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俺はいつか結婚するだと思っていた。
別に、結婚願望があった訳じゃない。けど、当たり前に、誰かと付き合い、それなりの年齢になったらプロポーズして、結婚して、家庭を持つ。子供も二人くらい。そんな風に。
だから、俺は所謂ファミリー向けのアパートに住んでいた。
三十四歳、独身。結婚秒読みのパートナーどころか、恋人も居ない。
有り余る部屋と空間。
願望なんて無かったくせ、流石に虚しさくらいはあって、このアパートはそんな気持ちを助長させる。
だから毎晩のように飲みに出た。そこで出会ったのが、あっくんだった。
今。
俺のアパートの中に、来訪者がいる。
しかし、そいつは本名すら知らない男で、しかも多分学生で訳あり。下心があるわけではないが、俺の家の風呂に入っている。
重ねて言うが、下心があるわけではない。が、何故か落ち着かず、自分の家に帰って来ているのに立ったり座ったりと落ち着かない。
脱衣所に用意した服はあれで良かったのかとか、風呂を沸かせてる間にコンビニに行ってパンツを買って来たことをどう思ったのかとか。そもそも、親御さんに連絡しないままに連れ回して良かったのか? 本当に自分は正しい行いをしているのか。
気が気で無かった。
きっと、少し踏み込んで話を聞かなければならない。彼の家に、電話をすべきなのかもしれない。普通の親なら多分、心配しているだろう……。
(……どうなんだろう)
三十を超して、もう自分は若くないと感じることが多かった。いつまでも若輩者な気分で居てはいけないと仕事に取り組んで来たし、それなりの成果はあげてきたと思う。それは自他共に認められて来たと言う自負がある。だから、社内では最年少で課長職についた。
でも、この人生で、こんな経験は初めてで。こんな時どうしたらいいのかを考えることも初めてだった。
(家に着いて来てくれるとは思わなかった……)
名前は教えてくれないくせに、「俺ん家に来ない?」と訊けば頷いたのだ。
ダメ元だったから、驚いた。因みに少し、足元が浮わついた。下心とかそんなんじゃなくて、心を開かなかった他人が、少しずつ、自分に心を開いてくれていく様子は素直に嬉しかった。
「……あの、」
「わっ、上がってたんだ?! どう? 身体、温まった?」
「…………うん」
ありがとうございます、とは言わない。未だに彼の口から聞いたことのないフレーズだ。それに多分、敬語も知らない。親子丼を食べる時の、グー握りのスプーンの持ち方が気になっていた。教養どころか、マナーなんて習ったことが無いのではないか。やっぱり彼は、放置子として育って来たのではないのだろうか。
だからこんな時間だろうと、誘われたらアパートに来て、なんの疑問もなく、言われるままに風呂に入ったのではないのか。
チリ、と胸が痛んだ。なんだか、得体の知れない虚しさや、怒りの種のようなものを胸の奥に感じた。
「……スマホ貸せるけど、家に連絡する?」
野良はハッとした表情を見せた後、直ぐに視線を落として首を振った。
「じゃ、次にすることは髪を乾かす事だなぁ。こっち来て」
野良の髪からはボタボタと雫が落ちていて、用意していた服の上に沢山のシミをつけていた。これでは、風呂で暖まって貰っていた意味がなくなってしまう。
手を引いて、洗面所へ連れて行き、髪を乾かした。
「…………前髪さぁ、良かったら切ってもいい?」
鏡の向こうで驚いて目を丸めている野良が、何だか愛らしく思えて来て、気が付けば訊いていた。前髪を手櫛してやると、水分が幾分か乾いた前髪はさらさらと揺れて、忽ちに彼のビー玉みたいな瞳を隠した。
「邪魔じゃない? それとも、伸ばしてる?」
首を横に振る野良。二つの異なる質問をしたから、どちらに対して否定してるのかわからない。
「切ってもいい?」
もう一度訊くと、野良はコクンと頷いた。
また俺の心の奥が、じんわりと灯る。
誰かに何かをしてあげることって、こんなにも暖かい気持ちになるのか、と思った。
それはひょっとしたら、自己満足かもしれない。傲りかもしれない。でも。
ハサミを入れている間は身を委ねて目を閉じていた野良が、「終わったよ」と言う合図に目を開き、鏡越しで少し柔らかく笑ってくれたことが、その時の俺には全てに思えたのだった。
布団に入って眠る前、改めてもう一度確認しておかなければいけないことがあった。
「これ以上訊かないけど、最後にもう一度訊かせて。お家の人に連絡しなくていいの?」
野良は肯定して頷いた。
未成年誘拐。……そんな新聞の見出しを考えなかった訳じゃない。けど、俺は無知のふりをした、それが本当に良かったのかは未だによくわからないが。野良から無理矢理にでも家の連絡先を聞き出し、連絡をしようものなら、野良はもう俺の前に姿を表してくれないのではないかと言う予感があった。
一般的に「正しい」と言う行いは、当事者にしっかりと寄り添っているものなのか疑わしい。
そんなことを、生まれて初めて考えた。
(……警察に話すべきなのかもしれない)
知らない子供を保護したと。家も連絡先も知らないので、取り敢えず保護していると。
でも、そんなことをしたら、俺が野良のこれからを見届けることはなくなるのだろう。
(……「これから」?)
自分はどうやら、彼に保護欲のようなものを抱いているようだった。親心とは違うのだろうが、親になったことが無いので比較のしようがない。兎に角、彼のことを心配していて、まだ傍に居たいと思っている自分がいた。
それに、どうせならもっと懐いて欲しい。そんな欲も出ていた。
持て余していた部屋に、来客用の布団を敷いた。久々に出すものではあったが、先程、布団乾燥機のダニ対策モードにしてかけていたので、ダニ被害を受けさせる事はない……はずだ。
「俺は隣の部屋で寝るから。この部屋は自由に使ってくれていいよ。空き部屋だから」
書斎として使おうかと思っていたので、背の高い本棚が二つ並んでいる。が、それ以外は何も置いていない部屋だった。それでも、喜んでくれるだろうと思った。一人部屋と言うのは、俺にとっては自由の象徴のようなものだ。
「…………」
けれど、何故か野良は表情を曇らせた。
「……何かあったら、直ぐ呼んで。あ、寝られなかったら本棚の本、自由に読んでくれて構わないから。……おやすみ」
「…………」
こくり、と頷くだけで、野良は部屋に入り、戸を閉めてしまった。
(……なんだ?)
何かいけなかっただろうか。
部屋の中の様子、先程のやり取りを頭の中で反芻したが、まるで不快にさせるような点は見当たらない。
もやもやとしたまま、結局はそれらしい答えに辿り着けずに、俺も自室へ迎い、眠りについた。
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