あの日の約束を今もずっと憶えてる

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 夜、視線を感じて目が覚めた。  山菜汁をたらふく食べて空腹が満たされると、押し込めていた疲労が溢れだしてきたように一気に眠気に襲われた。  避難小屋の片隅で寝袋を借りて寝ていたはずだけど、すぐ傍に誰かがいる気がする。それから、冬の朝のような冷やりとした空気。 「ユキナさん……?」  目を開けるとぼんやりとした視界の中に人影が浮かび上がる。ユキナさんなのだろうけど、寝る前とは何だか様子が違う。肌が血の気が失われたように白く、何より服装が大きく違っていた。寒いと感じるくらいの温度の中で、死者を思わせるような白装束。 「あら、目が覚めちゃったか」  声もさっきまで話していたユキナさんより冷たく透明だった。でも、なぜかこっちの方が本来のユキナさんの気がした。徐々に視界がハッキリしてくる。暗い避難小屋の中で明かりは囲炉裏の残り火くらいだったけど、ユキナさんの姿はそんな中でもはっきり浮かび上がって見えた。  まるで、日差しを反射して光る雪のように。 「まあ、ここまできて悩むなんてしてたら、起きちゃうか。失敗失敗」  舌を出すような口調だったけど、ユキナさんの顔は笑っていない。 「ユキナさん、いったい何を……」 「ねえ、フユキ君。本当にこんなところに避難小屋があると思った?」  ユキナさんの手が頬にあてられる。その手は氷のように冷たかった。 「それは……」 「ここはね、ノコノコと雪山にやってきた男を吹雪で迷わせて引きずる混む場所なの。この雪山自体がアリジゴクの巣穴で、この小屋がすり鉢の底みたいなものね」  ユキナさんの言うことはいまいち理解できなかったけど、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。油断しきっていた理性に対して、本能は今いるこの場所が一番危険だと警告しているようだった。 「そして、地獄の底で待ち受けているのは私」 「ユキナさん、貴方は……」 「私はね、ここに迷い込んだ男の生気を吸い取って生きる妖怪」  にっこりと、ユキナさんが冷たい笑みを浮かべる。思い浮かんだのは、雪山の怪談。生気を吸い取るということはつまり。 「俺を、殺す?」  口の中が完全に乾いていた。逃げなきゃと思うのに、体が全く動かない。  ユキナさんは表情を変える事無くそんな俺に顔を近づける。零れた息はぞっとするほど冷たかった。 「そのつもりで、貴方に生気をつけさせた」  ユキナさんは間近で僕の顔を見て、微かに表情を歪めてため息をつく。首筋に抜けていったため息すらも冷やりと冷たい。僕の頬に触れるユキナさんの手にぎゅっと力が込められて、それから僕の頬から離れていった。 「だけど、気が変わったわ。今回だけは、助けてあげる」  淡々としたユキナさんの言葉。それまでの薄ら寒い殺気のよう空気が、つかの間の晴れ間のように微かに緩んだ。 「……ユキナさん?」  安堵と混乱。突如それまでの態度を翻したユキナさんはプイっと俺から顔を背けてしまう。 「特別に助けてあげる。だけど、もしも今夜のことを誰かに伝えたら、貴方がどこにいようと私は貴方を殺しにいくわ」  ユキナさんはその言葉を残すと音もなく立ち上がると、すっと溶け出すように小屋から出ていった。視界に残ったのはパチパチと弾ける囲炉裏の火種と扉の向こう側でしんしんと降り続ける雪のカーテンが小屋と外の世界を仕切っていた。
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