たりのオフィスに着くなり、千里も「それじゃあまたお昼に!」と自席へ向かった。  あいつは無駄に、いつもにこにこしているよな。―――そんなことを思いながら、野良の顔が浮かんだ。  あっくんが帰って来るのを待ちわびて、玄関が開く度に目を輝かせながら走り寄る。その顔はお世辞ではなく綺麗だ。だけど、直ぐに陰を落とす顔。来訪者があっくんではないと知るとたちまちに漂う、どんよりと重い空気。  野良に会ったら、流石のあいつも戸惑うのだろうか。それとも、野良の方が戸惑って、膝を抱えて静かに突っ伏していられなくなるかもしれない。……恐らく、後者。  自席の後ろ、大きな窓の向こうはどんよりと暗く、相変わらず雨が降り注いでいる。 (……まさか、今日は居ないだろう……)  窓を背に座る。パソコンを立ち上げて、朝一の会議資料にさっと目を通し、最終確認をした。  退勤したのは、午後七時過ぎだった。  会社を出た時、まだ雨が降り続いていたことに気が付いた。  傘を開き、商店街のアーケードに迎いかけた足を、最寄り駅の方へと方向転換させた。 (まさか、居ない。でも、居るかもしれない)  仕事中は切り替えていた危惧が、退勤と共に甦る。  自分の住むアパートの最寄り駅を越して、あっくんのアパートの最寄り駅で降りる。スーパーで親子丼を買って、レンジまでかけた。居ないかもしれないのに、と思っているくせ、本当のところはほぼ確信に近い形で、「居る」と思っている。  土日に通って、今日で三回目。まだ慣れ親しむには訪問回数の少ないはずのあっくんのアパートが、最早、地方の旧友の家のような馴染みがあった。  あたかも自分の家の如く、鍵を開けてドアノブを回す。 「あ、」  逸る気持ちで扉を開けた。が、そこには暗闇が広がるばかりで、人影は見当たらない。念の為に目を凝らしてを見たが、やはり人影はなかった。 (……そりゃ、そーだよな)  右手に温めた親子丼。それから自分用にカツ丼。ずっしりとした重さが、虚しさに変わる。……否、これはいいことなのだ。野良は本当に此処に住み着いているわけではなくて、ちゃんとこの雨を凌げる別の家に住んでいるのだ。  ホッと、するところだったはずだ。  自分のアパートへ帰ろう、と踵を返した時、階段を駆け上がるような音が聞こえて来た。  まさかと思ったが、上りきった人物は、明らかに野良だった。  息を切らせ、髪という髪は皮膚に貼り付いていた。髪だけではなく、その着ている服も、水分を多分に含んで重たく野良の体に貼り付いていた。 「傘はっ?!」  慌てて駆け寄る。傘を持ってないのは明らかだった。スーツが濡れるのも気にせず、抱き寄せた。野良には、そうさせる何かを持っているように思う。  細く、冷たい身体が震えていた。 「兎に角、中へ!」  導いたのは、あっくんの部屋だった。
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