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朝、目が覚めて、野良がいたことに驚いた。
この家に招き入れたのは昨夜のことで、すっかりそれを忘れて寝惚けていたわけではなくて。
文字通り、目を開けると目の前に野良の寝顔があったのだ。
「…………」
驚いたが幸いにも声は出ず、そのまま、起こさないようにそろりそろりとベッドから降りる。捲れてしまった布団を、肩までかけてやった。
暫しその綺麗な寝顔をまじまじと眺めてしまったが、抜き足差し足で、自室を後にした。
直ぐに隣の部屋の様子を伺った。布団にやはりダニが居て、痒過ぎた……もしくは他に、不具合が何かあったのだろうかと思った。が、開け放した部屋から伺ったところ、彼はその布団を使わなかったらしいことがわかった。どこも乱れがなく、俺が敷いたままの布団に見える。
代わりに、本が窓側の隅の壁に数冊置いてあった。拾い上げる。子供の頃に読んで、好きだったから捨てられずにいたライトノベルだった。親も身寄りも無い少女が、旅に出る話。戦士として作られた男と、恋に落ちる話だった。
読んだのかどうかわからない。一冊は結構分厚い。それに、一緒に転がっているのは二巻ではなく、また違うラノベの五巻だった。
それらを手に取り、元の本棚へと戻す。部屋の中を再び見回したが、他に変わった点はない。
出社までの時間も限られているし、取り敢えず朝御飯を作ることにした。
ご飯と味噌汁。それから、卵焼き。食後のコーヒー。これは一日を送る上で外せないルーティンだった。
炊飯をかけている間に顔を洗い、頭も洗面所で洗う。髭のチェック、歯磨き。髪を乾かし、セットする。
野良が部屋で寝ていること以外、本当に何も変わらない朝が訪れていることが、何だか拍子抜けだった。
朝のテレビを点けて、ニュースをチェックする。見慣れたニュースキャスター、アナウンサー達。ラインナップされたニュースの中に「誘拐」と言う文字は見当たらない。
ソファーに腰掛けると、ニュースは流し聞く形でスマホを開いた。直ぐに「放置子 保護」と検索をかける。
あまり参考になりそうにない記事ばかりが見出しを並べる。検索の仕方を変える必要がありそうだ。
SNSに画面を切り替え、「迷子」と検索をかけてみた。これも、「化粧の仕方が迷子」だとか「反応が迷子」だとか、平和な投稿ばかりである。
思い付いて、またネットから、検索をかける。今度は、ここら辺の住所と「迷子」と言う文字を打った。二つのキーワードを含む情報はヒットしなかった。
改めて、息を吐く。
もし、近所で騒がれていたとして、全国ニュースに取り上げられるようなことではないだろうし、騒ぎを知る術もない。
自分が生きている世界なんてのは、せいぜいこの近所。なんなら、会社と自宅の間くらいなものだ。自分の全ての世界の狭さと、本当の世界の広さを改めて感じる。あまりいい気のするものではない。
米が炊けた合図がして、スマホは手離し、キッチンへ向かった。ケトルでお湯を沸かす。味噌汁はインスタントだ。沸かしている間に卵焼きを作る。今日も砂糖は大さじ一杯。醤油の他に、マヨネーズと牛乳を少々。
卵焼き専用のフライパンに溶き卵を落とした時の、ジューという音と香りが好きだ。幸せなんてものは、こんなもので十二分に満ち足りている。
二人分の配膳を済ませたタイミングで、図ったように扉が開く音がした。振り返ると、野良が立っている。
「おはよ」
「…………」
「よく寝られたか?」
「…………」
「顔洗ってこい。ご飯にしよ」
「…………ん」
寝惚け眼のまま、首をこくんと頷かせ、野良はのろのろと洗面所へ向かった。
向かい合って手を合わせ、朝食を食べながら、あたかも今思い出したように「そう言えば」と切り出す。
「なんで俺の布団に入ってたの?」
別に責めるつもりはなく、純粋な疑問だった。改善点があるなら改善しておきたいと思った。
無言で黙々と朝食を食べる野良に、回答は期待出来なそうだな、と諦めかけた時、野良のカサカサな唇が咀嚼とは異なる動きをした。
「…………一人で寝たくなかったから……」
「!」
言うなり、また米を掻き込む。野良にとっては、もう会話はお終いらしい。それでも俺はまだ会話を続けていたかった。
「そうか。気が付かなくて悪かったな。えーと、ラノベ、読んだのか?」
「……ラノベ?」
「本」
「……絵本でも読もうかと思ったら、違った」
「なるほど」
小さくて難しい字が沢山書いてあった、と言われ、また白々しく「そう言えば」と切り出した。
「今日は火曜日だけど、学校は?」
「…………行ってない」
「そっか」
不登校。可能性は十二分に考えていたことだった。
「俺、もう少しで出勤しなきゃいけないから。鍵、渡しとく。この家出る時は、鍵閉めて。その鍵は持っててくれていい」
カードキーを一枚、机の上に置いた。先に「御馳走様」の手を合わせ、流し台へ食器を下げる。歯磨きをして、スーツを着る。
「好きなだけ居ていいから。テレビもネットフリックス観てもいいし。自由にしてろよ。あ、昼は帰れないから、冷蔵庫の中の、適当に食べて」
昨日コンビニで、パンツと一緒に買っておいた食料達だ。野良がいつまで居てもいいように、と思って。その時点で、学校に通っているという可能性は低いと考えていた。
「それじゃ、いってきます」
玄関で声をかけたが、見送る姿も「いってらっしゃい」もなくて、意外にも深く気落ちしてしまった出勤となった。
******
「課長?」
「ん?」
「何かありました?」
「エスパーか?」
心の中で答えるべきところを、うっかり口に出してしまった。
千里は「やっぱり!」と大袈裟に反応した。
「いつもの香水の香りがしません! それに、今日はお弁当じゃないし、さっきから心無しか上の空っ! 何があったんですか?! 女ですか!」
「いや、女なら香水は忘れないような気がします! なんですか?!」なんて、一人で騒ぎ立てている千里を横目に、コンビニで買って来たタマゴサンドに噛りつく。
「……野良を、拾った」
咀嚼しながら言ってしまってもいいものかと考えたが、飲み込んだ時には自然と口が開いていた。どうやら、誰かに聞いて欲しい気持ちがあったらしい。
「野良? 猫ですか?」
「まぁ、犬よりは猫だろうな」
「なんですか、それ。犬よりは猫が好きってことですか?」
「千里は犬っぽいな」
「あ、酷い。遠回しにディスってます?」
千里は手にしていたあんパンにやっと噛りついた。ブラックコーヒーをぐいと飲む。
「保護した猫が一匹でいるのが心配ってことです? 朝もバタついて、お弁当の用意が出来なかったってわけですか? なにそれ、課長可愛い。ポイント高い」
「千里は相変わらずよく喋るよな」
「そりゃ、課長と沢山スキンシップ取りたいですもん」
改めて千里のことを見る。こんなちゃらんぽらんな会話をしてくるくせ、本当に仕事が出来るから、読めない男である。小賢しく小首を傾げる仕草も、冗談の上乗せなのかよくわからない。
「今度、課長のお家に遊びに行ってもいいですか?」
「ダメ」
「やーん、即答なんて酷いですぅ。僕も可愛い猫ちゃんみたいです~!」
「却下」
「冷たい。でも好き!」
千里のスキンシップは非常に独特だ。このおちゃらけた部下と野良を会わせる場面を想像して、…………あれ?
(意外と、悪くないかも……?)
俺には溶かし切れない警戒心も、この馴れ馴れしい男だったら、溶かすまでとは言わなくても、その心へ踏み込んでいけるかもしれない。好意の塊みたいな男だし、この容姿である。それに、こいつはこれで発想がキレていて頭もいい。一人で悩むよりも、相談相手にもなるかもしれない。
まさか、この男にこの秘密の突破口を見出だすなんて癪だが……。
「……いつか、なら。いいぞ。来ても」
「えっ! まじっすか!」
「今日明日って話じゃないからな。今週の土日でもない」
「やだぁ~。めっちゃガード固いじゃないっすかー。いつかってのは、来月の五日のことですよね? もうすぐっすね!」
「言質取りましたからね!」と、にっこりとそれらしい冗談を言う千里に、先程こいつに活路を見出だしたつもりになったことを早々に後悔した。
このおちゃらけに野良を会わすのは、野良の人格形成上よくないかもしれない。
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