あの日の約束を今もずっと憶えてる

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 どこを見ても視界に広がるのはただひたすらに白い世界。  容赦ない吹雪は、手を伸ばした先の視界すら阻んでいた。    大学のワンゲル部の仲間との卒業旅行を兼ねて訪れた冬山登山。  これまで何度も訪れたことのある山で、雪の積もった状態でも何度も登頂していた。  俺らにとっては庭のように登り慣れた山で、高さも大したことはない。もちろん準備はちゃんとしてきたし、天候は終日快晴の予定だった。  それは、いつも通り楽しい登山で終わるはずだった。  そんな予想が崩れたのは、山頂近くまできた頃だった。これまで経験したことがないほど急速に天候が悪化しはじめた。すぐに降りる判断をしたけど、数分とたたないうちに吹雪き始めた。  吹雪はさらにそこから強くなり、気がついたらワンゲル部の仲間とも完全にはぐれてしまった。この状態で迂闊に動き回るのは危険だとわかりつつも、とどまっていることもできなかった。殆ど感覚で山の麓を目指していると、ほんの一瞬だけ吹雪が緩んだ。 「あれは、灯り……?」  吹雪の切れ間から遠目にぼんやりと灯りが見えた気がした。この辺りに山小屋なんてあっただろうかと疑問が浮かぶけど、藁にもすがるような気持で明かりが見えた方に歩みを進める。  再び強風に乗って叩きつけてくる雪に阻まれながらもどうにか進むと、木造の簡素な建物が目の前に現れた。山小屋とも違う雰囲気だったけど、この際雪から逃れられるなら何でもいい。ドアを強めにノックすると、「どうぞ」という女性の声が返ってきた。  逃げ込む様に建物に入ると、土間以外は板張りの間が広がっていて、その中央に囲炉裏があった。囲炉裏の傍らでは女性が鉄鍋で何かを煮たてている。息を呑むほど艶やかな黒く長い髪に、そんな場合でもないはずなのに目を奪われた。 「どうしました?」  鍋から顔を上げた女性は若そうに見える。俺よりは年上だろうけどまだ20代半ばくらいだろうか。そんな女性がこんな山荘にいるのは不釣り合いに見えたけど、今はどうでもいい。囲炉裏からパチパチと火の粉が弾け、外の寒さが嘘のように山荘の中は暖かかった。 「急に吹雪いてきて、道に迷ってしまって……」  女性が窓の外に目を向ける。相変わらず少し先の景色が見えないほどの悪天候だ。 「大変だったね。それなら、天候が落ち着くまで休んでいって。この感じだと、もしかしたら明日まで吹雪くかもしれないし」  俺の方に視線を戻してふわりと笑った女性にほっと息をつく。ワンゲル部の仲間のことは気になるが、この天候で探しに行くわけにもいかない。ひとまずは自分の安全を確保するしかないだろう。 「ありがとうございます。ところで、ここはいったい……」  改めて山荘内を見渡す。囲炉裏を板の間が囲んだだけのシンプルな作り。簡単な家具はあるものの家や山小屋としてはシンプル過ぎる気がした。 「ここは……避難所みたいなもの、かな。この辺りは道に迷ったり、貴方と同じように天気が急変して立ち往生する方が時々いるから」 「そうなんですね。知らなかった」  あるいは本来の登山ルートから外れたところにあるから気づくこともなかったのかもしれない。それに、避難小屋ということであれば造りのシンプルさには納得できた。あくまで一晩難を逃れられればいいのだろう。  荷物を降ろして土間で体についた雪を払い、囲炉裏を挟んで女性の向かいに座る。女性は春先にハイキングでも行くような服装だった。囲炉裏の近くはかなり温かいとはいえ、流石にそれで寒くないんだろうか。 「どうかした?」 「あ、いや。えっと……」  じっと見つめてしまっていたことに気づいたのか、女性が俺を見ながら首を傾げる。そんな何気ない仕草にドキリとして、何も言えないでいると女性は意を得たりとでもいうようにぽんっと手を打った。 「あ、そっか。私の名前ね。ユキナっていうの」  どうやら何と呼ぶか悩んでいたように見えたらしい。別にやましいことをしていたわけではないけど、ホッと息をつく。 「えっと、俺は冬樹っていいます」 「よろしくね、フユキ君」  にこりと笑みを浮かべるユキナさんにグッと体温が上がる感じがした。ユキナさんと話していると不思議とこんな悪天候に見舞われたことも幸運だったように思えてしまう。その笑顔をまっすぐ見ているとどこまでも体温が上がっていってしまいそうだったので、少し視線を逸らしながら深呼吸をする。  ユキナさんは「ちょっと待っててね」と立ち上がると奥の方から大きめのお椀を二つとってきた。ユキナさんが囲炉裏につるされた鍋の蓋を開くと、湯気とともに美味しそうな香りが漂ってくる。 「山菜汁。この辺りで採れたものだけど、温まるから」 「ありがとうございます」  熱々のお椀を受けとると味噌の香りが強く広がった。一口飲むと旨みと熱が身体の奥に染みわたり、生きてるって実感が強く湧きおこってくる。そのまま夢中で山菜汁を飲み干すと、ユキナさんはすぐにおかわりをよそってくれた。 「今日はフユキ君くらいしか来ないだろうから、気にせず食べてね」 「そんなに何人も来ることもあるんですか?」 「日に寄りけりかな。誰も来ない時もあれば、ここがいっぱいになるくらいの人が来ることもあるよ」 「へえ……」  慣れ親しんだ山だけど、冬山というのはやはり厳しいのかもしれない。改めてそのことを感じながら山菜汁を口にする。人心地着いてるからか、二杯目は旨みを強く感じた。 「フユキ君はどうしてこんな時期に山に登ろうと思ったの?」  自分の分の山菜汁を口にしながら尋ねてきたユキナさんの言葉は責めるようなものではなく、純粋に興味があるようだった。 「大学のワンゲル部のイベントですね。あ、でも俺、もともと冬が好きなんです」 「……冬なんて寒くて陰鬱で、嫌なものじゃない?」  ユキナさんが物憂げに息を付いて、片眉を小さく持ち上げる。  似たようなことはよく言われる。冬が好きと言って同意されたことはほとんどない。 「冬の静けさの中にいると自然の中の一部になれるような気がするし、雪が陽の光を反射させてキラキラしてるところなんか最高に綺麗だと思うんですよ」  名前に冬が入ってるから贔屓目が入ってるんだなんて言われるけど、きっかけは何であれ季節の中では一番冬が好きだった。だから、冬山に登るのはいつだってワクワクするし、生きてるって活力を与えてくれる。 「冬のことを嫌う人は確かにいますけど、こうして冬に山に積もった雪が春先の農業には欠かせなかったり、冬の寒さによって春に綺麗な花が咲いたりする。人から嫌われても、その先の季節のための準備をする冬に自分を重ねてるのかもしれません」  山菜汁の残りを食べるのも忘れて思わず語ってしまっていた。我に返ると向かいのユキナさんはポカンとした顔で俺を見ている。ああ、またやってしまった。冬が苦手とか嫌いとか言う人が多いせいか、好きな季節の話になるとつい熱が入ってしまう。 「あ、すみません。いきなり語っちゃって……」  冬山で迷ってきた筈の人間が冬の良さをいきなり語るなんて、引かれても仕方ない。恐る恐るユキナさんの様子を伺っていると、ぷっと吹き出したユキナさんが表情を崩す。 「いいの、ちょっとびっくりしちゃっただけ。これまで来た人にそんな風に冬を好きだって言う人、いなかったから」  ユキナさんは左手で髪を耳にかけながら、山菜汁の鍋をお玉で軽く混ぜる。 「さ、どんどん食べて。明日は新雪を踏み分けて下りなきゃいけないんだし、しっかり栄養付けてゆっくり休んでね」
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